神の波動を感じて生きるH
村山流家元・村山左近/月間波動 2003/9月号
文・構成 宮崎みどり


舞の道(マイウエイ)を究める

故事にならって六歳の六月六日から日本舞踊を習い始めて50年。

歌舞伎舞踊・村山流家元の村山左近さんは舞の真髄を極めていくうちに、源流である神事舞の研究に没頭した。

10年前に村山流の家元の名を継承してからは、さらに舞いの原点を求めて伊勢神宮で祭祀舞を習得し、寺社などでの奉納を続けてきた。

そして昨年ついに通信教育で神職の資格を取得、大阪府柏原市の山麓にある小さな神社、二宮神社(ふたみや)の神主(権禰宜)となった異色の女性神主である。

神さんから授かった赤ん坊
小さい頃から日本舞踊を習われていたそうですね
私の家は酒屋を営んでおりましたが、永い間子どもに恵まれませんでした。両親がお酒の守護神・奈良の三輪明神を信仰していましたので、母が「どうか子どもを授けてください」と三輪の神さんに願掛けして生まれたのが私だったということです。

私は戦後の物の無い時代に生まれましたが、いつも絹の着物を着せられていたそうです。その当時は礼儀作法と子女の教養の一つとして日本舞踊を習わせる家が多かったので、私も六歳の六月六日に踊りを習い始めました。芸事の世界ではその日にお稽古を始めると上達すると言い伝えられているのです。

信心深い母に連れられて神社やお寺にお参りするたびに「あんたは特別な子や、神さんの加護があるんや」そう言い聞かせられて育ちました。

家は特に裕福でもなかったのですが、私だけはいつも特別扱いで、声楽やバレエ、習字や水泳なども習わせてもらいました。

今にして思えば親類の者から、お前は「貧乏人のお姫さん」だったなと言われて笑われているのです。(笑)

ところで村山流・歌舞伎舞踊とは何ですか?
歌舞伎の舞台で舞われる華やかな踊りのことです。一般の方には日本舞踊と言う方がなじみやすいでしょうか?

芸能史などではその発祥は約400年前の出雲の阿国(いずものおくに)という女性が始めた「ややこ踊り」や「念仏踊り」が源流だと言われています。

阿国は出雲大社修復のため、都(京都)に出て北野天満宮などでお金を集めるための勧進興行を行いました。

私どもの村山流は、阿国の恋人で相方だった名古屋山三郎の弟子、村山又左衛門が始祖と言われております。その三男の村山又三郎が江戸に下り村山座を開きました。

阿国は出雲大社の巫女だったそうです。ですから舞踊の源流は、神さまに奉納する神事が原点にあると私は考えています。

いまでこそ、歌舞伎は伝統的な古典芸能として世界的に評価されていますが、本来、歌舞伎(かぶき)とは「傾く」とか「傾きもの」という意味なのです。

異様な風体で見たことも無い奇妙な舞をする人々の集団。現代的に言えば前衛的パフォーマーとでも言いましょうか、出雲の阿国の一座は当時の都の人にとって、びっくりするような奇抜な踊りをする集団だったことでしょうね。

舞の道を究める
神さまと舞の関係について教えてください
ある日、私は神前に向かい神さまに対して「私はもう人間には弟子入りしません。これからは神さまの弟子にならせて頂きます」と申し上げました。その時、神さまから『舞の奥義』を伝授されました。

その奥儀というのは、八方を守れ(自分を中心として東西南北とその間の八つの方位を崩してはいけない)ということと、体の垂直と平行移動の方法です。それらが直感で閃き、舞の基本を一瞬のうちに会得させて頂きました。以来、村山流の舞いも変わり、人生も変わり始めたように感じております。

「歌う・舞う」ということは人間が本来持っている本能の一つです。目に見えない何者かに感応して、喜怒哀楽を表現する身体方法が人が踊り始めた最初なのではないでしょうか?

大地にまっすぐ立って呼吸を整え、姿勢を正し、無心になって、まず息を全部吐き出します。そして次に神の波動を感じながらご神気を体内一杯に吸い込み充満させます。しばらくこれを繰り返しているうちに自然に手足が動き出します。それが神楽や巫女舞となったのだと思います。

舞とは人の中に内在する神聖と神が融合したとき、自然の流れに沿って身体が動き出すことだと思っています。無心になり、力まず丹田に気を集中し、目は半眼にして、周りの空気を乱さず所作をすることが神を楽しませ、自分も癒やされ、神と一体になって舞うということではないでしょうか?

ところで今まで50年間ずっと村山流をされているのでしょうか
始めの40年は花柳流でした。6才から家元直系の師匠に入門し、花柳寿名也(すなや)という芸名で舞台に立ったり松竹の振り付けの仕事などをしていました。

しかし、平成四年に東京大歌舞伎の重鎮で村山の名跡を持つ市村吉五郎先生から「あなたは村山流を名乗りなさい」と突然に命じられたのです。

村山は江戸三座の一つという400年近い由緒ある名跡でしたが名前を継ぐ人がいなくて長い間絶えていました。村山の家元を継ぐことは考えれば考えるほど荷の重い仕事です。

また40年間親しんできた花柳流の師匠や仲間たちにも心が残りとても迷いました。そこである日、一人で稽古場の鏡に向かって自問自答しました。

鏡に映った自分に「お前は誰ですか? 花柳寿名也ですか? 家元村山左近ですか?」と何度も何度も尋ねているうちに、村山と問いかけた時の方が私自身が輝いて見えたのです。

こうしてようやく村山の名前を継承することを決心し、永年お世話になった花柳流の家元に話を通して平成五年、円満に村山左近を襲名しました。

その左近さんがなぜ神主になられたのでしょうか?
神しくみだったのでしょうね。

主人は娘と私を残して早くに他界しました。未亡人となって呆然としていた時に、ある方から「あなたには踊りしかない。これからは踊りで身を立てなさい」と励まされ、弟子を取ったり、新劇の舞台の振り付けなどをして舞いの道一筋に生きてきました。

その後、縁あって村山流の家元になってからは、これまでにも増して舞の道を探求したい、その源流を究めたいという思いが強まったのです。

図書館に通って村山の原点を調べていくうちに、出雲の阿国に繋がるのであれば、神社の巫女舞や神楽を学ばなくてはいけないと気づき伊勢神宮で祭祀舞を学びました。

このことをきっかけにしてもっと神道の祭式を学びたいと思うようになり、54歳の時に神主の通信教育を受講する決心をしたのです。

神職の資格を持つ踊りの家元として、
今後何をされたいのでしょう

村山流を継承したおかげで神さまにご縁ができ、舞の道を探求し続けているうちに、ついに神さまに導かれて神職となりました。

神社本庁から神職の免状を頂いてすぐに、ある宮司様のご紹介で「大阪府柏原市にある二宮神社に神社に奉職しませんか? いずれは宮司になって頂きたい」というありがたいお話を頂きました。

二宮神社は永年宮司様が遠方にお住まいでしたので、境内に人の気配が無く寂しい神社でした。社務所に住み込んで神社の神主(権禰宜)として奉仕するようにとのことでした。

神主としては無給ですし、社務所の光熱費、神社の神饌も自腹ですが、村山流の踊りや巫女舞、神楽舞の稽古場として使用しても良いという好条件ですので、私にとってはとてもありがたいお話です。

今はまだ奉職しはじめたばかりですが、いずれはどこにも負けない祭式と、一流の神楽や巫女舞を奉納できる神社として皆さまに認めて頂ける立派な神社にしたいと考えています。

いまは弟子たちと力を合わせて、朝晩、境内や拝殿のお掃除に明け暮れております。神社が清まり、波動が大変高くなったと言ってくださる方がいて、氏子さんたちも喜んでくださっております。

これからは、若い方々に神楽や巫女舞、歌舞伎舞踊を教えて、日本の文化や、芸能を伝えてゆくつもりです。

二宮神社にご奉仕しながら、花柳寿楽師匠(人間国宝)の内弟子に入門している娘や弟子と共に舞いの道と神の道の両輪を究め続けて行きたいと思っております。

ありがとうございました。

プロフィール
1946年大阪生まれ。幼少の頃より日本舞踊花柳流に入門し、卓越した才能を評価され名跡、村山流家元として推挙される。出雲の阿国に繋がる縁から、神前での巫女舞の研究に入り伊勢で神楽舞を習得。2003年4月、通信教育で神主の資格を取得した。同人4人と古典芸能伝承グループ「究の会」を結成。現在大阪府柏原市安堂町19−9。二宮神社権禰宜。
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