【 そして夜は沈黙する。きみの傍らで、ただ目を瞑って 】
「――甲さん」
そのとき、彼の声が、不意に皆守の名を呼んだ。
柔らかな、けれど、どこか素っ気無い響き。
それがひどくたまらないようで、皆守は返事をしなかった。
もっと名前を呼べばいい。自分の名前を呼べばいい。…そうしていつものように、甲さんは仕方ないね、と苦笑したらいいのに。
けれど、葉佩は表情ひとつ変えないまま。皆守の部屋で、彼の名前を呼んだきり、黙り込んだ。
返事を待つように。…あるいは、最初から名前など呼ばなかったかのように。
――どうしてずっとこのままでいられないのだろう。
皆守は、またさっきと同じことを考えかけて、指先でアロマパイプをもてあそんだ。
きっと葉佩は、今宵もあの墓地に向かうのだろう。そして、自分はそれに同行する。
いつものように同行して、そして、それから。
…それから。
皆守は口を開きかけて、また閉じた。
言葉など、見つかるはずもなかった。
そうだね。…俺もそう思うよ。
ずっとこのままでいられないのか、と吐き出した皆守に、葉佩はいつものように全てを許容するような眼差しを向けた。
俺もそう思う。甲さんと、ずっとこうしていられればいいと。…ねえ。どうして、それじゃいけないんだ?
皆守を甘やかす眼差し。……皆守の言葉をそのまま受け流す、優しい眼差し。
けれど、会話は終わったはずなのに、まだ皆守の部屋に留まっている葉佩は、そんな眼差しなど忘れてしまったかのような無表情で、黙って座りこんでいる。
呼びかけに応じない皆守を、もう一度呼ぶような気配はない。
寒々とした、そんな沈黙。
けれど、その沈黙を再度破ったのは、やはり葉佩だった。
「甲さん。返事くらい、しなよ」
たしなめるような、その響き。
皆守はその声に、ああ、とか生返事を返した。…もうそろそろ、時刻は3時を迎える頃だろうか。
――本当は、いつまでもこんなところで埒も明かないような会話をしている場合ではないはずなのに。
「返事だけ、すればいいってものじゃないだろう? 困った甲さんだ」
彼は、しかし今まで冷ややかな沈黙をまきちらしていたとは思えないような「いつも通り」の口ぶりでそう告げて、笑いすらした。
「甲さんは、…今夜も墓地に付き合ってくれるかい?」
そして、彼は何気ない口調でそう尋ねかけた。――柔らかい口調。そこに何が待ち受けているのか、まるで知らない優しい口調。
「あァ。…行くさ。お前が、そう望むんだったらな」
皆守は反射的にそう答えながら、嘘だ、と胸中で自分を笑う。
本当に、そんなのは嘘だ。
多分彼は、葉佩がそれを望もうと望むまいと、彼についていくことにになるだろう。
何故ならば、次の玄室こそが恐らく最後の場所になるのだから。――そこに彼がいなければ、彼がここにいる理由は。……葉佩の隣にいる理由は、なくなるのだから。
「のぞむよ」
葉佩はあっさりとした口調で、それに応じた。
ついてきて、甲さん。
そう優しい声で呟いてから、葉佩は僅かに首を傾げた。
「――あれ。じゃあ、俺がついてこないでって言えば、甲さんはついてこないのかい?」
「……」
葉佩の言葉に、皆守はそうだな、と眉を寄せて嘯いてみせる。
「…お前が必要ないって言うんなら、俺はおとなしくここでお前らの無事を祈っててやるさ」
言いながら、皆守は自分で笑い出しそうになってしまった。
ああ。本当に出来もしないことを、よく言うものだ。この口は。
たとえ、次に現れた玄室が最後のそれじゃなかったとしても、葉佩についていかずにはいられないくせに。
……彼が、自分に向けて鮮やかに笑い「おいでよ、甲さん」と呼びかけるのを、待たずにはいられないくせに?
「それは嫌だな。甲さんがいなかったら、俺は寂しい」
そんな皆守の自嘲を知っているのかいないのか、葉佩は軽く答えた。
真意が読めない、黒々とした眸。端正な面差しの中で、一際目立つその眼差しが、不意に真っ直ぐ皆守を見た。
「甲さんも、俺がいなかったら寂しいだろう?」
そして、自信たっぷりに、そんなことを言う。
「……よく言うぜ」
葉佩の言葉に、皆守はそう答えるのが精一杯だった。――他に何と答えればいいだろう?
何もかも見透かしているようで、何一つ知らないような、葉佩の眼差し。
皆守の答えに、葉佩はただニコリと笑った。彼はそのまま「じゃア、支度をしてくるから」と立ち上がる。
小柄な身体が、姿勢よく立ち上がる。背筋がぴんと伸びて――そのまま、ドアを開きかける。
「――九龍」
そう呼んだのは、ものの弾みだった。
特に何か言いたかったわけではない。……何かが言えるわけでもない。
皆守は、まだあの場所に縛られている。いや、縛られたいと願っている。
その上、葉佩の手をとる勇気もないくせに、彼の傍から離れられないでいる。
彼の放つ輝きを最も間近で見つめながら、そのひかりにとらわれないようにと、必死で。……けれど、そのひかりを一番傍で、常に、傍らで見つめるのは自分でありたくて。
永遠の矛盾。得られるはずのないものに手を伸ばして、得られそうにないと決め付けて突き放す。押さえきれない、エゴイズム。
「なんだい。甲さん」
葉佩の声が、皆守の名前を呼ぶ。
いささか、風変わりな呼び方。けれど、それがひどく心地よい。
「……」
それに何も答えないまま、皆守はのそりと立ち上がって小柄な葉佩のことをじっと見下ろした。
「困ったな。――まただんまりなんだね?」
葉佩は笑った。
優しい、やさしい笑顔。
何もかも受け入れて、何もかも突き放す。そんな笑顔。
彼は浮かべた笑みもそのままに、皆守を見上げて、しずかに手を差し伸べた。
「――…」
形のいい掌とは言えないだろう。
…いくつも傷のついた、滑らかとは到底言えなさそうな葉佩の掌。
それが、ひらりと上を向いて、皆守に差し出される。
黒々とした闇をたたえたまま、ひかりが、皆守の眼前で、無防備に差し出される。
「……九龍」
皆守は、葉佩の名前をぽつり、呼ぶと、その手には決して触れず、葉佩の肩に額を押し付けた。
細い、けれど骨ばった葉佩の肩口。
おもいよ。
葉佩が呟く声に返事をせず、ただそうして額を押し付ける。
「甲さん。…俺、これじゃあ部屋に帰れないだろう」
「……」
「甲さんてば」
たしなめる声が痛くて、皆守はその細くて強靭な肩口を、きつく握り締め――縋るように抱きしめた。
皆守よりも小さい体が、腕の中、黙っておさめられる。
「………」
葉佩は黙っていた。
その表情は、見えない。肩口に埋めた額から、じわりと葉佩の体温が。……ことりことりと、心臓の音が伝わってくる。
差し出された掌は、皆守の背中に回されなかった。
名前も、もう呼ばれなかった。
皆守はそうして、暫くの間黙って葉佩にすがり付いていた。
声もない。言葉など、あるわけもない。
――彼の掌を取ることができない自分は、そうして彼を裏切ることしかできない。
胸が軋むように痛んで、皆守はゆっくりと目を閉じた。
…どうしてこのままではいられないのだろう?
葉佩は、このままどこにも行かず――墓地になど行かず、こうして自分の傍にいればいい。
この部屋を出ないで、黙ったままでもいいから、皆守の傍にいればいい。
「甲さん、」
――そのとき、彼の声が、不意に皆守の名を呼んだ。
それは、どこか冷たい痛みを伴って、皆守の耳に触れ。
その唇から零れる言葉を聴きたくなくて、皆守は葉佩の唇をふさいだ。
葉佩は声ひとつ漏らさず、目を開けたまま皆守のキスを受け入れた。
僅かに開きかけた扉。
そこから漏れてくる風は、ひどく冷たかった。
FIN