忘れられた記憶

拝   所

マチヤグワー

亀 甲 墓

樹   木

赤 瓦 屋 根

光る雲!

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拝 所 1

撮影 2007年9月2日 那覇市銘苅(新都心)にて

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盛り塩

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右手の茂みの中

今をときめく新都心に、このような場所がある事に誰も気づくまい。かつて「カー」と呼ばれた水の湧く場所は、人々が水を汲む場所であると同時に、拝所でもあった。写真中央、水の湧く場所と人々を隔てる囲いの、その右側、少々高くなっている場所にかすかに写る白い点、実は盛り塩である。葉陰になって見えないが、その右手にあと2カ所、塩が盛られていた。 窪地という悪条件のゆえに、はからずも開発をまぬがれたのだ。それが、また沖縄の現実の縮図。不便、悪条件、そういう所にしか、かつての沖縄は残っていない。

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拝 所 2

2007年9月4日撮影 首里当蔵(アダニガーウタキ)

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首里の旧博物館横から儀保へ下る道の途中にある拝所。

30年程前、たまたまその道を通った時、30代前半とおぼしき女性が、裸足で、石畳の上にじかに正座し、一心不乱に祈っていた。

その、もはや衆人環視の状態など完全に超越した様子に、私は大きな衝撃を受けた。我が子、夫、あるいは父母、もしくは自身のための? いずれにせよ、その後ろ姿は崇高だった。

無神論者の私だが、祈る人の切実さを、決して嗤う事はできない。神を信ずると否とに関わらず、時に、人は、ただひたすら祈るものだからだ。

母が手術をした時、父が倒れた時、子が高熱を発し、息遣いも荒くぐったりしていた時、何にとも無く私は祈った。

あの時の御婦人の祈りは、はたして届いただろうか。この道を通るたびに、どうしても思い出してしまう。

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マチヤグワー

迷惑をかけてもいけないので撮影場所は無表記

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マチヤグワー(小規模雑貨商)は市内の至る所にあった。 自宅からせいぜい徒歩2〜3分以内、子供たちはパジャマ姿、親父ならステテコ姿でも行けるような気安い場所であり、また、地域の人々が買い物ついでに朝に夕に集い、おしゃべりし、情報交換するような場所でもあった。冷蔵庫のなかった、またその後の小さな冷蔵庫しかなかった時代は、毎日買い物に行った。いわば、地域共同体の結節点のような存在。一人暮らしのお年寄りが、2、3日も姿を見せなかったりしたら、すぐ話題になり、隣近所の人が確かめに行ったものだ。だから孤独死というものもなかった。

マチヤグワーがスーパーに駆逐され、そのスーパーも、駐車場完備の大型スーパーやショッピングモール内の大型スーパーに太刀打ちできず、撤退しつつあるのが現代。アメリカの圧力により、大店法が廃止され、また様々な規制緩和が進み、競争が激化、その結果、アメリカ的ローコスト社会が実現しつつあると喜ぶべきなのだろうか。だが、マチヤグワーの消滅は、同時に地域共同体の衰退であり、隣は何をする人ぞといった孤立社会への移行を意味していた。

運転免許も持たないお年寄りや、持っていても、事故・病気・年齢等の理由で、身体に様々な機能障害が出て、運転が不可能な人々には、車の使用を前提としたこのアメリカ的ローコスト社会は、どう見えているだろうか。車でさえ十数分、あるいはそれ以上の遠方に有る大型スーパーが、交通弱者にとってマチヤグワーのように気安い存在でないのは、容易に類推できる。マチヤグワーを中心とした地域共同体の中で、周りの人々から温かく見守られて生きてきたかつての老人たち。だがそれは、少なくとも那覇市内では、マチヤグワーとともに、とうの昔に消え去ったユートピアだ。癒しの島沖縄などという、本土マスメディアの書いたありもしないシナリオを演じる気は、私にはない。沖縄でも相次いだ老人の孤独死が、そんな馬鹿げたシナリオの欺瞞性を証明しているからだ。

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亀 甲 墓

墓2、那覇市楚辺

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墓1、国際通り裏

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墓3、城岳公園南

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墓4、那覇市楚辺

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墓5、城岳公園東

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墓6、天久泊漁港側

墓7、天久泊漁港側

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平成19年9月16日(日)撮影。期日を明記するのは、いずれ撤去されるかも知れないからである。墓に白く見える掲示は、これが那覇市の所有であり、使用を禁ずるという内容のものだった。

かつて鬱症状(不眠症)に悩み、休職していた頃、健康回復のために、那覇市内をウオーキングしたものだ。鬱蒼と木が茂り、蝶が群れ、草いきれでむっとするような場所には、必ずと言っていいほど墓があった。那覇市内で自然を守っているものは先祖なんだ、と妙に納得したものである。

だが、例えば元の山形屋北側の墓地が撤去され、公園になったように、いずれこれらの墓も撤去されるのであろう。

本土と違って沖縄では、墓は、生活のすぐそばにあった。先祖とともに暮らす事に、別段何の不思議も、むろん忌避感情などはなかったのだ。私自身、幼少期には、家の前10メートルほどのところにある墓の上で遊んでいた。本土の墓と違い、子供が集団で上に乗って遊べる程、沖縄の墓は大きく、戦時中は防空壕になったほど堅牢である。先祖の遺骨のそばで、空襲を耐えた家族も多かったのだ。

2番目の墓は、普通の民家のように、塀で囲われ門構えを備えている。沖縄では、墓とは、先祖が生活する場所なのである。だから、塀や門をおかしいと思う人間はいない。5番目の墓なども、かつて沖縄の民家には必ずあったヒンプン(手前の石垣のつい立て)の備わった、実に優美な造りである。芸術的にもきわめて優れたものだと思うのだが、撤去されてしまうのだろうか。

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樹   木

ヒジャ川橋(17世紀半ば建立)とガジュマル(榕樹)

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ヒジャ川橋とガジュマル(榕樹)2

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識名小学校横のガジュマル(榕樹)

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弁財天堂

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弁財天堂の周りの緑。昔に比べ格段に豊かになった。

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弁財天堂より龍潭を望む

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首里寒川、駐車場のすばらしいガジュマル。建物が建つまでの命か?

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首里高校正門のガジュマル

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一中健児之塔の周りの緑。この豊かな緑がいつまでも失われない事を祈る。

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赤瓦屋根

赤瓦屋根1

赤瓦屋根2

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赤瓦屋根3

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赤瓦屋根4

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赤瓦屋根5

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赤瓦屋根6

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1、3,、5、6の民家は屋根の漆喰を塗り直してある。漆喰は年数が経つと劣化し、雨漏りするから、塗り直す必要があるのだ。しかし、瓦の色も、葺きたてのようにやけに鮮やかだ。たぶん、漆喰塗り替え時に塗装したのであろう。撥水性とか耐水性に関係する塗料だろうか。このような塗装は最近始まったことだと思う。

赤瓦屋根の家屋も、早晩絶滅の運命にあるのだろう。すでに、木材を扱える大工も極めて少なくなったらしい。昨日(22日)のニュースで、石垣市の民家(大正時代に建築)が文化財指定を受けることになったという。ざっと見積もっても築80年以上。長持ちするものだ。

ところで、木材にかわって登場した鉄筋コンクリートだが、沖縄は塩害があるせいだろうか、築30年もすると、老朽化が目立ち、建て替えられる。信じ難い事だが、木材建築よりずっと耐用年数が小さいのだ。

最近面白いなと思ったのは、北京市内の建築事情である。北京オリンピックに向けて、数百年住み続けられてきた四合院という様式の民家が取り壊され、どんどん鉄骨や鉄筋コンクリートのビルに生まれ変わっているというのだ。耐用年数が数百年の民家を壊して、せいぜい数十年の寿命しかない現代建築を採用するというわけだ。建てるそばから絶えず壊して建て替える、それが経済近代化だとでもいうのだろうか。ただし、それがまた戦後日本建築の歩んできた道。江戸時代の民家がまだ建っているのに、戦後の家は数十年待たずに建て替えられている。現代の建築家は、江戸時代の大工に対し、恥ずかしくないのだろうか?

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かつての沖縄の海岸線。少ない予算で造られたのだろう、海側の低いガードレールが、何とも頼りなげである。画面が小さく、確認できないだけなのかどうか、側溝が見当たらない。私の記憶では、道にきちんと側溝が設けられるようになったのは復帰後だ。

だが、何と素朴で、自然にやさしい道路だろう。海になだれ込む崖の、どの部分をどれだけ削ったか、画面から分かる。自然破壊は最小限なのだ。

画面右手の、道路から砂浜へ下るくぼみは、人が通ることで出来た小道。恩納村から名護に至る道路のいたるところに、数限りない砂浜があった。画面の奥、彼方の遠景は本部半島であろう。恩納村に入ると、本部半島は、ずっと見え隠れしていたものだ。

復帰後の大型公共投資で、道は広く直線になった。つまり、このような小さな砂浜のほとんどが、コンクリートの下に消えた。道ばたには高層建築が建ち並び、本部半島も、たまに目に入るだけだ。信じ難いことだが、名護湾の長大な砂浜すら埋め立てられたのだ。ナングスクを背にして、静かなたたずまいを見せていた旧名護市街。その狭い道を散策すれば、おのずと砂浜に至る、夢のような空間。名護市街全体の、素晴らしい前庭だった。それを埋め立てるとは、誰が発案したことだろうか?気違い沙汰である。それが名護市の発展に寄与しているのなら、文句も言うまい。だが実際に起こったことは、旧名護市街のシャッター通り化だった。

さて、復帰後何が起こったのだろうか。「本土並み」が実現したのだ。公共投資にぶら下がって、中央に依存して生きる本土の類似辺境県同様の、いわば乞食県化が進行した。それに手を貸すことにおいて、保守も革新もなかった。沖縄がいかにあるべきか、理想がなかったからである。保守はむろん、革新においてさえ「基地なき沖縄」といった目の前の目標があるだけで、燃えるような沖縄のあるべき未来像など持ってはいなかった。つまり、基地をなくすこと以外には、何もビジョンがなかったのだ。

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