【 きみがおもうほどかんたんじゃない 】



 多分、君はとても簡単に手を伸ばしたのだろう。

 傷ついた小鳥がいたから、そっと両掌ですくいあげた。
 そして傷を癒し、また羽ばたけるようにと、翼を取り戻してきてくれた。

 だから。
 君はきっと、どうして僕を助けたの、と言ったらとても不思議そうな顔をするんだう。

 どうしてそんなことを訊くのかわからない、といった顔で。

 そのまま、どうして? と言葉短く、簡単に聞き返すのだと、思う。


*****

「どうして?」

 葉佩は、取手の言葉に、心から不思議そうな声でそう返した。
 取手はどこか苦笑混じりにそれを聞き、曖昧に、うん、とだけつぶやく。
 やっぱり、と考えながら、うん、と首を振る。

「どうしてだろう…。ただ、僕は。君が…、物凄く、たいせつなものを取り戻してくれたから…。だから、その…、どうしてなんだろうって、思ったんだ」

 ああ、これじゃ「どうして」の繰り返しだ。

 取手は、言うほどにまとまらなくなっていく言葉たちに嘆息し、困り果てて。
 鍵盤をひとつ。
 ぽおん。
 ファのシャープを押さえてから、なにやら考え込んでしまっているらしい葉佩を見て、ますます顔を曇らせる。

「あ。…ごめん。僕の質問は、君を困らせてしまったみたいだ…」

「ん? ああ、いや」

 そんなことないよ。

 葉佩は明瞭な発音でそれに答え、ニコリ、笑う。
 取手の、ゆるゆると消え行くような語尾とは違う。明快でハッキリとしたその声音。
 笑った拍子に、その綺麗な一重がぱちりと瞬いた。
 白と黒のバランスがとれた眸もひどく明瞭で、彼の体つきと同様、無駄ひとつなく感じられる。

(まるで、猫みたいだ)

 切れ長のまなざし。
 葉佩のそんな両眼を見るたび、取手はいつもそう思う。
 それも、洋猫や三毛猫ではない。
 遠いとおい国。この転校生がつい最近までいたという砂の国に、その昔から住んでいたという細身の猫。
 むかしむかしの美しいひとも飼っていたといわれている、そんなほっそりした猫を思い出す。

「ただ、かまちのいうことは、時々すごく難解だなと思っただけ」

 葉佩は、そんな猫のまなざしのままで続けて言って、今度はからかうように目を細めた。
 三日月みたいに笑う、気まぐれな目。
 そのまなざしにどぎまぎする自分を感じて、取手は慌てて目をそらす。
 そらした先には、見慣れたピアノの白黒鍵盤。

「とても簡単なことだから、逆に答えづらいんだ」

「そ、そうかな…」

 簡単、かな。

 ぽおん。
 今度はレのフラットを押さえて、取手はやや俯きがちに呟く。
 簡単なこと。
 彼にとっては、当たり前のこと。
 それでも、自分はそれがとても嬉しくて。
 ……嬉しくて?
 
(たとえ君にとって、傷ついたものを助けるのが当たり前でも。……僕は、あくまでその中のひとりに過ぎなくても)

 そう。それでもとても幸せだったはずなのに。
 とてもとても、嬉しかったはずなのに。

(…ああ。何だか、心が、)

 きしきしと、小さな歯車が軋むような音を立てて。
 心がゆがみ、持ち主に痛みを訴えてくる。
 葉佩が手を伸ばしてくれた。そして、暗闇から救い上げてくれた。
 それがどんなに嬉しくて、どれほど幸せだったか、まだ自分は克明に覚えている筈なのに。
 …それなのに、この浅ましいこころは、それ以上何を望もうというのか。

「かまち。」

 葉佩が、少しだけ優しい声で名前を呼んだ。
 鍵盤に指を置いたまま、苦しそうな表情で黙り込んでしまった取手を案じてか、その響きは、いつもより少しやわらかい。

「…傷つくなよ? な。カンタンって、そういうことじゃないよ?」

 ああ、にほんごは難しいな、と葉佩はまた笑い、取手の横に並んで、ぎこちない手つきで鍵盤に触れた。
 取手のすぐ間近で、さらり、葉佩の黒髪が揺れ、まなざしの黒が真っ直ぐ鍵盤を見つめる。

 ぼおん。

 響いたのは、落ち着いた優しい音。
 ここが確か真ん中だよな、と、白い鍵盤をひとつ、迷いなく人差し指で押した彼は。
 少し低い目線から、不意に取手をまっすぐ見上げた。

「かまちのこと、たすけたいって思ったから」

 音楽室の中。
 ドは、カンタンに放り投げられるように満ちていく。
 そう。至極簡単に。
 葉佩が、取手に手を伸ばしたときのように。
 それともきみがぼくをたすけだしてくれるとでも、とヒステリックに呻いた取手に、ただ真っ直ぐ手を差し伸べたときのように。
 おびえることはない。世界は君を愛している。
 それから。俺も、君も、世界を愛しているんだよ。
 そう言って、闇の中ひときわ鮮やかに笑ったときのように。

「……だから、手を伸ばしたんだよ」

 葉佩は、そのときのように鮮やかに。…けれど、どこか柔らかく、取手に笑いかけている。
 真っ直ぐ姿勢を伸ばして、ごく間近な場所に立ったまま。
 次は、レ、だっけ? と首を傾げて、取手の指の上から白い鍵盤を押さえ。

「思ったことはカンタンだったよ。俺、かまちのこと、スキだから」

 外国育ちの長い葉佩は、さらりとそんなことを口にして、ミを押さえた。
 フラットもシャープもない、ただの白い鍵盤。
 半音ひとつ、あがらず、さがらず。
 ありのままの旋律をつむぐように、葉佩は言う。

「……あ」

 だから、取手は余計に言葉を失って。

 どうしよう、と思いながら、葉佩に手を取られたまま。
 今度はファ、を、強く、一緒に押す。

 ――世界は君を愛している。

 そんな壮大で無責任な台詞を、堂々と言い放った彼。
 そして葉佩は今も、無責任に、呆気なく。

「スキだから、助けたいし。一緒にいたいし。そう思うことは、とてもカンタンなことだろ?」

 それに、俺は手を伸ばしただけだよ。
 葉佩はそう付け加えて、ことんと首を逆方向に傾けた。

「俺の手をとってくれたのは、かまちだ。…そうか、じゃあかまちは俺のことがスキだと思っていいのかな?」

 そうして、ドュユライクミィ? なんて。
 それこそ、とてもカンタンなことのように葉佩は続ける。
 取手はおろおろと、とられていない方の指先をしばしさまよわせてから。
 …それ以上、どうしようもなくて。

「う、うん。……すきだよ」

 だいすきだよ……、と、俯いて、顔を真っ赤にして。
 呟くしかない。
 どこまで葉佩が本気なのかも分からないまま、取手としてはどこまでも本気な言葉をおろおろと白状してしまうしかないのだ。

「really? 俺、それはすごーく嬉しいな!」
「う、うん…。…僕もだよ…」

 …今度は、ソ。
 ラの次は、シ。
 葉佩の指と、葉佩にとらえられた取手の指は、まるで階段をのぼるように白い鍵盤を次々と押していく。


「伸ばした掌を握ってもらえることも。――すごく嬉しいものなんだよ?」


 ――そうして、一オクターブ上。
 ひときわ高いドの音を押さえながら、葉佩が不意に呟いたことばに。
 …けれど取手は、結局何も言えないまま。
 ただ、自分のものよりも幾分か小さくて、自分よりもずっと手の皮が厚くなっている葉佩の手に覆われたまま。


 ――…もう一度、高いドの音を探して、強く押した。

 つよく。……強く。

FIN.