神の波動を感じて生きるG
佐藤初女/月間波動 2003/7月号
文・構成 宮崎みどり


友のために自分の命を捨てる
これ以上に大きな愛はない

〜ヨハネ15章13節〜
龍村仁監督の映画「ガイアシンフォニー(地球交響曲)第二番で一躍脚光を浴び、母親像の典型として全国から慕われている佐藤初女さん。初女さんのもとには、さまざまな問題を抱えた人々が、日本中から相談にやってきます。ドアを叩くひとり一人に真心を持って接し、相手の話を気がすむまで聞き、美味しい食事でもてなして、心も体も癒やしてくれる初女さん。

昨年6月に最愛の一人息子を亡くされてからも、いつもと変わらず黙々と訪れる人のために食事の用意をされています。その姿に、すべてを神に委ねた信仰心の強さを感じます。初女さんの内面に少しでも触れたいと思い、まだ雪の残る4月の末に、岩木山麓にある森のイスキアを訪ねました。

心に共鳴した鐘の音
初女さんが最初に神との出会いを感じたのはいつの頃ですか?
4〜5才の頃、祖母の家に泊まりに行ったときに聞いた教会の鐘の音が、神さまとの最初の出会いと言えるでしょうね。

毎日、朝の六時と正午と夕方六時、一日三回どこからか鐘の音が聞こえてきたのです。

その頃、祖母の家の付近はとても静かなところでしたので、布団の中で聞いた早朝の鐘の音は、とくに神秘的で子ども心にも不思議な感じがしたものです。

どこで誰が鳴らしているのだろうと思って祖母にたずねると「あの鐘は近くの耶蘇(カソリック教会)で鳴っているんだよ」と教えてくれました。

自分の目で確かめたくて、なんどか従妹と二人で手を繋いで鐘の音を頼りに足を運びましたが、教会の前に着いたときには鐘はすでに鳴り止んでいました。

その頃の教会の建物は整然としていて、近寄りがたく、幼ない私の目には閉ざされているような感じに見えました。どうしても門の中に入ることができないまま、むなしく帰宅したことをいまでもよく覚えています。

教会の鐘の音と初女さんの魂が共鳴したのですね
そういうことになりますね。

その鐘の音がずっと消えることなく私の中で鳴っていたんです。今から80年近い昔のことでした。祖母や母は「日本には日本の宗教がある」と言って教会に行くことを好みませんでした。でも私は、小学校時代に救世軍の後をついて歩き、親たちに隠れて日曜学校にも通いました。その後、函館山の中腹にある女学校に入ったのですが、体を壊して青森に帰りました。

そして戦争中は外人の神父さまもシスターも帰国のやむなきに至りましたので、求道生活は中断されました。結局、最終的に私が洗礼を受けて入信したのは、結婚して一人息子を授かってからのことでした。

当時の私はとても体が弱く、お医者様から妊娠を継続することは、母子共に危険なので強く中絶を勧められました。私はその診断を素直に受けられず『大丈夫だ』という体内からの促しに沿って出産を決意し、無事に男子を産みました。

しかし出産したものの、胸に負担がかかるので抱っこしてやることさえできないほどでした。息子が幼稚園に入るころまでは、私は寝ていることが多かったので、私がいなくなっても神様と結ばれているなら安心だろうと思って、二人で教会に通い、一緒に洗礼を受けました。

息子が小学校一年生のときでしたから、私が始めて鐘の音を聞いてから30年以上は経っていたでしょうね。

息子との突然の別れ
昨年の六月にその一人息子さんを亡くされたのですが、
毅然として日々の生活をされている
初女さんの姿には感動すら覚えます。
信仰のせいでしょうか?

息子の突然の訃報に接したときは、一瞬その場に立ちすくみました。

息子を亡くした悲しみは抑えがたいものでしたが、できてしまった事を悔やんでも仕方ありません。

さすがに一月間ほどは周囲の配慮もあって講演会も休ませて頂きました。しかし、私は息子が望んだように生きていくと決め、そうしてからは心が落ち着きました。それに不思議なことに、私と同じように一人息子を亡くした方が、直後に三人もイスキアに訪ねてこられたのです。その方たちは私の息子のことは何も知らずにこられました。そして、ご自分たちの悲しみのすべてを話して帰られました。

私はその三人の方々のそれぞれのお話を聞いているうちに「私も落ち込んでいても仕方ない」と気づきました。

神様が同じような境遇の人たちを私の元によこしてくださり、悲しいのは自分だけだと思ってはいけないと教えて、目を覚まさせてくださったのかもしれないと思っています

初女さんにとっての神さまとはどんな存在なのでしょうか
今から17〜18年前のことです。ある日の夕方、私は立っていることもできないほど体が辛くて、布団を敷いて早く休もうと思っていました。

ところがちょうど寝ようとした時に人が訪ねてきたので「体が辛いから、私は今から休むところなんですよ」と告げました。しかしその人は私におかまいなく、自分のことを一方的にしゃべりだしていっこうに帰る気配がありません。

『この人には今が必要な時』と思って話を聞いたのですが、なかなか終わらないので、休むことをあきらめて簡単な夕食を準備して二人で食べました。そして充分話したら落ち着いて帰られましたので、私も床につくことができました。

次の日はミーティングの予定が入っていましたので、早朝から青森に行かなくてはなりませんでした。私は夕べのこともあって体が辛く、このまま青森に行っても向こうで倒れて帰れなくなるかもしれないと思いながらも汽車に乗りました。

ちょうど7月末だったので汽車の窓は全部開いていました。弘前と青森の中間位まで行ったとき、温かい乳白色の空気のようなものが窓から流れてきたのです。

ハッと気づき目で追うと、その乳白色の流れに沿って『友のために自分の命を捨てる。これ以上大きな愛はない』という「聖句」が文字になって私の前を流れ、一瞬にして消えました。

私はあまりのことに呆然として辺りを見回しましたが、周りは何も変わっていませんでした。きっと神さまが私にだけその聖句を見せてくださったのかも知れません。本当に不思議な体験でした。

神さまとの不思議な出会いだったわけですね。
長い間、この聖句にふれるたびにどうしても理解できなかったのですが、この体験を通して『友のために命を捨てる』ということは、この肉体を失うことでなく、肉体を失うほどの苦しみを受けることを指しているように考えさせられました。

もし私が、体が辛いからと言って訪ねてくださった人を断ったなら、この体験は得られなかったと思います。

思えば不思議な体験でしたが、そのあと元気をとりもどし青森でのミーティングも無事に済ませて家に帰ることができました。

それ以来、訪ねてこられる方々には、その時間を捧げる気持ちで受けたいと思っています。

いつも傍にいる息子
その聖句は息子さんが勤務されていた
弘前大清水学園のマリア像にも刻まれていますね。

そうです。亡くなった息子は福祉施設・弘前大清水学園の施設長をしておりました。息子が永年お世話になった記念にと思い、小さなマリア像を寄贈させていただきました。そこになにか言葉を刻みたいと申し出てくださったので、最初にひらめいたのがこの聖句でした。

52歳で主人を亡くしたときもショックでしたが、年齢が離れていたので夫が先立つことは覚悟していました。

さすがに80歳をすぎてから、一人息子に先立たれたときには余りにも思いがけないことなので言葉を失いました。しかし、いくら人間が緻密な計算をしたところで現実はそうはいきません。

息子を思い出したときや亡くなった人の話をした時にはその人が傍にいてくれると確信しています。それが復活だと思うのです。

二年前に弘前の小学校の母親クラブで講演をさせていただいたときに、主催者が息子に依頼して、私宛に書かせた一通の手紙が残っています。その中に「病弱だった母が信仰的に決心し、神さまのお恵みとして(僕を)出産したと聞いています。命をいただいたことに感謝しています」と書き出し、終わりに「自立した女性の生き方として、母を尊敬しています」と結んでくれています。

私の活動を理解してくれていた息子が望むように、いまこの一瞬一瞬を大事にして神様にすべてをゆだねてこれからも生きて行きたいと思います。

ありがとうございました。

プロフィール
1921年青森生まれ。青森技芸学院(現・青森明の星高等学校)卒業。小学校教員を経て、弘前学院大学非常勤講師。83年自宅を開放して「弘前イスキア」を開設。92年に岩木山麓に「森のイスキア」を開く。95年にガイアシンフォニー第二番に出演し、活動が全国的に知られるようになる。

もどる