神の波動を感じて生きるB
宮迫千鶴/月間波動 2002/2月号
文・構成 宮崎みどり

神の光に包まれて
〜自然にそって素朴に謙虚に〜

画家でありエッセイストの宮迫千鶴さんは、1970年代の終わりから80年代にかけて、団塊の世代の女性たちのオピニオンリーダーとして活躍した才媛である。しなやかな語り口で男女平等論を主張し、女性の立場に立った独自の文化論や家族論、社会評論などは、当時、男性と肩を並べて働き始めた多くの女性たちの指針となった。

現在宮迫さんは東京を離れ、画家のご主人と二人で伊豆高原の豊かな自然の中で暮らしている。明るい日差しの下、雑木林に囲まれたお気に入りのアトリエで、美味しいケーキとお茶をご馳走になりながらお話を伺った。

魂との出会い
伊豆高原に転居されてから、
宮迫さんの考え方が大きく変わったとお聞きしていますが


そうですね。伊豆高原に移住したのは14年ほど前のことです。その直前の二年間、ガン宣告を受けた父の看病のために私は故郷・広島と東京を往復しながら仕事をしていました。その間、手当たり次第にガンに関する民間療法や、東洋医学の本を購入し、別れや死についての本、死後や転生の本、シャーマニズムや精神世界の本など、目に付いた本を片っぱしから読み漁りました。

それまでの私は、20年近い東京暮らしの中で、西洋医学一辺倒の合理的な考え方が身についていました。だから「体は体の病気、心は心の病気」と、きっぱり割り切って考えていたのです。その私が、魂の存在だとか霊魂の不滅だとかいう本を読んでいるうちに私の中で科学的、唯物的な考えが音もなく崩れ去り、父が亡くなった時には、すっかり何かが変わってしまったような感じでした。


宮迫さんにとって、
お父さんの存在はとても大きかったのですね


私は生まれてから一度も、仲の良い両親の姿を見たことがありません。父と母は戦後の混乱期に、家同士のお見合いで結婚しました。そのためでしょうか相性がとても悪く、いつも二人で言い争っていたのです。私は物ごころついた頃から、ケンカしている両親の姿を見ながら「私はこの先どうなるんだろう?」と部屋の隅で一人で考えていました。

結局7歳の時に両親は離婚し、母は再婚するために私を父に渡したのです。そして小学校卒業まで祖父母のもとで育ちました。その後、中学の時に父は連れ子同士で再婚しました。けれど私もちょうど思春期でもあり、義母も連れ子を偏愛したので再婚家庭はうまくいきませんでした。そして父は再び新しい家族と別居して、私と二人だけで暮らす道を選択してくれたのです。


ではその後はお父さんと二人の父子家庭だったわけですね

ええ、大学に入って一人暮らしをするまでは父と一緒でした。
父はまるで男の子を育てるようにして私を教育しました。いまでもその頃のことを思い出すと可笑しくなって噴出してしまうのですが、ご飯の炊き方を私に教えようとして、軍隊時代に使った飯ごうを持ち出し「めしはこれでも炊ける」といって一生懸命に炊いて見せてくれたのです。それからゲートルの巻き方も教えてくれました(笑)

父は「これからは男女平等の社会になるから、女も手に職をつけて自活しなくてはいけない」と口癖のように言っていました。

高校を卒業し、大学の進路を決める時に突然「私は美大に行きたい」と言ったら「お前には絵の才能があるとは思えん」と言われて反対されました。しかたなく画家になる夢をあきらめて広島女子大の国文科に進学し、卒業と同時に自活するために一人で東京に出たのです。

でも、父はその後、私が画家として個展を開くまでになったので亡くなる前に「すまんかったのお」と言って謝ってくれました(笑)


当時、東京での女性の一人暮らしはさぞ大変だったことでしょうね

もちろん初めから仕事が順調にいったわけではありません。小さな出版社やファッション関係の雑誌社など転々としながら、一生懸命に自活していたのです。でも絵描きになる夢もあきらめていたわけではなく、休みの時には好きな絵を描いていました。

その頃、ふとしたご縁で絵の評論を雑誌に書いてみないかというお誘いがあり、それが好評で次々に仕事が舞い込んできたのです。そして、社会評論家などといういかめしい肩書きをもらって評論活動をしているうちにだんだん絵が描けなくなっていました。

父は都会の中で一人暮らしをしている私の健康をいつも心配してくれました。もともと野菜作りや庭仕事が大好きな人だったので、祖母の畑で父が育てた無農薬の野菜や沢庵漬けなどををしょっちゅう東京に送ってきてくれました。でも当時、コンクリートジャングルの中で神経を張りつめて生活していた私にとって、父の育てた野菜たちがどういう風に育っていたかなんていうことには全く興味はありませんでした。

伊豆高原の光
お父さんの死は、
宮迫さんにとって大変な痛手だったことでしょうね


父を失った喪失感はとても大きいものでした。
伊豆高原への移住と父の死が偶然にも重なったものですから、ここにきてしばらくは何も手につかないでボッーとしていました。

東京に比べて伊豆高原の光はとても明るく強烈でした。海に反射して照り返すまばゆい光、雑木林の中を潜り抜ける風の音、若葉や夏草の匂いなどに触れているうちに、ようやく父の作った野菜たちの生命の尊さに気がつきました。父を亡くしてはじめて「いのち」を見る目が大きく変わったのかもしれません。

それまでの私の感覚で言えば「身体」を表す言葉としては、極めて無機質で、あたかも車体のような硬さと構造を持つ「ボディ」という表現がピッタリだったのです。ところが、父の死を見つめ直している過程で私はようやく生命の深さに気づいたのです。そしていつの間にか「ボディ」から柔らかくてしなやかな魂と密着した「からだ」という表現方法へと変化していったのです。

とくに最近の宮迫さんの描かれる絵は、
明るい色彩に満ち溢れていますよね


人は住む土地の力に左右されるということが、伊豆高原に来て始めてわかりました。ここに住みはじめてしばらくして気がついたのですが、この土地は私が子どもの頃に暮らしていた広島の田舎の町にとてもよく似ていたのです。父親と浜辺を散歩しながら浴びたまぶしいばかりの夏の日差し。木々の緑と土や野草の香り、草いきれのする風、広がる空と遠くに見える海。

それらは何もかも、私が子ども時代に見慣れていた瀬戸内海の景色にそっくりだったのです。伊豆高原の光と風に包まれながら、その一つ一つを思い出していくうちに子ども時代の記憶が次々とあざやかに蘇り、私の心と魂が徐々に癒され明るく元気になり始めたのです。

至福のときを体感
ここはまるで別世界のように感じますが、
このアトリエは宮迫さん専用のアトリエなのですね


そうです。連れ合いも絵描きなのですが、私が父の死から立ち直り始めた頃、再び絵を描きたいという思いが、強く湧き上がってきました。それまで、自宅二階のアトリエを二人で共用していたのですが、数年前に雑木林に囲まれたこの庭付きの古家を見つけてすぐに気に入り、思い切って購入しました。

幼い頃、家の中は崩壊していたのに、庭だけはとても豊かでした。いまでも父が丹精していたイチゴの真っ赤な色は忘れられません。このアトリエで庭いじりが好きだった父を思い出しながら、見よう見まねで花や野菜を栽培しています。その野菜たちが私に絵のイメージをどんどん与えてくれるのです。

自分では意識していなかったのですが、近頃では絵に使う色までが明るく鮮やかに透明になってきたと人からよく言われます。私はいま、このアトリエでボサノバやサンバ、サルサなどのリズミカルなラテン音楽を聴いて一人で踊りながら絵を描いています。こんな私の姿を父が見たらきっと喜ぶことでしょうね。


すばらしいひとときですね。
宮迫さんが「神の波動を感じる時」なのでしょうか?


私の場合、神というものを言葉で語るのは苦手です。
神は愛だとか、光だとか聖書に書かれていますが「神」を言葉にするとむなしく感じてしまいます。というのも、中学・高校をカトリックの女子校で学んだので、押し付け的な宗教教育の後遺症みたいなものが私の中に残っているのです。ですから、宗教組織や団体、教義などにはいまだになじめません。

自然にそって素朴に謙虚に生きている人や動物、樹木や草、石、風のそよぎや空に浮かぶ雲、晴れやかな水平線などを見たり、ふれたりする時、そういった生命や風景の中に神の意味を私は感じます。いま私は、自分のアトリエの庭で花や野菜たちに囲まれて、土のそばにいる時が最高に幸せです。伊豆半島の明るい光を感じながら好きな絵を描いている時に一人で意味もなく笑いだしてしまうくらいに至福そのものなのです。

大自然を通して伝えられる神の波動を感じながら、まっとうに生きて死ねればうれしいですね。
もどる