【 今君が爪立てたそれは、たぶん三年くらい前のきずあと 】
「…いたい」
葉佩は夢うつつの狭間で、ぼんやりとそう呻いた。
その声に、そうか、とベッドを共にしている相手の相槌が返るのに、痛みはやむことはない。
つきり、つきり、とまるで爪を立てられているような痛みが、葉佩の肌に走っているようだ。
とうとう耐えかねて、葉佩はパチリと目を開いた。
薄暗い室内。夜明けは、まだ少し遠い。
「…甲さん、何してんの」
「さあな」
彼を抱きしめていた腕が二本、にゅっと伸びて葉佩の視界を覆う。
それから、口元に甘いラベンダーの香りが近づいた。
「……」
「………」
「とりあえず、今はキスしたみたいだね」
「…そういう解説は興ざめだって、思わないのか?」
寝ている相手に爪を立てる甲さんに、ベッドマナーを説かれたくないよ。
葉佩はそう言って皆守の目隠しを取り払い、間近でくつくつ笑う彼の唇に、噛み付くようなキスをした。
*****
…葉佩が皆守と寝るようになったきっかけは、そう大したことではなかった。
この学園に転校してきてそろそろ一ヶ月。いいかげん溜まるものも溜まってきたなあ、といわゆる女性の裸体写真が大量掲載された雑誌をぼんやりめくっているところに皆守がやってきた。
先日借りた辞書を返しにきたのだという彼に、アリガトウと声をかける。しかし、皆守はしげしげと、隠そうともしない葉佩の手にした雑誌を眺めて、呆れたようにため息をつき。
お前、もう少し後ろめたそうな顔とかしろよ。堂々とエロ本読みやがって…、と、脱力したらしい感想を述べる。
だって後ろめたくないし。
葉佩は仕方なく、それに答えた。この本は大して刺激的でもないから、面白くないの。
全頁遠慮なしのノーカット、ついでにノーモザイクの洋物を放り出し、葉佩は冗談交じりに皆守を見やって声をかけた。
くすり、笑って頬杖をつく。上目使いで見上げることも忘れずに。
「…ホントに後ろめたいのは、もっといけないことだよ? 甲さん」
――そうして、誘いをかけた。明らかな冗談と、僅か本気かと匂わせる笑みをにじませて。
「……」
そんなあからさまな冗談交じりの誘いに、しかし皆守は黙ってアロマパイプを外し、ベッドに転がっていた葉佩に口付けた。
いけないことってのは、たとえばこういうことか? 九龍。
そう言って、眼差しを笑わせないまま、口元だけ器用に微笑ませて。
葉佩は予想もしなかった友人の行動に目を見張り、笑みを深くする。
――そのまま、二人は文字通り、「なんとなく」寝てしまった。
(…一体、何考えてんだかな。俺も、こいつも)
舌先を触れ合わせたかと思ったら、じゃれつくように噛み付いてきて。
そんな子どものような戯れを繰り返すうちに、口付けはどんどん深くなっていく。
まるで溺れるようだ。
皆守はぼんやりとそんなことを思い、口付けをかわしたまま、また葉佩の肌に爪を立てた。
「…った…」
小さく呻いて、眉を寄せる仕草。
それが、遺跡で傷を受けた表情そのままだということに気づいて、皆守は低く笑った。
「…ああ。油断大敵だな。トレジャーハンター?」
「……うう。まったくだね」
さっきから何なんだい、甲さんは。
続けてそうぼやく葉佩に、皆守は何も言わない。枕元に置いていた吸いさしのアロマパイプ。
手にして、すうとひとつ吸い込むと、僅かに赤い火が先端にともった。
じわり、けぶる紫の煙。広がる、甘いラベンダーの香り。
問いに答えずラベンダーをふかす皆守に、葉佩はハア、と聞こえよがしなため息をついて「寝るよ」と呟いた。
暖房の切れた部屋は、衣服を着ないで過ごすにはいささか肌寒い。
ここぞとばかりに布団を独り占めして眠ろうとする葉佩を、しかし皆守は片手で制止した。
なに、と眠そうな目で見上げてくる葉佩の、その肌。
陽に焼けた肌の上、ぽつりぽつりと白く残る傷跡に、皆守は黙って指を這わせた。
「…これは最近のか? この爪痕。化人にやられたやつだろう」
「ん。そうだね。全部、古い傷だよ」
「そう古くもないだろ。…おまえがこの学園に来てから、また二ヶ月と経っちゃいない」
「そうかな」
眠たげに相槌を打つ葉佩は、皆守の指からアロマパイプを奪った。
…昼間はお互い許さないような、こんな小さな戯れ。
それがむずがゆいようで、皆守は、パイプをくわえる葉佩を見下ろし、また傷口に指を這わせる。
また、爪を立てる。
…つい最近の、学園に来てから負った筈の傷。
古い傷だよ。
そう、あっさり答えた彼。
そうして傷は全て癒される。痕は残せても、それは古いものと断じられる。
その事実を突きつけられたような気がして、皆守は僅かに眉を寄せた。
こんなときこそ、ラベンダーを吸うべきだ。しかし、アロマパイプは葉佩に奪われたままで。
「……いたい」
葉佩は、半ば諦めたようにそうぼやいた。
口からアロマパイプを外し、甘いラベンダーの吐息を吐く。
「甲さんって、結構サディスト。子どものとき、好きな子をいじめてたんじゃないの」
葉佩の唇から零れたラベンダー。それを全て飲み干せば、この胸の奥底をじりじりと焦がす痛みを忘れられるのか。
皆守は薄く笑った。自分が、ひどく滑稽に思えた。
「さァな。…当ててみろよ?」
「ふゥむ。正解を当てたら、何をくれるのかな」
「馬鹿だな。答が景品だろ? それ以上欲張るなよ」
「…」
その言葉に、葉佩は「全くだ」と頷く。
「だけれどね、甲さん。トレジャーハンターは、欲張りにできてるんだよ?」
ぱたり、シーツに投げ出されたままだった腕が、皆守の手首を掴む。その手首に軽く噛みつくようにして、葉佩は言った。
「俺は、それ以上もほしいなァ」
「……」
皆守は応えず、黙って抱き寄せた葉佩の傷に、きつく、爪を立てた。
もうとうに治ったのだろうそれ。葉佩の肌の色とは少し違う、その部位。
爪を立てる。既に癒された傷。誰が癒したのか、自らで癒したのかは知らねども、とうの昔に治った傷に。
先ほど触れた爪痕よりも、なお古い傷。なあ、お前は一体いつどこで、この傷を負ったんだ?
訊いてもきっと、葉佩は応えないだろう。
きっと、覚えていないだろう。
…ならば、今一度破ってくれようか? 皮膚に爪を立て、赤い血を。
癒すことはできない。忘れさせることもしたくない。
ならば、せめてもう少しだけ。
ほんの僅かな時間だけでも、この傷をとどめておければ?
「いたい。…いたいってちょっと」
葉佩の文句は、しかし皆守の口付けで遮られた。
皆守の口付けは、紫の香りを伴って甘く。葉佩の舌に絡み、痛みを伴うことすら口付けの副産物と誤解させようとする。
「んッ…、んんゥッ…」
鼻から漏れる吐息も甘い。葉佩は皆守にしがみつくようにして、依然として爪を立てられている感覚と、口内の甘い刺激に眉を寄せる。
皆守は目を閉じて、眉を寄せる葉佩の艶めいた顔を、じっと見つめる。
傷に触れるのとは逆の手で、葉佩の肩を壊さんばかりにきつく掴みつつ。
「まったく…」
葉佩はくたりと皆守の体の下、力を抜いて息をつく。
ひどく強靭な、ばねの如き彼の体。皆守は、それを肉食獣の気分で眺めるのが好きだった。
補食者の目と、被食者の眼差し。しかし葉佩はけして怯えなどは見せない。時に微笑し、時にはかりがたい色を含んだ目で、皆守を見上げるばかり。
今はその眼差しに、苦笑を含んでいるようだった。
まったく。
そう言ったきり、続けもしない葉佩の頬に、皆守は無言で触れ、指先はじわじわと下降していく。
とん。
やがて皆守の指がたどり着いたのは、葉佩の心臓の真上。とくとくと音を刻むそこを感じるように、彼の指先はそこにとどまる。
「甲さんは」
葉佩は、不意に言葉を再開した。
疲れたように瞬いていた目に、じわり、笑みをにじませて。
「本当、サディストだね? 今度は俺の心臓をいじめようというのかい」
はっ、とその言葉を、皆守は鼻で笑う。
「よく言うぜ。俺がサディストなら、お前は被虐趣味だろう?」
皆守のからかうような声に、葉佩は緩く首を振る。
「…少なくとも、さっきのキスはヤバかったよ。癖になったらどうしてくれるんだ」
皆守はその言葉に、軽く笑って。
「…そのときは、責任とって、一生面倒みてやるさ」
笑ったまま、うそぶく。かなうはずもない保証。
気まぐれに体を重ねるばかりの半端な関係では、到底。
昔負った傷も、最近負った傷も、全てひとくくりに「昔」としてしまう葉佩と、肝心なことは何一つ葉佩に明かせないままでいる皆守では、到底。
葉佩は「それは無理だね」と、即座に断じた。その響きがいつものように真っ直ぐなことに、皆守はひそかに落胆する。付き合いの悪い奴め、こんなときこそ、いつものように愛を囁けばいいのに。
落胆すると同時に、胸のどこかが軋んだ音を立てたのには、ただ見ないフリをして。
こいつは傷の痛みを覚えていない。たとえ皮膚を食い破ったとしても、どうせ忘れてしまうのだ。
皆守は、葉佩が言葉を続けようと口を開いたのを、黙って見つめる。
「だって、甲さんはカレーしか作れないじゃないか?」
葉佩はしかし、脈絡のないようなそんなことを言って、苦笑する。
「面倒をみるのは、間違いなく俺だよ? 甲さん、生活能力ないし」
そういうことを自覚してから、プロポーズしてくれない?
皆守は葉佩の言葉に、返事のしようもない。
呆気にとられている。驚いている。感動している? いや違う、真剣に呆れているのだ。
皆守はそう決めつけ、じわりと胸を満たしたそれから目をそらす。返事はしない。呆れているのだから。
皆守は葉佩の体を黙って抱き寄せ、彼の古い傷に歯を立てた。
(…覚えていろ)
いたいよ甲さん。
そして、困惑したように呟く葉佩を無視して、その体を腕の中閉じ込めて。
(……覚えていろよ、九龍)
お前の痛みは、誰が負わせたものか。
キスをしながら、傷を負わせたのが、一体誰か。
皆守は傷口から唇を離し、開いた葉佩の唇に舌を滑り込ませた。
昔の傷全てに、爪を立てて。
――爪を立てて、引っかいて。
そう。忘れてしまうというのなら、何度でも痛みを与えて。
そして、キスをすればいいのだ。
*****
窓の外が、じわり明るくなっていく。
しかし相変わらず、葉佩は皆守の身体の下。
呆れたような色と、甘い熱と、それから普段は見せぬような、貪欲な色を含んだ目で皆守を見上げていて。
「…甲さんの助平」
そして、この学園に来て、初めて覚えた言葉で、皆守を評した。
皆守は応えず、葉佩の頚動脈の真上にキスをした。
それから、今朝の一限はサボりでいいなと。
そんなことを考えた。
FIN