「教育」について語ってみよう!!
この10月からのテレビ番組表をみると、どういうわけか「先生もの」が目白押しだ。あの「3年B組金八先生」の新シリーズや堂本剛くんの「ガッコの先生」、変わった役どころでは田村正和の「さよなら、小津先生」が夜9時代に並んでいる。まぁ、先生というと、このところ(これまでもか?)あまりいい話を聞くことは多くはない。セクハラやら、援助交際やら・・・(メディアで取り上げられること自体ニュースバリューによって仕分けられるのだから、こういったことばかりが目に付いてしまうのは仕方がないのでしょうが)。私自身も「教育」なんてものの極めて端っこの方ですがお手伝いさせて頂いていると、先生の職分である「教育」とは何ぞや?と考えさせられてしまう。
私の場合、TA(Teaching Assistant)なんていう、所詮はフリーターの粋を出ない人間なので、職業として「教育」に携わる人間ではない。ただ、ゼミなどでお世話になっている後輩の皆さんの何かの力になりたい、という希望だけはあるので、お手伝いとしてわずかながらの「教育」には携わっているのかもしれない。特に学問的な領域に関しては、何かしら意見を求められれば私の能力の許す範囲でアドバイスはしていきたいと思っている(この辺、将来のことや職業、ましてや恋愛については全く私の能力の範囲外なもので、なんともいえませんが・・・)。しかし、「研究」への一歩もままならない人間がどこまでアドバイスできるのだろうか、とこちらは毎回ハラハラしながら話をすることばかりだ。そこで「教育」、少なくとも私がわずかながら携わっている大学における「教育」とは、どのようなものであるべきかを考えてみたい。
そこで、まず大学において「教育」とはどのように位置付けられるのだろうか。おそらく、大学における「教育」となると、「研究」あっての「教育」の気質が強かったのではなかろうか。または、「教育」を考えることはあっても、「研究」とは全く別の次元でしか考えられなたように思える。この「教育」と「研究」とは、どのような関係なのだろうか。
例えば、この「研究」と「教育」の関係についてウエーバーは『職業としての学問』の中で次のように述べている。
「卑しくも学者としての学問を自分の転職と考える青年は、彼の使命が一種の二重性をもつことを知っているべきである。というのは、かれは学者としての資格ばかりでなく、教師としての資格をもつべきである。このふたつの資格は、けっして常に一致するものではない。非常にすぐれた学者でありながら、教師としては全くだめな人もありうるのである。・・・しかも、このような人々は決して特別の例外ではないのである。」(マックス・ウェーバー(尾高邦雄訳)『職業としての学問』18頁(岩波文庫・1987))
また、東大教授を務め、退官後早稲田で教鞭をとっている米倉は、次のように言う。
「研究と教育とは相互に邪魔物なのかどうか。この問いに対する私の結論は、これらは相互に邪魔物なのではなくて、相互に得しあう関係に立つということである。・・・研究心旺盛ということは知的好奇心、探究心が燃えているということであって、こういう人が講義をすると、チャレンジングな精神の充実が感じられ、それは学生の好奇心を書き立てずにおくまい。・・・逆に教育をしっかりしておくと、それは研究によりよい影響を与える。・・・学生にわからせるように準備することを通じて、まず自分がますますよくわかるようになる。学生にわからせるように語れないのでは、教師自身まだよくわかっていないのである。」(米倉明『民法の教え方 一つのアプローチ』18頁(弘文堂、2001))
ウェバーも米倉も、言わんとしているところは同じなのであろう。「研究」も「教育」も両方できるのが理想なのである。ただ、ウェバーにしてみれば、この二つはまったく異質なものだということなのだろう。これに対して、米倉はこの二つは、同質なものであると言いたいのであろう。
確かに、ウェーバーの言うように、「研究」に優れた人間が必ずしも「教育」に優れた人間であることは言えないことはもっともなところだ。「研究」というと、場合によっては社会とは隔絶した環境の中では、人間とは「研究」の対象でしかない。多種多様であるはずの人間の個性を捨象して、人間とひとくくりの枠で捉えることが「研究」において必要なのである。一方で、「教育」では、人間ひとりひとりの個性と向き合い、ひとりひとりの顔が見えるものでなければならない(むろん、これは私個人の理想なのかもしれないが)。となると、そもそも「研究」と「教育」とでは、人間への向き合い方が違うのだ。
しかし、「研究」の対象である人間との向き合い方が違うにしても、その「研究」を、受け取り、評価し、これを応用していくのも人間である。「研究」が単に「研究」ための「研究」ではなく、多くの人が理解できるようにするのもひとつの「研究」の一つの任務であるべきだ。そして、何かしらの「研究」が役立つといえるためには、今の「研究」を土台に、次の世代の「研究」を生み出してもらわなければならない。そのためには、「教育」の媒介なくしては、このような連続性は成り立たないはずだ。
その意味で、米倉のいう「研究」と「教育」の関係が相乗効果を有するものだ、という意見には賛成だ。さらに一歩進めるのならば、大学における「教育」が、「研究」という文脈の中だけで語られるのではなく、ひとりの人間と顔と顔の見える「教育」のあり方を大学においても、考えるべきではないだろうか。
(2001年11月1日)