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灰 色 の 舌 スペイン闘牛考 (2007.9.13)
頭を低くした黒い雄牛の口からダラリと垂れた灰色のモノが舌だと気付くのにはしばらく時間 が要った。闘牛場を駆け巡らされ、肩に槍の深手を負った牛が呼吸するのに自分の身体の一部分 さえ邪魔だとでもいうように舌を口の外に出し、500kg の体重を支える四本足の蹄はしっかり と土を掴んで動かない。いよいよ主役マタドールの登場する場面だが、ここまでを初めから再現 してみよう。 昨夜から真っ暗な部屋に入れられていた雄牛が観客の前に初めて姿を見せるのは、日当たり側 客席の中央にある牛用門からである。いきなり午後の明るい陽を浴びた牛は、眩しさと生まれて 初めての大歓声に、この状況が掴めずにキョトンとしてしまう。遠くの方で闘牛士の助手がピン クの布を振っている。動くものを見ると角で突っかかるように教育されてきた(在日スペイン大 使館のホームページより)ので、直ぐそちらに向かって突進する。もう少しというところで、助 手は素早く頑丈な衝立の影に隠れてしまう。目標を見失って辺りを見渡すと、遠くで同じ布が閃 いている。今度はそちらに向かって駆け出す。近くまで行ったと思うと布も人も消えてしまい、 別の方にまた現れる。 円い闘牛場を一回り駆け巡らされ、一息つこうとすると、槍を小脇にピカドールが馬に乗って 場内に入って来た。頭を下げて直ぐそれに向かって行くと、突然上の方から鋭い槍の穂先が肩に 突き刺さり、骨に当たった。人間ならその痛さに立っていることも難かしかろうに、この動物は 鈍感なのか強靭なのか、怯まず、馬の腹を角で突こうと頭を低める。馬上の男も小脇に抱えた槍 に更に力を込めて押し戻そうとする。槍が牛の身体深くに入るのを防ぐための金具が穂先に装着 されているので、肩の辺りを突いているかぎり内蔵を傷めたり、致命傷を負わせることはない。 この馬の脚は競走馬のそれの何倍も太く、体も大きく、力も有りそうだが、牛が横から脇腹を 押す形になると、この力比べは馬のほうが不利だ。馬には槍の加勢があるが、牛は血を流しなが らもぐいぐい押し、馬を壁に押し付けてしまうこともある。闘牛は普通一日六番行われるが、馬 が尻餅をつかされる場面を私は幾度か見た。すぐに幾人かの助手が手に持った旗を振りながら飛 び出し、牛の目標を変えさせている間に、他の助手たちが馬を立ち上がらせた。現代では頑丈な 防護具が馬の胴体を覆っているので、牛の角突きにも負傷することはなさそうだが、ゴヤの絵で は馬の防護具は無いに等しく、腹部から血を流しているのが描かれている。当時は死傷した馬も ピカドールもいたのだろう。ピカソは「ゲルニカ」のような悲惨な情景を闘牛場で見たのだろう か。 馬に乗った槍手が退場すると、次は銛(もり)を持ったバンデリジェロが待っている。名称の意 味は「旗持ち」だが「小槍士」との訳もある。スキーのストックのように両手に一本づつ持った 銛には旗の飾りが巻き付けられていて、遠くでそれを振って牛を誘う。牛が突進しはじめるとそ の正面に向かって彼も走り出すから、初めて見た時は一体どうなるのか、と固唾を呑んだ。彼は 跳び箱を跳ぶように間合いを測って跳び上がり、牛の肩に銛を打つと牛の走り去った跡にふわっ と降りた。お見事!。銛の先は鈎(かぎ)型になっていて、牛の肩に留まっている。これをもう一 人のバンデリジェロが行うと、牛の肩に左右二本ずつ羽が生えたように見える。銛打士はサーカ スのピエロのようにお道化たりは全くしないが、危険な業を軽々とこなすことによって観客の 少し重苦しくなった気分を和らげる。 雄牛の方は肩から血を流したまま駆け回らされ、かなりの血液と体力を消耗し、肩に銛の旗飾 りも施された。ちょっとの間、立ち止まり、灰色の舌を出して荒い息をしている。ここに主役 マタドールの登場を待つ冒頭の場面である。 観衆の拍手に迎えられたマタドールは胸を張って牛の前に近づき、半身に構え、柄の付いた赤 い布を牛の鼻先に静かに垂らす。牛が呼吸を整え、後足を蹴って角を突き上げた瞬間、赤布を さっと翻してそれにも触れさせない。牛の角が、身体が目の前を通過する間、両足は元の位置から 一歩も動かない。危険な牛の角の前にどれ程近づけるかが闘牛士の勇気を示すことになり、観衆 にスリルを味あわせ、拍手と歓声を受け取る。 と、言っても牛の目標は幽かに揺れ動く赤布であり、それを操っている人間でないように見え る。犬が人間の衣服を肉体の一部と勘違いしたり、鱶(ふか)が人間の伸ばした褌(ふんどし)まで も身長と錯覚してしまうのと違い、牛には布と人体とを識別する能力はありそうに思えるが、詳 しくは後で考えることにしよう。 袖付きマント(カポーテ)で牛を幾度か奔弄したマタドールは、いよいよ最後の仕事にかか る。直訳なら「殺す人」の彼の役目は剣で牛を殺すことだが、一刺しで仕止めるのが名人とされ る。それには牛の頚辺りから心臓にまで届くように、剣の位置と方向を定める必要がある。その 構えで闘牛士が牛の顔前に立ち、相撲の仕切りのように人と牛は互いに呼吸を留めて睨み合うと、 観客席もしんと静まり返る。牛がつっかけようとする正にその瞬間、闘牛士は身体ごと前に出て 狙った所に剣を突き出す。剣が鍔元まで牛の身体に刺さると彼はその手を放し、牛の角を避けて 跳び退くことが最後の行動となる。 名人に刺された雄牛は声も立てず、血を吐き、その場で、或いは何歩か歩くと地響きを立てて 倒れる。それを見届けた観衆はマタドールに向かって歓声、口笛、賞賛の拍手を送る。稀に人間 の方がしくじって牛の角に突かれた死傷例の統計数字も出ているが、事故は予定外というべきで、 人間が牛を殺すことを正しい結末とするショーである。(2000.7.23記) ■灰色の舌2
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