【三月三日】
「これ、いい歌だね」
――それは夕暮れ時だった。
終礼が終わってから、真っ直ぐ音楽室にやってきたのだろう。
掃除当番はないの、と問う取手に、葉佩はただニッコリ笑って、どこかのサボり魔くんが親切に代わってくれたのさ、とだけ言った。
…彼がこの学園に来る理由――任務だった、墓地の下に広がる遺跡の探索。
それが終わってから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。けれど、未だに彼の中の皆守への怒り(のようなもの)はとけないらしい。
怒っているわけじゃない、罪の意識をうまく活用させてもらってるだけさ、と葉佩は笑ったけど、それは結局怒っているということなのだろう。
取手は今日も、そのような理由で雑用を押し付けられたらしい皆守を思って苦笑してから、何を聞いていく? と鍵盤に指を走らせた。
ぽろろぉん。
鍵盤の上を、慣れた動きで彼の指先が、踊る。
そうだね、と葉佩は首を傾げ。
君の好きな曲を。
それだけ言って、微笑んだ。
――その笑顔が、奇妙に透明に見えたことを、取手はよく覚えている。
取手のピアノを聴く間、葉佩は珍しく、本を読んでいた。
いつもなら、ピアノに集中するかのように目を閉じて(時にはそのまま眠って)いる葉佩だったのに。
それに胸騒ぎをおぼえた取手は、何の本、と尋ねて曲を中断させた。
止めてしまうの、と葉佩はそれを残念そうに見やってから、万葉集、と端的に答えた。
「コノハナノ、ヒトヨノウチニモモクサノ、コトソカクレルオオロカニスナ」
まるで呪文のような抑揚で、葉佩は一首歌を詠んで、微笑んだ。
笑ったのでも、苦笑したのでもなく。
ただ、優しく微笑した。
そして、これ、いい歌だね、と言ったのだ。
どういう意味、と尋ねる取手に「あげるよ」と葉佩は本を手渡した。
取手の掌に、葉佩の手から小さな文庫本が渡される。まるでそのタイミングを待っていたかのように、頭上からドヴォルザークの新世界。
下校のチャイムだ。
葉佩は、残念、と笑い、「また聴かせて」と取手の目を見つめて言った。
取手は勿論、と頷いた。
彼が望むなら、世界中の楽曲を弾いてもいいと、彼は真剣に思っていた。
「約束だ」
葉佩は取手の返事に、とても嬉しそうに笑って、じゃあ、と手を振って音楽室を出て行った。
――それが、取手が学園内で彼を見た、最後の姿だった。
*****
…カタン、と音を立てて扉を開ける。
取手は億劫そうな足取りで、よいしょ、と抱えた何冊もの楽典を机の上に置き、そろそろ荷物をまとめないとな、と室内を見渡した。
…三年間、慣れ親しんできた寮内の自室だ。
持ち込んだ電子ピアノに、音楽関係の書籍。授業で使用する教科書。机。
それから、いつも目に見えるところに置かれた、小さな文庫本。
(……やっぱり、卒業式にも帰ってこられないのかな)
取手は胸中で小さく呟きながら、椅子に腰掛け、あの別れの日、葉佩にもらった文庫本をぱらぱらとめくった。
――新しい任務が入ったのだと。
音楽室で話したきり姿を消してしまった彼に動揺して、皆守の元を訪れた取手に、彼は意外そうな顔をしてそう説明してくれた。
九ちゃん、お前に言っていかなかったのか。
その訝しげな響きは、この事実が既に周知のものであったことを示していた。
知らなかった、と取手はただ呆然と呟き、ふらふらと葉佩の部屋の前に向かい、そのドアを――馬鹿馬鹿しいと思いながらも、遠慮がちに何度かノックしてから、がちゃり、と、開けた。
中は、見事なくらいにからっぽだった。
扉も、よく見ればネームプレートが外されていた。
空室だ。
……あれほど散らかっていた葉佩の部屋は、すっかり、綺麗になっていた。
…空室だ。
「……どうして」
取手は、ただ呆然と呟いた。
後から追いかけて来たのだろう。皆守が、呆然と立ち尽くす取手の後ろに立って、心配げに声をかける。……大丈夫か、と。
「…俺も、新しい任務の話を聞いたのは、三日くらい前だった。……だが、本当は遺跡が解放された時点で、あいつは既に身支度を始めていたらしい。任務の話がどうこうじゃない。それが、……あいつの役割なんだとさ」
皆守の周囲を気にしながらの口早な説明も、殆ど頭に入ってこなかった。
ただ、取手の脳内をめぐっていたのは、あの日、つい昨日の葉佩の姿だ。
約束だ、とはっきり笑った葉佩。やけに透明な笑顔。残念、と苦笑した表情。
あげるよと。
本を差し出して、微笑んだ彼の眸。
「……どうして僕は、……あのとき曲を止めてしまったんだろう…」
取手は、ただただ呆然とそう呟いた。
その言葉に、皆守が訝しげな様子で、曲? と尋ねるのにも答えず、取手はそのままふらふらと自室に戻る。
おい、大丈夫か、と皆守がその背中に声をかけたが、取手はそれにも何も答えられなかった。
一人になりたかった。
どうしていいのかもわからない。けれど、とにかく一人になりたかった。
呆然と自室に戻った取手は、机の上に置いてあった本を手にとって――、葉佩がくれた本を手にとって、そのまま、貪るように読んだ。
本当は、昨晩のうちに読み終わっていたくらい、厚みのない本だった。
万葉集の中の一部の歌を、僅かな説明とともに紹介してあるだけの文庫本。
感想を言おうと思っていた。はっちゃんは、昨日言っていたこの歌が好きなの、と確認しようかとも思っていた。
(……だけど、あの瞬間から、君はもうこの学園を去るつもりでいたんだね…?)
ページをめくる指が、震えた。
はっちゃん、と掠れた声で名前を呼ぶ。
どうしたのかまち、とその声にいつも笑って応えてくれた筈の声は、しかし返ることなどなく。
…学園中を探しても、もう彼が顔を見せることはなく。
――そうしているうちに、一月が終わり、二月になり、三月になった。
卒業式には戻ってくるかもしれない。
皆守がそう漏らしていた言葉を頼りに、取手は毎日日めくりをめくり、卒業式がくるのを待った。
けれど、……彼も、いいかげん、そろそろ気付き始めていた。
皆守も、きっとわかっているのだろう。八千穂も、白岐も、……葉佩と関わった、この学園の生徒や教師たちも、皆。
…彼はもう、この学園には戻ってくることはないと。
取手はその事実を受け止めた自分が存外平静であることに、我ながら驚いていた。
気付けば、保健室に行く回数が、以前より少なくなっていた。そして、その分、彼はピアノの練習に打ち込んだ。
以前のように、歩くときに背中をあまり丸めなくなった。
ぼそぼそと喋る癖はなかなか直らないが、葉佩が来る前よりは、クラスメートとも話すようになったのではないかと思う。
お前、変わったよな。
皆守は、そう言って取手を眺めた。
取手はその言葉に、そうかな、と答えてから、皆守君がアロマをあまり吸わなくなったのと、同じ理由かもしれないね、と微笑んだ。
その言葉に皆守は嫌そうな顔をして、そうかよ、とだけ呟いた。
――確かに、取手は変わったのだろう。
そして、皆守や、他の学園の者たちも、皆変わったのだろう。
それは必ずしも葉佩が要因というわけではないのかもしれない。人間は、日々変わっていく生き物だ。良くも悪くも、変化せずにはいられない。
(……僕も、多分少し変わったのかもしれないね)
取手は机に置いたままの楽典を横にずらし、ひらりと紙を一枚机に置いた。それは、便箋だ。
(だけれど……、諦めが悪くて、物分りが悪いところは、多分変わってないんだね。……ううん、こういうところが変わったのかな)
彼は一人苦笑して、……その便箋に、今思ったことや、これからのことや、今日のことをサラサラと書き込んでいく。
メモではない。日記でもない。――それは、手紙だった。
葉佩がいなくなったあの日から、行き場のない彼への思いなどをぶつけるために、書き始めた拙い手紙。
最初の頃は、とにかく恨み言ばかり書いていたように思う。
――好きにならなければよかった。君に会わなければよかった。
そんな風に書いて、消して、また書いて、……そんなことを繰り返した夜もあった。
初めて口づけをかわした日のことを鮮明に覚えていると書いて、それから消したことも。
季節が緩慢とだが春に向かっていると書いて、窓の外を眺めたこともあった。新しい楽譜を書いたことも、逐一そこに記した。
一日に何枚も手紙を書くこともあったし、一枚きりの日もあった。
取手はそれを全て封筒にいれ、宛名を全て「はっちゃんへ」とだけ記し、箱の中に全てしまいこんだ。
宛先も知らない。いつ渡せるのかも分からない。……もしかしたら、一生渡せないかもしれない手紙たち。
それが日々増えていくことを悲しんでいいのか、あるいは滑稽だと笑えばいいのか。取手には、そんなこともよくわからなかった。
それでも取手は、手紙を書くことをやめることができなかった。
こうしている間は、たとえ空想だとしても、誰はばかることなく葉佩を想うことができたからかもしれない。
あるいは、いつか必ず葉佩に会えると、そう信じていたかったからかもしれない。
最近では他愛もないことばかり、手紙に書いている。
梅の花が咲き始めていることや、先日、学内で小さなたんぽぽを見つけたこと。
二月の終わりに、また雪が降ったこと。八千穂がその雪で雪だるまを作ったこと。馬鹿馬鹿しいと笑った皆守が、雪玉をぶつけられたこと。
……取手はあまりに他愛もない内容に、微苦笑を漏らしてペンを置いた。
便箋を丁寧に折りたたみ、封筒にいれて、封をする。宛名はいつものように、「はっちゃんへ」。
虚しいと思わないわけでもない。
そう考えながら、しかし取手は相変わらず丁寧な手つきで手紙を箱にしまいこみ、蓋をした。
彼が帰ってくるあてもない。
………葉佩の部屋は相変わらず空室で、何一つ、よすがとなるものすらない。
葉佩のメールアドレスは、削除されていた。送っても、メールはそのまま返ってきてしまう。
取手はため息をついて、楽典を手に取り、ぱらりとページをめくった。
絶望的な状況だ。…葉佩だったら、きっと「バンザイだね」とお手上げの動きをしてみせ、笑うだろう。
そんなときほど、彼は苦笑を見せなかった。
ただ笑って、参ったね、と言っていた。……本当に「参った」とはとても思えないような、自信のありそうな口ぶりで。
(……ふふ。君の真似は難しいね、はっちゃん)
取手がこんな状況で笑おうとしても、苦笑しか出てこない。
手にした楽典は重く、内容も、殆どが原文で書かれた難解なものだった。
それを眉を寄せて翻訳しながら、一ページ一ページと読みすすめていく。しかし、そのうちに、取手はじわじわと瞼が重くなってくるのを感じた。
昨晩も、眠るのが遅くなってしまったためだろう。
取手は楽典を開いたままうとうとと欠伸を漏らし、これじゃあ皆守君と変わらないなと失礼なことを考えたが――、結局、楽典を閉じて、少し寝台で横になることにした。
幸い、今日は休日だ。三十分ほど眠れば、頭もすっきりすることだろう。
取手は枕に頬を押し付け、そのままとろりと目を閉じた。
意識していなかったが、身体は大分疲れていたらしい。
寝入ってしまった取手は、溶けるような意識で、夢の中をふらふら彷徨った。
……夢を見るうちで厄介なことは、疲れているときほど、願望がそのまま夢にあらわれてくるということだ。
(…案の定)
取手は自分の夢の中でも、つい苦笑してしまった。
混濁した夢の中で、かまち、と笑いかけたのは――、葉佩九龍だった。
かまち、元気にしてるかい。
微笑んで、問いかける声。
うん、はっちゃんと取手は答える。甘えるように縋りたい。凛とした立ち姿。小柄なくせに、やけに存在感のある彼。
あるいは、無理やりにでもかき抱いて、ずっと傍にいて、と囁きたい。
君の我侭には弱いよ、と笑っていたから。…どうかどうか、今度も我侭を聞いてと、縋りたいのに。
夢の中でも取手の足はひどく重くて、うまく動くことが出来ない。
また聴かせてと笑って、約束だよと言った葉佩は、じゃあ、と手を振って歩いていく。
――夢と知りせばとさめざらましを。
そう歌ったのは、小野小町だっただろうか?
あなたに会えたこのひと時。……夢だと分かっていたなら、覚めずにいたのにという切ない歌。
(……けれど、夢だと分かっていても覚めないことなんてできないんだ…)
覚醒していく感覚。葉佩の背中が遠ざかる。
冷たい背中。
……取手を散々振り回して、勝手ばかり言って、けれどそれでもいとおしくてたまらない小柄な背中。
はっちゃん。
呼ぶ声に、彼は足を止めない。凛として。……そして、身勝手な、宝探し屋。
取手が愛した、宝探し屋。
彼はいつかと同じように片手を挙げて――、その手に、何か紙の束を握って、去っていった。
(…紙の束?)
……急速に意識が覚醒する。
取手は、葉佩の手にした紙束にやけに見覚えのあることを訝しみながら、ぱちっと目を開けた。
寝起きの悪い彼にしては、奇妙に明確な目覚めだった。
枕もとの時計を確認してみれば、眠りについてから、まだ二十分と経っていない。
その間に夢を見てしまったのか、と取手は頭を軽く振って――、机の上に目を移した。
そこで彼は、大きく目を見張った。
窓が、開いていたのだ。
……それから、ちゃんと蓋をした筈の箱が。
………箱が、開いていた。
「…はっちゃんッ!!」
取手は覚えず叫んで、起き上がり、開いた窓から外に顔を出した。
触れる外気。冷たい風。三月に入ったとはいえ、まだ冬は名残惜しくあちらこちらに気配を残している。
その中を懸命に見渡して、はっちゃん、ともう一度名前を呼ぶが、返事は勿論帰ってくる筈もない。
もう一度、戸惑いながら机上の箱を見下ろすと――やはり、その箱にぎっしりと詰まっていた手紙は、根こそぎ空になっていた。
夢の中、葉佩が手にしていた紙の束。……あれは、これだったのだろうか?
では、あの夢は、夢ではなかった?
取手はこめかみを押さえ、はっちゃん、と狂おしく名前を呼んだ。
外に出て追いかけようかとも思ったが――、きっと彼のことだ。痕跡など、何一つ残してはいないのだろう。
呆然としたまま、取手は窓も閉めずに、もう一度箱を見た。
……手紙にはどんなことを書いていただろう?
彼はあの手紙を読んで何を思うのだろう?
返事は、返してくれるだろうか?
カタンと音を立て、取手は箱を持ち上げた。……軽い。
そうして持ち上げた拍子、箱からひらりと一枚の花びらが机に落ちた。
たったひとひら。
ちっぽけな、薄い色をした花びら。……桜だろうか? まだ、開花の時期ではなかったように思うのだけれど。
取手はそれを指先で拾い上げ…、切なく、微笑んで呟いた。
透明な、あの日の葉佩の笑顔。
それと共に、思い出さずにはいられない、彼の発した一言一句、全てそのままを頭に浮かべて。
「……この花の、一よのうちに百種の、言そ隠れる……おほろかにすな」
…この花一つにたくさんの種類の言葉が込められているのだから、どうかおろそかにしないでほしい。
確か、そういう意味の歌。
いい歌だね、と言って葉佩が呟いた、一首。
この花びらひとひらに、万感の思いを込めているのだと。
……君が好きだよと、冗談など一つもないような真っ直ぐな調子で、囁いた彼の思いが、ここにこめられているのだと。
そう訴えているような、そんな気がして。
取手は立ちすくんだまま、泣きそうな声で「君はずるいよ…」と囁く。
ああ、そうだね。俺はずるい。
いつだか、同じようになじったとき、彼はそう答えてくれたけれど。
本当に。……本当に、彼はずるいのだ。
取手の背後で、毎日めくり続けていた日めくりが、はらり、揺れる。
示す日付は、三月三日。
かまちの誕生日はモモの節句だね、と目を見張った葉佩。縁起がいいし、覚えやすいな。
必ず何か贈るよ、楽しみにしておいでよ。何処にいたって、必ず君の元に何か届けるから。
「……ずるいよ、君は」
ちっぽけな、花びらひとひら。
それだけで……ああ、一体どれだけの言葉を思い出すのだろう。どれだけの言葉が、胸に溢れてくるのだろう。
取手は震える指先で花びらをとらえたまま、その場にうずくまって、呻き声を漏らす。
そして、そうっと…、小さく、笑って。それから、少しだけ、吐息した。
「そうして、君は僕に忘れさせてくれないんだ…。……僕が君を好きだってことも…、君が僕を好きだってことも、こうして無理やり引きずり出して…!」
愛しいひと。愛しくて、ひどいひと。
取手ははっちゃん、と何度も囁きながら、君は本当にひどい、と笑った。
苦笑でもない、微笑でもない、ただの笑顔。
バンザイだね、と囁いて、笑う顔。
取手は、指先でつまんだ花びらを見つめて、不意にそれを口元まで近づけると。
…百種の言葉が隠れているというひとひらを、ひょいと口の中に放り込んだ。
それは少しだけ、しょっぱいような気がした。……もしかしなくても、小さな花びら一枚ごとき、味などなかったかもしれないけれど。
気付かぬうちに頬を伝った、それは涙の味かもしれなかったけれど。
――もう手紙は書かないだろうと、取手は思う。
その代わり、次に葉佩に会うときは、手紙に書いた以上の愛の言葉を捧げて。
そして、花びらを口に含んだように彼に口付けようと思う。
いくつもの愛の種を含んだ取手からは、きっと今以上に葉佩への想いが更に芽吹いて、手に負えなくなっているだろうから。
FIN