海神の総本社・志賀海神社
 


漢の倭の那の国王の金印出土地 

みなさま、良いお年をお迎えになったことと思います。
今年初めての講演会は一月九日の福岡県から始まりました。(^o^)丿

次の日、主催してくださったお二人のご好意で金印が出土したという志賀島に行くことができました。以前に東京の国立博物館で金印を見たとき、余りの小ささに「えぇ〜? これがあの教科書に載ってる国宝の金印なんやぁ〜〜!」 と、とても驚いた記憶があります。(本物は福岡市博物館)

その後、いざなぎのみそぎから生まれた海の神様「底・仲・表の綿津見神」三神の総本社の志賀海神社を調べた時に、あの金印はこの神社と同じ島から発見されたものだということを知りました。

福岡県は古代は「那国・なの国」遣唐使たちが船出した港は「那の津」と呼ばれていました。
木の多い和歌山が「木の国」阿蘇山の麓の国が「火の国」と呼ばれるのは単純で判るのですが・・・「ナ」というのは何を意味しているのかとさんざん考えた結果、、空海の子どもの頃の名前が真魚(マナ)とういうところから、もしかして「ナとは魚(さかな)のナ」ではとひらめきました。昔は生きている魚は(イオ・ウオ)料理して供える場合は(ナ・嘗める,ナメル)と言ったと案内してくださったY氏に教わりました。

だから難しく考えないで単純に「那の津」とは漁港のことで、「那の国」とは漁業をなりわいにしている海人一族の集団の「漁業の国」という意味ではないでしょうか?

魚の鱗のことを「魚子」と書いてナナコと読む所もあるそうなので、あながち私のひらめきは当たっているかも? それに古代から魚をナマで食べていた日本人は、今も昔も世界最大の魚消費国ですし。みなさんどう思われますか?
南国の雰囲気が漂う参道
以前から疑問に思っていたのですが・・・なんで?、博多湾の出口にある小さな島に海の神様・綿津見が祭られていて、その島から西暦57年ごろの(後漢)中国の文書に書かれた金印がでてきたのか? それって本物やろか〜〜? 半ば半信半疑で現地に足を運んで、ようやく、この島から出土した金印は紛れもない本物に違いないと納得することができました。

古代にこの志賀島を根拠地にして勢力を誇っていた海の民・安曇一族は高度な航海技術を身に付けていた潜水漁労「すなどり」の達人だったそうです。古代は鮑の中から出てくるあわび玉(天然の真珠)はめったに手に入らない貴重品(不老不死の仙薬・竜王の宝)でした。

今も伊勢神宮のアマテラス様への一番大切な供え物は新鮮な{あわび}です。私たちは本来の神撰は不老長寿を願っての、あわび玉ではなかったのか? と考えています。クレオパトラ時代のエジプトでは真珠一つで数カ国もの国が買えるほど価値あるものだったので、彼女はアントニーの気を引くためワインに入れて飲んだという話も伝わっています。

光武帝が金印を授けたのは在位末期の57年1月です。老いて死の床にあった光武帝は潜水漁法の名手たちを束ねる安曇一族の首長が、不老長寿の仙薬あわび玉(真珠)を山のように献上してきた見返りに金印を下授したのかも?。しかし、もはや手遅れだったようで、1ヵ月後に亡くなり、金印は何らかの理由で島の中に埋められた・。すごいロマンですね。
砂を肩の左右左と振り清める。      遥拝所(日の出の太陽が現れる?)
さて、志賀島は博多湾から長く延びた砂洲で繋がっています。昭和30年ごろまでは満潮時には船で渡ったそうですが、今は海の中道という細くて長い道路ができたので車で行くことができます。日本三景の一つ「天の橋立」のミニチュア版のような感じですね。

博多湾はこの志賀島の砂洲のおかげで玄界灘の荒波から守られ古代から天然の漁場・良港として栄えてきました。遣唐使や遣隋使の船がこの那(な)の津から出航し、菅原道真公で有名な大宰府もここ置かれました。

この日は朝から日本海上空に寒波が押し寄せ、福岡市内は気温が寒く雪がちらつく天候でした。しかし、志賀島につく頃には青空がでて、志賀海神社の参道ではさんさんと日が差しはじめました。

福岡市の神社としては交通安全や受験合格祈願の宗像大社や太宰府天満宮の方が一般的なので、三連休初日というのに境内は閑散としていました。

参道を歩きながら、植生や波動が沖縄の神の島・久高島の雰囲気と似ているな? と思ったのですが、拝殿の裏にポツンと古い珊瑚を置いて祀られている磯崎社のご神気を感じて一層その感覚が深まりました。

この磯崎社こそ、筑前の守だった頃の秀吉やその他の戦国大名が立派な社殿や楼門を寄進する以前から、安曇一族の人びとが海の安全を祈願して綿津見の神様をお祭りしていたウタキ(聖地)の名残に違いなのです。
        玄界灘の荒波          沖の宮と神遊瀬(引き潮のときは渡れそう?)
その後、晴明さんが島の中で気になった所があるとのことで、社務所でその場所を確認してくださったY氏が車で島の最先端(沖の宮)に連れていってくれました。

でも残念ながら満月近くの満潮時だったようで、お目当ての沖の島には歩いて行けず、強風に煽られて打ち寄せる白波と、社のありかを示す鳥居を砂浜越しに拝むだけにとどまりました。

この浜が「神遊瀬」と呼ばれ、神功皇后が三韓に行くときに道案内として海の精霊「安曇磯良・あずみのいそら」を呼び出すために神事と神楽を行った浜だそうです。このとき磯良は貝殻や海草を身に付けて海の中から現れ出たということですよ。

宮崎監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」の中で、この磯良も顔を白い布で隠した特異な姿で千尋の働く温泉に入りに来ていたのですが、気付かれた方もあるかも知れませんね。
次回は干潮時を見計らって沖の宮参拝に再度挑戦したいです。

家に帰ってからいろいろ調べて判ったことですが、この志賀島には温泉も田んぼもあって、古くから稲も作られていたようです。また、神社にはおびただしい鹿の角や頭骸骨(約一万頭)が奉納されているので、鹿肉も食べれたようですね。

古代から海の幸・山の幸に恵まれ、米も収穫できて完全に自給自立した生活が送れる離島だったので、安曇一族は獲物を分け合って穏やかに安心して暮らせたことでしょう。

この小さな島に海の神さま(綿津見三神)が祀られて安曇一族の本拠地になったのはとても納得のいくことですね。ちなみに久高島の漁民も古代から高い航海技術を持っていたそうです。鹿こそ獲れませんが井戸もいくつかあって、琉球王朝から一目置かれ、自給自足可能な(神の)島という意味では共通点があるような気がします。

ところで、国宝の金印の出土地は島の南西側(博多湾側)にあって、玄界灘からの風を防ぐことのできる場所で南から太陽が差し込む浜になっています。

丘の上には井戸跡もあるそうなので、ここが島の水の出る場所(聖なる井戸)として、安曇の首領の立派な館が建っていたことでしょう。金印が出た畑のあった場所は侵食が激しく、今は道路の下の海の中だそうです。

1784年(江戸時代)地主が水はけが悪いので小作に補修をさせていたら大きな石の蓋が出てきて石組みの中からピカピカ光るものがでたので、びっくりして届け出た。鑑定を依頼された黒田藩の儒学者が魏志倭人伝に書かれている「漢の光武帝から西暦57年1月に授けられた金印」と鑑定して大騒ぎになった。
このあたりの金印に関することは充分語りつくされているので省略しますね。

それよりも私は、金印を最初に発見し届け出たという志賀島の人々の正直さに感動しました。 (鋳つぶして武具の飾りにしようと言う話もあったようですが・・・、)さすが、現金封筒が確実に届く正直者の国・日本の原点を安曇一族に感じます。

三韓に渡る神功皇后の船の舵を取ったという安曇磯良(あずみのいそら)も「正直で剛直」信頼の置ける人柄だったに違いありません。だからいまでも日本中に安曇(あずみ)の地名のつく所がたくさんあって(長野・安曇野。滋賀・安曇川。愛知・渥美半島など)、その人柄の良さで各地に広がっていったのでしょう。

(写真は、金印のキーホルダーと金印)


ところでこの日、偶然、志賀海神社の宮司様にお目にかかることができました。お名刺に『宮司・安曇磯和」と書かれていて背筋がゾッとするほど感動しました。

最後に、この志賀海神社に古くから伝わる特殊神事(福岡県無形民族文化財)俗に「山ほめ神事」という春のお祭り(四月十五日)のことをお伝えします。

この神事の中で、まず初めに志賀島の三つの山を誉める言葉が社家の方々によって掛け合いで唱えられます。続いて「君が代は、千代に八千代に、さざれいしの、いわおとなりて、こけのむすまで」と言う言葉が歌われます。神功皇后にこの神事をお見せしたところ大変お喜びになり「志賀の浜に打ち寄せる波が途絶えるまで伝えよ」と言われたそうです。以来、2000年以上の間、志賀海神社に伝わっているお祭りだそうです。国歌「君が代」の原型と言われています。安曇一族の信義の厚さが感じられますね。



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