子どもを通じて

 

 このところ、子どもが巻き込まれた事件事故を新聞などでよく目にする。大阪の小学校で起こった児童殺傷事件、兵庫で起こった花火の将棋倒し事件、北海道で起こった強盗殺人事件、栃木で起こった児童誘拐事件などだ。また、家族が子どもを放置したり、暴力を加えるといった児童虐待の事例も珍しいものではなくなった。こういった私たちが知ることのできる事件事故は、そのほとんどはニュース報道を通じてしか、知ることができない。となると、実際に何らかの苦境に立たされている子ども達は、私たちが知っているよりもずっと多いのではないだろうか。

 最近読んでいた本に「ハンドブック子どもの権利条約」(岩波ジュニア新書・1996)がある。学生時代に図書館でひまな時間にぱらぱらと読んでいたのだが、先日古本屋で見つけ手にとってしまった。1989年に国連で採択された「子どもの権利条約」についての高校生向けの簡単な本でエピソードなどを交えて、条文ごとの解説をしている。20世紀、この条約が採択されるまでの子どもを巡る状況は過酷な状況にあった。二度の世界大戦や今もなお続く戦争、内戦の数々、貧困や飢餓にあえぐ子ども達のために、21世紀は明るい未来を・・・と条約の掲げた目標にも係わらず、21世紀に入ってからの子どもを巡る環境はむしろ一層厳しいものになっているのではないかと思う。そう思うと、この条約を今だからこそもう一度改めて読み返してみることが必要ではないだろうか。

 自分の体験談になるが、母の勤め先の4歳になる子どものお守をすることがあった。どうも子どもの扱いになれていないせいか、どう子どもと向き合っていいものか右往左往してしまった。リビングにあった人形や携帯電話を人形に見立てで遊んだり、ギターを弾いてあげたり、音楽を聞かせたり・・・反面、何か壊してしまうのではないか、タバコにいたずらしないだろうか、転んだりしないだろうかと、目を離すことができずにハラハラし通しだった。わずか数時間のことだが、子どものお守から解放された時にはぐったりとしてしまった。それでも、ほっぺたにチョコレートをつけていたり、楽しそうに遊んでいる姿を見るとこちらも穏やかな気持ちになる。

 一個人の感性なのかもしれないが、子どもの巻き込まれた事件事故の報道に感傷的になってしまい、「子どもの権利条約」に関する本にのめりこんでしまったり、子どものお守にハラハラし、時には穏やかな気持ちにさせられる。つい子どもというだけでこれだけの感情を込めてしまう理由の一つには、子どもってのは弱いもので、誰かが見守ってやらなければならないって気持ちがあるのだろう。しかし、他方で「子どもは未熟なものだ。だから私たちが守ってあげなければならない」と決め付け、あれやこれやしてあげるのもいかがなものだろうかとも思う。先にあげた「子どもの権利条約」でも、子どもを保護するという理想と共に、子どもを一人の人間として尊厳のある扱うことを求めている。確かに条約に書かれていることは、大人であろうと子どもであろうと、当然人間が享受すべきものが述べられているに過ぎないものでもある。

 むしろ、子どもが未熟であると決め付けてしまうと、じゃ大人は成熟しているのだろうか?と疑問に思えてしまう。そもそも、人間なんて成熟できるのだろうか?完璧な人間なんているはずがないのではないか?というのが考えのが自然なんじゃないだろうか。となると、大人(この「大人」という概念自体が揺らいでいる節はあるけれど)が、今何をすべきで、社会にどう貢献するのかは、子ども達やこれから続いていく将来の子ども達に今できるだけのことは残しておき、ここからは君達に任せて置く、くらいの気持ちでいいのではないだろうか。つまり、現在に完全なものを求めるものではなく、いずれは何かしら改められることを見越した社会の在り方を模索していくべきではないだろうか。

 

 

 

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