【 おたまは回り、世界はめぐり、きみはそうして苦笑する 】




 お前は、ザルなんだなと言われたことがある。
 それは確か、以前日本を訪れたときだった。現地の支部員に試しに飲んでみろ、と勧められた酒をひといきに飲み干した葉佩に、彼の教育担当者が呆れ果てて呟いた台詞だ。
 まだ未成年だから余計なものを口にさせないでくれ、という彼の前で、いいだろうこれも経験だと差し出される杯を、葉佩は次々飲み干した。
 水のようで、口当たりがいい。喉越しがさらりとしたこれは、日本特有の米で作った酒なのだという。
 ああ、美味しいなあ。
 そう思って、幸せになったことばかりが記憶に残っている。
 ふと杯を勧められなくなったので、葉佩はきょとんとして目前に倒れこんで寝息を立てている男を見た。
 どーしたんですか? と首を傾げる葉佩に、呆れたような目で眺めていた教育係がもう一度しみじみと言った。
 ああ、お前はホントにウワバミなんだなあと。



*****


「……甲さん、いいかげん部屋に戻った方がいいと思うんだけど」
 …9ミリルガーはこっち、女神の真珠はココ、裁判官の石はあっち。
 葉佩は、幾つかのダンボールを開けて、遺跡で収集したアイテムの整理作業を行っていた。
 遺跡に潜る回数も二桁を越える頃になれば、入手するアイテム量もそれは増えるというものだ。
 おかげで、まめに整理をしておかなければたちまち部屋がアイテムで埋め尽くされてしまう。
 そんな葉佩の横で、皆守は、ううとか、ああ、とか呻いたまま寝転がっている。
「…うーん。ね、甲さん。アレ、そんなに強かった? ルイ先生からもらってきたヤツなんだけど」
「………」
 へんじはない。ただのしかばねのようだ。
 葉佩がそう小さく呟くと、勝手に殺すなと皆守が不意に起き上がった。
「……ったく…。…あー、あちぃ…。…おい九龍…。この部屋、暖房効きすぎじゃねェか」
「いや暖房とかいれてないし。甲さんの体温が上昇してるんだよって、ちょっとー!? 甲さん、やだやだ窓開けないでくれって!」
 さむいじゃん! と騒ぐ葉佩を無視して、皆守はがらりと葉佩の部屋の窓を開けた。
 ひやり、侵入してくる秋の風に、さむい! とわめく葉佩とは逆に、ちょうどいいじゃねェか、と皆守は機嫌よさそうに笑う。
 今にもアロマをふかしそうな顔つきだったが、手元にアロマパイプが見つからなかったためか断念したらしい。
 彼は、もぞもぞと意味もなく手を動かしてから、窓に腰掛けて気持ちよさそうに吐息する。
「……さむいって言ってんのになァ、もう信じられないよ甲さんは……。ホント勘弁してほしいよ…」
 暑さよりも寒さに弱いトレジャーハンターは、ぶつぶつ文句を言いながらも作業を続行する。この荷物を早くどうにかしてしまわないと、足の踏み場がないのだ。


 ――そもそも、皆守は葉佩の部屋まで辞書を借りに来たのである。
 世界各国を飛び回るトレジャーハンターである葉佩の部屋には、各国の辞書、辞典が文字通り散乱している。
 英語の授業を連続でサボっていた皆守は、その分大量に与えられた課題をこなすため、億劫ながらも、この語学堪能な親友の手を借りに来たのだ。
 しかし、大概において(いっそ鬱陶しいくらいの勢いで)皆守を大歓迎してくれるはずの親友は、本日いささか疲れた顔つきで皆守を出迎えた。
「…うー。じ、じてん…? ディクショナリ? …うーん…。…な、甲さん。…明日じゃ駄目かい…?」
 ひどく困ったように首を交互に傾げ、不審そうにする皆守に葉佩は部屋のドアを大きく開いてみせた。
 いつもの彼らしくもなく歯切れが悪い口調のワケを、皆守は室内を見てすぐに察した。
「……。…こいつはひどいな」
「…だろ?」
 もう笑うしかない、と葉佩は疲れたような顔で口の端を歪める。
 …遺跡で入手した日本刀やら、はたまた一体何の役に立つのか分からない石くれだとか、あるいはとてつもなく貴重なオーパーツと呼ばれるものたち。
 そんなものが、葉佩の部屋にばらばらと散乱していたのである。
「…いつも、どこにしまってんだ。これ」
「んーんん。そのへん」
「そのへんってどこだよ」
「…まあなんていうか、部屋のあちこちに積み上げてたりしてたんだけど」
「ああ。お前の部屋にあった、あの中身が見えないラックがそうか?」
「イエス。……やー、だけど、とうとう昨日、ラックが中と外で仲良く雪崩を起こしてね…」
 こいつはヤバイ、とせめて品物を区分しようと思ったんだ。
 葉佩は、フウと肩をすくめ、だからゴメン今日は無理、と返答したのだが、しかし皆守はその制止にかまわずつかつかと室内に入ってきた。
「ええ。…ちょっと、甲さん!?」
「…どうせ、辞典もこの腐海のどこかに埋まってんだろ? もののついでだ。手伝うついでに、探させてもらうぜ」
「………」
「……何だよ、その顔は」
 しかし、ありがたい提案であるはずの皆守の言葉に、葉佩はひどく不審そうな……というか、不安そうな顔をした。
「……。甲さん。そこまでしなくちゃならないほど、英語の授業切羽詰ってるの?」
「………。……手伝いが必要ないってんなら、素直に帰るがな」
 皆守は、あまりといえばあまりの言葉に、眉間に深い皺を寄せる。
 その言葉に慌てたのか、葉佩は「ノ、ノ、ノ、ノ! ごめん、勘弁! 手伝いがありがたいのはホントだよ!」と笑った。
 そして「ま、どこにあるかわかんないけど。…ふふ。夜は長いよ甲さん」などと、意味深に笑いながら、扉をばたりと閉めたのである。


「……。……喉が渇いたっていうから、その辺のミネラルウォーター飲んでよってのがまずかったんだよな」
 びゅうびゅう吹き込んでくる、ひややかな秋の風。
 部屋着でその風を浴びながら、葉佩はうう、と呻いて反省とともに数十分前の出来事を思い返す。
 皆守が葉佩の整頓を手伝い始めて、三十分が経過した頃。
 喉が渇いたんだが、何かないか、と声をかけた皆守に、葉佩はその辺りに転がっていたミネラルウォーターを放ったつもりだったのだ。
 彼はそのとき、特に危険な爆発物の分類を行っているところだった。そして、ついでに混合爆弾の材料を調合しておこうかと、付近にミネラルウォーターを置いていたのである。
 しかし、そこに置かれていた飲料は、ミネラルウォーターだけではなかった。火炎瓶の調合に必要な、中国酒も置いてあったのである。
 何だか変わった入れ物だな、と呟いた皆守の言葉を気にせず、うん、などと生返事を返したのもよくなかった。
 ごくごくごく、と飲み物を飲み干す音。…ああ、よほど喉が渇いてるんだなあ、とその音に、葉佩はぼんやり考えた。そして、あんなに皆守を疲れさせているのだから、自分もちょっとは整頓に集中しようと反省し、転がっていた薬品をまとめようとした。そのときだ。
 ばたん。
 妙に重たいものが倒れるような物音がしたかと思って振り向くと、そこには中国酒を手にした皆守が、ダウンしていて。
 えっ、甲さん? と葉佩が慌てて抱き起こして、ぺちぺちと頬を叩くと、辛うじて意識は取り戻してくれたのだったが。
 まずいよこれ絶対怒るぞ甲さん、やだなあとか思っている葉佩の前で、彼はいつもだったら絶対浮かべないような笑みを――ニコリというよりもニタリ、という具合で見せたのだ。
 そして、いや、今は絶対笑うとこじゃない、と青ざめる葉佩の前で、皆守は大変ろれつの回った口調ながらも、いわゆる「泥酔者によく見られる突飛な行動」をとりはじめたのである。(例:唐突にわけの分からない要求をする/自分に素直になりすぎて常識を忘れる/カラオケルームで意味もなく電球を外し始めるなど)
「…甲さんが意外と酒に弱いってのも、敗因だ」
 オイ九龍、寒いぞ。
 そう言って今度は笑い始めた皆守に、あー、甲さんが壊れてる! と頭を抱えながら、葉佩は整頓途中の箱を閉めて窓際に向かう。
 度数およそ20度の酒を酒瓶半分以上飲み干したのだから、飲酒に不慣れな高校生が多少ハイになっても仕方はない。仕方はないのだが、ザルでありウワバミである葉佩にとっては信じがたいことだった。
「おい九龍。さむいぞ…。何で窓開いてんだよ」
「甲さんが開けたからだろ! …もー勘弁してくれよー。ホントこの部屋どうにかしないとやばいんだって…。な、甲さん。だから、いいかげん部屋に帰りな?」
 ていうか俺も寒いんですホント、と葉佩は窓を閉めようとする。しかし、その手を皆守が止める。
「…こ、甲さん?」
 普段ならスキンシップ大好きの葉佩なのだが、こんな据わった目の酔っ払った親友とのスキンシップは、いささか遠慮したいところだ。
 だが皆守はそう思っていないようで、やけにとろんとした目で、にたり、笑った。
「九龍。……膝貸せ」
 そして、そう呟いたかと思うと、唯一モノの散乱していなかったベッドに葉佩を蹴り倒す。
「ったー! うわうわ、な、なにすんだよ甲さん! いたいっていうか、今はそういうスキンシップしてる気分じゃないんですが!」
「愛に国境はなく、恋に時間はいらないんだろう? そして秘宝は俺の訪れを待っている…。……よう、トレジャーハンター。こいつはお前の持論じゃなかったか?」
「うわあ暗記してるのかよ甲さん! それはすごい愛を感じるなあ…。でもそれにしたって、今ベッドでスキンシップする必要はない気がするんですがー!」
 この部屋には今爆弾だって散乱してるんだー俺はまだ死にたくない! とわめく葉佩を、皆守はもう一度蹴った。ついでに、うるせェ、とひとこと一喝する。酔っているくせに、ろれつがきっちり回っているところが皆守らしい。
 そして、うう、と頭を押さえてうずくまる葉佩の顎を跳ね上げさせると、開いた膝に、ごろり、転がる。(その拍子に、彼の長い足が無造作に蹴飛ばしたものがガスHGであることに気づき、葉佩は一瞬硬直した)
 皆守は暫くもぞもぞと寝心地のいいポジションを探していたようだったが、結局諦めたように葉佩の腹に頭を押し付けて呟いた。
「……かってえな。お前の膝。…あと、あまりあったかくない」
「オトコノコの膝なんだから当然だろ…。……うー、甲さん甲さん。ホントに寝ちゃうのかよー」
 未だに部屋の半分以上が腐海と化しているのをベッドの上から見下ろし、葉佩は半笑いで嘆息する。
 皆守はそれがいたく楽しいようで、クククと葉佩の膝の上、笑いをかみ殺した。
 そして、これじゃあいつもと逆だな、などと呟いた彼は、もしかしたら大分正気なのかもしれない。
 けれど葉佩は、その声に結局気づかないまま、うー、とため息をついて。…それでも、皆守を振り落とすことはなく。
「…ホントに。困った甲さんだなァ…」
 苦笑交じりの声で、そう呟いてから。
 まだひややかな秋風が迷い込む部屋の中で、皆守の髪の毛に指を絡ませた。 
 お前に言われたくない、と皆守はぶつぶつ呟いたようだったが、次第にそれすら楽しくなってきたようで、彼はまたくつくつ笑い出す。



*****


 どろどろ、と、世界は大鍋の中で回されている。
 回しているのは、無論おたまだ。世界はカレーだ。
 そうして、俺たちは具だ。…じゃあ、ライスはどこだ?
(気分がいい)
 そう思いながら、笑う。
(…ああ、全く。とてつもなくいい気分だよ。なァ? 無敵のトレジャーハンター)
 そうして、彼はまどろむように目を薄く閉じていたのをかっきり開いた。そして、見上げたその先。
 彼は、葉佩がぼんやりした目で、開いた窓の外を眺めているのを見つける。
「……にみてんだ、九龍……」
 皆守は呻くようにそう呟いてから、遺跡か? それとも、ここではないずっと遠く? と考えて、眉をしかめた。
 アルコールのせいで思考力の減退した皆守の頭は、それがとても気に入らない、とわめいている。
 もっともだ、もっともだ。
 普段は見てみぬフリをするような意見に、飲酒モードの皆守は、しかし深く頷いた。
 彼は、むくり、起き上がると「あれ、正気に戻った?」と目を見開いた葉佩を見下ろし、ニヤリと笑う。
「…おまえも、ハイになっちまえ」
 そして、おぼつかない手で先ほどの中国酒を口に含んで、目を見開く葉佩を押し倒し、きつい酒のにおいごと、口付ける。
 んぐっという呻き声と、唇の端から零れる水分。
 そんなものを見下ろしながら、皆守はご機嫌で、ニヤニヤ笑う。
「ぐっ…うー。ぷは……も、ホントいいかげんにしてくれよ甲さん…。やんなるなァ…、こんなので酔えるひとがうらやましい…」
 それから、そんな生意気なことを言って起き上がってきた葉佩の上から思い切りのしかかった。
 眠くなったのだ。
 それから、世界はライスにのしかかるべきなのだと思い至ったのである。
 わあ、とかぎゃあ、とか、ライスが悲鳴をあげる。
「黙ってろライス…。俺が今食ってやるから……」
 皆守はうとうととそんなことを呟き、食っちゃうの?! と叫んだ葉佩を無視して、カレーなる世界の中、目を閉じた。
 窓から吹く風が冷たい。
 …ああ、誰だ窓を開けたバカは。
 カレーが冷めてしまう。窓は閉めるべきだ。
 皆守はカレーを温めるべく、先ほど押しつぶしたライスを引き寄せ、ぎゅうぎゅう抱きしめた。
 …ほんとに困った甲さんだ。
 ライスはそう言って呻いたようだ。
 そして、少しだけ笑ったようだ。
 皆守は思う。
(それでいい)
 世界は全て万全だ。
(こうしてコイツが、俺の腕の中にいればいい)
 これで全部、安心だ。
 皆守は、ひどく安心して眠りについた。
 眠りにつく直前、葉佩が暖かいものに手を伸ばし、二人の身体の上にばさりとかけたのがわかった。
(…なんだ。俺もライスだったのか)

 ――じゃあ、きっとこの暖かいものはカレールーに違いない。





*****


 ――そして、翌日。
 恐ろしく物体の散乱した部屋の中で、男と二人、布団に包まって目が覚めるまで。
 何かひどい悪態や呪いの言葉をわめき散らそうとして、頭痛にうずくまるまで。
 すぐ横ですやすや眠っている葉佩を、やつあたりもこめて蹴飛ばし、ベッドから降りてミネラルウォーターに躓くまで。

 ……彼の眠りは、ひどく安らかであったという。



FIN