「爆発的な多様性を支える高度の一元性」
経済法の教科書の中には「爆発的な多様性を支える高度の一元性」(白石忠志『独禁法講義〔第2版〕』59頁以下参照)という、言い方がある。市場での独占が認められていた電話通信や電力産業では、事業法による規制が及んでいた。ところが、事業法もなく、行政による監督が行き届かない、いわゆる「事業法規制なき独占」が生まれるという。この「事業法規制なき独占」は、これまで独禁法があまり問題にされていなかった。ところが、「インターネット」や「デジタル化」といったキーワードによって「事業法規制なき独占」が議論の表舞台に立たされるのではないかという。
インターネットのよって、いわゆる「万民が出版者になる時代」というように、個人間の情報伝達を可能にする。「マス(mass)」から「ピアツゥーピア(peer to peer)」というような、多様性、細分化をもたらすものであろう。ところが、このような多様性、細分化された個々人が何らかの情報をやり取りするためには、お互いに共通するお約束事がなければならない。インターネットで言えばプロトコルといった規約であるし、パソコンであればほとんどのOSがウインドウズを利用するようなことだ。こういった、現象を「爆発的な多様性を支える高度の一元性」といって説明しているのだ。
教科書の中ではその後、このような場合に独占禁止法上どのようなことが問題になるのか?と続くのだが、ここでは独禁法上の問題ではなく「多様性を支える高度の一元性」について、今回のアメリカへのテロ事件についてである。
日本時間9月11日未明の世界貿易センターを始め、国防総省へのテロ事件は、アメリカ国内のみならず、世界中に様々な影響を及ぼしている。例えば、今回の犯行の背景として一千年以上にもおよぶ宗教上の対立、政治的な思惑、経済市場への影響、特にアメリカが本格的な報復措置に出た場合の日本がどのような行動をするのかなど、数え上げればきりがない。その中でアメリカ市民のテロ事件を契機とした、団結力には驚いてしまう。
どちらかというと世界史はあまり詳しくない方なのだが、アメリカは移民によって建国され国であり、「人種のるつぼ」といわれるニューヨークを始め、来るものは拒まず、といったイメージがある。ホワイトアングロサクソン、黒人、ネイティブアメリカン、中南米、東洋、イスラム系も含め幅広い人種や言語にあふれている。これだけ様々な人々が、これほどひとつになれるのは、いったいどういことなんだろうか?と思ってしまう。ところが、今回のテロ事件がこのような「多様性」を支える「高度の一元性」が「アメリカ」そのものであり、これを具象するものが、国旗「星条旗」であるということを思い知らされた。テロ事件が起こったとき、当事者となったアメリカ国民はこれをアメリカへの攻撃とし、こんなことでアメリカは屈する事はなく、星条旗を掲げながら、「God Bless America」と自分達を奮い立たせている。
多様性の広がりが広いほど、これを支えるための一元性は抽象的でならざるをえない。一部の人間を想像させるようなものが、含まれていると、一元性を支えるものはそのごく一部の人のものになってしまう。これだけの多様性をひとつにまとめあげるには、きわめて抽象的で、しかもシンプルで、誰もが容易にイメージできるものでなければならない。それには「アメリカ」という目に見えないものが、そしてそれを象徴する「星条旗」がもっともふさわしい。
例えば日本でいえば、「日本」とか「日の丸」というものだ。どういうわけか、日本はアメリカほど多様性を支えるだけの高度の一元性を有してはいない。現在、少なくともアイヌや沖縄があるとしても、日本語という単一の言語を使う人々中では、そもそも多様性を支えるだけのものが、必要ないのかもしれない。しかし、それでもかつての戦争中の「日本」や現在の生まれた「出身地」であるとか、「母校」とか、「会社」といったものが、様々な人間をひとつにつなぎとめる役割を担っている。これは、おそらく人間本来のアイデンティティとして、こういった何かしらを持つものなのかもしれない。
反面こういったものが、ごく一部の人々に利用されることがある。第二次世界大戦中の日本の「天皇」やドイツの「カギ十字」を見れば説明に多くを要しないだろう。高度に抽象化されシンプルなものは、見る人によって様々なとり方が可能になる。ところが、一部の人間は、この「爆発的な多様性を支える高度の一元性」を、メディアなどにより他の解釈をシャットアウトして、自らに都合のよい解釈によって多様な人間をまとめ上げることに利用する。
ジョンレノンの「イマジン」では、宗教もない、国境もない世界を歌っている。私自身の勝手な解釈かもしれないが、人間はひとりひとり違って当然なんだよ、ということを前提に歌っているように思える。確かに、ジョンレノンの歌っていることは、ひとつの夢にすぎないもので、現実的ではないのかもしれない。しかし、ここでいう人間なんてひとりひとり違って当然なんだ、ということは認めなければならない。人間と人間とをひとつに結びつけるものがあって、人間本来のもつアイデンティティであるとしても、これが悪用されないための制度の在り方が必要だ。
(2001年9月21日)