【 癒えない傷は、ただ乾いて罅割れる 】







「この世界に、絶対なんてないんだよ」

 …それは、彼の口癖だった。
 彼はよく笑い、よく喋り、よく歌いもした。
 歌が好きだった。動くことも好きだった。
 彼が運動で、出来ないことがあったのを見たことがない。
 彼は実際、何でも出来た。
 出来なかったことは、その口を閉じていることくらいだったかもしれない。

 対して、彼女は寡黙な女性だった。
 朝の挨拶も、夜の挨拶も、彼女の口からは殆ど聞いたことがなかった。
 ことに印象的なのは、そのブラックホールにも似た深いブラックの眼差し。
 彼女は、綺麗な声をしていた。
 その声で、日に幾度か、名前を呼んだ。
 それが彼女の挨拶であり、叱責であり、愛の言葉だった。



*****



「……あ、届いてたんだ」
 学生寮の窓口で、取手は自分宛の荷物を発見し、顔をほころばせた。
 それは、実家の長野から届いた食べ物だった。
 何が届いたんだい、と窓口の男性に声をかけられた取手は、ちょっと笑って答えた。
「…蜂の子ですよ」
「……え、蜂の子?」
 男性は怪訝そうな顔をして、きょとりと取手の抱えた箱を眺める。
「蜂の子って、……あの虫の蜂かい?」
「ええ、そうです。結構美味しいですよ」
「へ、へえ…そうなのか」
「結構たくさん送ってもらったから、よかったらどうですか」
「え、い、いや。いいよ!」
 慌てて手を振る受付の顔が面白く、取手は小さく笑って歩き出した。
(……今、はっちゃんは部屋にいるかな…)
 日曜の昼すぎ。受付にあった時計で時刻を確認すると、二時を少し回っているようだった。
 取手は荷物を抱えなおし、メールを打とうかと携帯を探ったが……どうやら部屋に忘れてきてしまったらしい。携帯が見当たらない。
 どうしようかな、と考えてから、結局取手は(彼にしては珍しく)アポをとらず、真っ直ぐ葉佩の部屋に向かうことにした。
 かつかつんと、靴底が床を叩く音が廊下を交差する。
 日曜の、学生寮の廊下は、いつもより人が多い。
 学校の廊下ほど、とはいかないが、談話室に向かう廊下には特に人が多く、取手は蜂の子の入った箱を抱えながら、ひょいひょいと人ごみを避けて葉佩の部屋を目指した。
 …ハチノコ? それはツチノコではないの?
 ひどく、きょとんとした葉佩の口調。
 それを思い出して、取手はちょっと笑った。
 ……確か、保健室で、取手と葉佩と皆守で、食事をとっていたときだと思う。
 あちこちの国に行っていたという葉佩が、さまざまな郷土料理について話していた。そのときに、取手が実家では蜂の子を食べるのだという話をしたのだ。
 葉佩と皆守はその発言にそれぞれ吃驚して、……そして、前述の発言に繋がったのである。
 それはツチノコとどう違うの?
 真面目な顔をしてそう尋ねる葉佩に、皆守が「蜂の子っつったら、蜂の子どもなんだろ」と心もとなさそうな顔つきで突っ込んだ。
 それぞれ興味を持った様子で注目され(ついでに端麗も面白そうに聞いていた)取手はややまごつきながら説明したのである。
 曰く、蜂の子は、長野の郷土料理であること。
 そして、甘く煮付けて、食べること。
 うげえと嫌そうな顔をした皆守に対し、葉佩はいかにも興味津々で「うわあ、それはぜひ食べてみたいなあ!」と目をきらきらさせたのだ。
(…はっちゃんは、喜んでくれるかな?)
 取手はふふ、と箱を抱えて、葉佩の部屋の前に立った。
 そして、コンコンとドアノックするその前に――社交辞令で言っただけだったらどうしようとか、いきなり来てしまって迷惑だったらどうしようとか、色々考えたのだが……。
(……、ここまで来ちゃったなら……一緒かな…?)
 結局、彼は暫く考えてから、やはりノックをすることにした。
 …もしもダメだったら、また日を改めればいい。そうそう簡単に、食べられなくなるでもないし。
 コン、コン。
 意を決してノックした音から、たっぷり二拍ほど置いて。
「――はい」
 葉佩の、明瞭な声が返ってきた。
 その声にどきっと心が震えるのを感じながら、取手は「えっと、取手だけど…」とぼそぼそと中に声をかける。
 こんな声では中に聞こえないかな……とも思ったが、しかし葉佩には届いたらしい。
「どうしたの、かまち」
 がちゃっ、と扉が開いて、中から葉佩が顔を出した。ちょっと笑って、嬉しそうに目を瞬かせている。
「珍しいね? かまちが黙って来てくれるなんて」
「え…、あ、い、いや……。ご、ごめんね。アポイントもなしで……」
「アポイントメント? いらないよ、そんなの。俺は、別に多忙なゲイノージンじゃないんだし」
 ゲイノージンという言葉は、最近覚えたばかりなのかもしれない。言い馴れない発音で紡がれた言葉は、トーンが他のものよりも少し違う。
「……? それ、なに?」
「あ、ええと…。蜂の子……なんだけど…」
 言いながら、取手は葉佩が――その手にがっしりとぬいぐるみを握っていることに気付き、一瞬目をさまよわせた。
「リアリィ? 蜂の子! 前に言ってた食べ物だよね。本当に送ってくれたんだ!」
 嬉しい、と笑う葉佩の手には――けれど、確かにぬいぐるみがある。間違いない。
 土偶の形にも見えるそれは、確か前から葉佩の部屋にあったものだったが……。(リカにもらったんだ、と言っていた)
「ん?」
 葉佩が、ふと取手の視線に気付いたらしく。
 きょとんと目を見張ってから、ああ、と手にしたぬいぐるみを持ち上げて、笑った。
「うん。今日はそういう日なんだ」
「……そういう日?」
「ううん」
 葉佩は取手の問いに苦笑して……、中、入る? と、ドアを開けてみせる。
「あ、うん…。お邪魔します」
 呟いて中に入ると、中は前に見たときよりは多少片付いていたが――相変わらず、雑然としていて。
 よくわからないファラオの胸像や、武者人形。それ以外は、雑然とはしているものの、ラックにきちんとひとまとめにされている。
 座ってよ、と葉佩は寝台を指差して笑い、自分はぬいぐるみを持ったままキャスターつきの椅子をからからとひっぱって、座した。
「――両親が、死んだ日なんだ。今日は」
 そこで、葉佩は唐突にそれを口にした。
「…え」
 取手はその言葉に、びくりと背筋を伸ばす。
 ……それは、初めて聞いた葉佩の身内の話だったからだ。
「…ふふ。意外? 俺がこんな話をするのが」
「えっ…い、いや、あの」
 意外っていうか、と取手はもごもごと口ごもった。
「……いけないんじゃ、ないのかなと思ったんだ。……はっちゃんの仕事だと、その…秘密を明かしちゃ、いけないんじゃと」
「――、うん。いけないよ?」
 葉佩は簡単に言って、笑う。
 そうして、ごめんね。口が滑ってしまったんだ、などと告げた。
(……口が滑った?)
 そう言う割には、葉佩の口調はいつものように明瞭だ。
「どうか、わすれておくれ」
 やや、目を伏せて続ける。…その言葉に、偽りはないのだろうが。
(……?)
 取手は、いつもの葉佩とは違う、その違和感に、首を傾げた。
「記録とか、駄目なんだ」
 葉佩はそのまま独り言めいた調子で続け、手にしたぬいぐるみを軽く振った。ぶん、ぶんぶん。
 短い手を持って、手をつなぐように。……幼子じみた仕草で、振る。ぶんぶん、ぶん。
「この日に死にましたとか。そういうの、結構駄目なんだって。老衰とかならいいらしいんだけど。……そうじゃないと、アウト」
「……はっちゃん!」
 忘れてくれと言う割に、葉佩はすらすらと言葉を継いだ。
 いつもの彼らしくない。全く、いつもの彼らしくない。
 大胆かつ慎重で、秘密ばかりで、……それから、少しだけ自分勝手な、葉佩らしくない。
 口調は常と同じく明瞭だが、しかし、少しだけ早口になっているようにも思う。
 取手は困惑して、眉を寄せる。葉佩は、またちょっと笑った。
「ごめんね。……。…おかしいな。俺は今日、大分油断しているみたいだ」
 ぶんぶんぶん。
 握ったぬいぐるみの手。
 それをまた玩ぶようにしながら、葉佩は笑ったまま、眉を寄せた。
「記録できないなら、俺が覚えておくしかないじゃないか? …だから、毎年、この日はぬいぐるみとか、箪笥とか、壁とかに、話を聞かせることにしてるんだ。……彼らのこと、俺が覚えておかなければ。俺が確認しなければ、」
 彼は呟くように、続けて、寄せた眉をほどいた。
 口元に浮かんだ、半端な笑み。
「はっちゃん……」
「かまち。……。悪いけれど、今日は、も、帰って? 俺、今日は本当、駄目だね。今日は、……たくさん余計なことを喋ってしまいそうだ」
 よくないね。
 静かな声でそう呟いて、葉佩は、表情のうせた顔で、首を傾げる。
 どうか、帰って。
 そう呟いて、傾ぐ。
 …後悔しているのだろうか。
 取手はそう考えながら、葉佩の、弱々しいともとれる仕草に、困惑する。
 入ってと言ったかと思えば、帰れと言う。
 話したかと思えば、忘れろと言う。
 いつもの、明瞭かつ筋の通った行動をとる、葉佩には珍しい。……矛盾ばかりの言動。
(……いいや、違う。……何もかも、明瞭な方が、おかしいんだ)
 見たこともないような、表情の失せた顔で。
 葉佩は、もう一度「帰ってくれないか」と呟いた。
 ……表情を取り繕うことを、忘れたかのような顔つきだ。
 そう考えてから、取手は考える。……じゃあ、いつものはっちゃんの顔は、全て偽りなのだろうか?
「……はっちゃん」
 取手は、躊躇った挙句、足元に箱を置いた。
 …そして、表情の消えた葉佩に、そうっと手を伸ばした。……そして、その髪に、おずおずと触れた。
「かまち?」
 何をしてるの、と、困惑したような声で、葉佩が呟く。
「…はっちゃんが、苦しそうだと思ったんだ。……だから…」
「……」
 取手の言葉に、葉佩はうっすらと笑う。
「ドントウォリイ、だよ。かまち。昨日一昨日の傷口ではないのだから。……もう、とうの昔に治った古傷だよ?」
「…でも、傷は傷だよ。……僕だったら、辛いと思うから。……だから、その……」
「……。……」
 さら、と取手の指の間を髪の毛が流れていく。
 葉佩は取手の手の感触に、そっと目を閉じた。
「……」
 じゃあ少しだけ。
 呟いた声は、いつものそれよりもずっと、はかなく、小さい。
「少しだけ、撫でていて」
 頼むように。…縋るように。あるいは、高慢な女神のように。
「そうして、撫でていて」
 呟くように、言う、その声音。
 取手は、ただそれに「うん」とだけ頷いて、さらさらの髪を何度も撫でてやった。
 ――いつもの葉佩なら、そのまま抱きついてきそうな距離。
 かまちが好きだよ、としがみついて、笑いそうな距離。
 けれど、今葉佩はただ、取手から少し離れた椅子に座ったまま。
 取手が撫でる手に、触れることもない。
 ……けれど、その手から、ぽとりぬいぐるみが落ちたその瞬間。
 葉佩が、ほんの一瞬だけ――俯いた。
 深く、……深く、俯いた。
 泣いているのかなと、思った。
 ……けれど、すぐにまたあがったその目は、乾いていたから。
(……。……泣いても、いいのにな)
 少しだけ、それを切なく思いながら、取手はさらり、葉佩の髪をかき混ぜた。
 懐かない捨て猫を、撫でているような。
 ……そんな、気持ちになった。



*****



 ――取手の冷たい掌が、頭を撫でる。

 そのたびに、僅か泣きそうになる自分を、葉佩は笑いたくなる。

(泣いて縋って、それからどうするんだい)

 彼の細い腕に縋って。
 とうに乾いた傷を示して、痛かったのだと嘆けばいいのだろうか。

(けれど。……、今こうしてることも、それとは大して変わらなくて)

 優しい掌に縋っている。甘えていることに、かわりはない。
 いつからこんなに弱くなってしまったのだろう、と葉佩は自分に、自問する。
 …この学園に来てからだろうか?
 ……両親が死んでからだろうか?
 ………、自分を育ててくれたハンターが、去っていったときからだろうか?

(……。絶対は、ないんだ)

 それは、かつての彼の口癖。
 よく笑い、よく歌った葉佩の父の、口癖。

(……、そう、絶対なんて、どこにもない)
 
 あるのは不確かな偶然と、それをうまく捕まえるための技術。ただ、それだけ。
 だから葉佩は、その感触を信じて、また明日も歩いていくしかない。
 
「……はっちゃん」

 優しい声が、名前を呼ぶ。
 その響きに、縋りそうになる自分を隠して、葉佩はなんだい、と答えた。

「……。……僕はね、はっちゃんのことが、すごく好きだよ」

 その声が、優しくそんなことを囁いてくる。
 いつも通り、何の意図もない、取手の天然じみた告白。
 葉佩はそれにちょっとだけ笑って、ありがとう、と言った。
 どこか的の外れた告白。
 足元に転がったぬいぐるみだけが、ただそれを聞いていた。
 葉佩が、俺も好きだよ、と乾いた声で応じて、ぎゅっと眉を寄せるのを、ただ黙って見ていた。

 そうして、葉佩の眼差しが、一瞬潤むように揺れたのを。
 


 ――やはり、ぬいぐるみはただ黙って見上げて、そして聞いていたのだろう。



FIN