【 青色 】
「子どもの頃、月は誰かに食べられているのだと思っていたよ」
それは、一際月が綺麗な夜だった。
特に示し合わせたというわけでもなく、葉佩は取手の部屋を訪れ、取手もまた、当然のようにドアを開けてやった。
僅か、笑う葉佩。
こんばんはと言って、するりと猫のように室内に入ってきて。
そして、冒頭の台詞を口にした。
唐突といえば唐突な言葉は、きっと取手の部屋の窓が、開いていたからだろう。
不意に呟いた葉佩は、そのまま取手を見上げて、ちらり、舌を覗かせるように笑った。
その笑みが、まるでこちらを煽るようだと思った。
――だから、取手はそのまま葉佩にキスをした。
…まあ、その後は言うまでもない。
キスをしたら、その続きをしたくなってしまうというのも、一般的な男子高校生ならば至極普通の成り行きだろう。
*****
「…実を言うと、俺は少し月が怖かったんだ」
むき出しの肩を寒そうにしながら、葉佩は取手の腕の中に滑り込んでくる。
先ほどまではうっすらと汗すらかいていたのに、触れるその肩は、もうすっかり冷たい。
「はっちゃん、寒い? …暖房つけようか」
その声が少し掠れていることに、じわりと胸がざわつくのを感じながら、取手は一緒に包まっていた布団から抜け出して暖房のリモコンに手を伸ばす。
しかし、葉佩はすぐに「いい」と答えた。
「いらないよ。こうして、かまちとくっついているだけで十分だ」
「……え。そ、そう…?」
「そうだよ」
葉佩の言葉に、取手は慌てて布団に戻った。
だったら、すっかり冷えてしまった葉佩の身体をすぐに暖めなければいけないと思ったのだ。
取手が急いで布団に潜り、まだ少しぎこちない仕草で葉佩の身体を抱き寄せる。
葉佩はそれが微笑ましいのか、あるいはくすぐったいのか、少しだけ笑った。
「……えっと、それで、どうして月が怖かったの?」
ぎゅう、と葉佩を抱きしめながら、取手は尋ねる。
少しだけ骨ばった身体。あちこちに傷の残った身体。
さらさらの髪に顎を押し当てるようにしながら、取手は葉佩の身体をしっかり抱きしめて問いかける。
触れ合ったところから、直接声が響くように思う。
「ふふ。どうしてかなあ。子どものとき、月が欠けていくのは食べられていると思っていたからかもね」
「…? どうして、それが怖いんだい…?」
「怖いじゃないか? だって、自分の身体を食べられているというのに、月はあんなに綺麗だ。欠けるほどにいっそう輝いていくようじゃないか」
俺は、満月より三日月の方が好きなんだよ。
囁いて、葉佩は笑う。取手の顎の下で、クスクスと。
「…じゃあ、月は誰に食べられているんだい?」
掌で包んだ肩は、まだ少し冷たかった。
取手はその肩をそっと摩るようにして、冷えた肌を手で温める。
体温の低い取手の手は、葉佩の肌を温めるには不向きかもしれない。けれど、葉佩がそれを望むのだから仕方ない。
……望んでくれるのだから、仕方ない。
「それが、ひどく漠然としてる」
取手の掌の感触をくすぐったそうに受け止め、葉佩はいつもよりも幾分か甘えたような調子で囁いた。
「太陽だと思っていた気もするし、月自身だと思っていたのかも。どちらにせよ、食べる側は曖昧だ」
さらりとした葉佩の髪が、取手の顎下を、首筋をくすぐる。その感触がむずがゆくて、取手は僅かに身をよじった。
駄目だよ、かまち。
葉佩はそれを咎めるように呟いて、いつの間にか背中に回っていた指先に力を込める。軽く、爪を立てる。
痛いよ、はっちゃん……。
その感触に取手は低く呻き、見下ろしたそこで葉佩が悪戯っぽく笑っているのに眉を寄せる。
まるで、子猫のように奔放だ。そのくせ、彼は詐欺師のように強かで、狡賢いのだ。
いずれにしても、取手が葉佩に逆らえないのを知っていて。
その奔放な笑みに、……こんなときしか見せないような、いつものものよりもずっと色香を帯びた笑みに、取手が逆らえないのを知っていて、きっとそうしているのだろうから。
「……自分で自分を食べてしまうのかい?」
取手は、溜息混じりに会話を続けることにした。
続けながら、取手は布団からはみ出している葉佩の身体を、もう一度上掛けで包みなおす。
暑いのは平気なんだけど、と苦笑する彼は、実のところ、ひどい寒がりだ。
つい先日も、日本の冬は寒いね、と嫌そうな顔をして、音楽室の窓を片っ端から閉めていた。換気をしていたのだけど…、と控えめに取手は申し出てみたのだが、それはいつものように葉佩の笑顔で無視されてしまった。
大丈夫。待っててご覧? かまちが望むって言うなら、俺は酸素だって吐き出してみせよう!
そんな馬鹿げたことを口にして、彼はピアノの前で困った顔をしていた取手に、ちゅっとキスをした。
どう? …酸素だったろう?
そう囁いて、笑う葉佩。
取手はただ顔を赤らめて、そうだったかな…と曖昧に頷くしか出来なかった。
「そう。だからまた丸くなるのさ」
そんな諸々のことを思い出して、こっそり頬を赤らめる取手に気付かず、葉佩は会話を続行する。
うっすらと開いたカーテンの向こうには、青白く輝く細い月。
食べられてしまった、細い月。
「そして、それは繰り返される。変化する、けれど変わらない営みだ。子どもの頃の俺は、その矛盾が恐ろしかったのだろうね」
理解できなかったから恐ろしかったのかもしれないけれど。
葉佩はそれを苦笑しながら呟いて、もぞもぞと身体の位置を変えると、取手の唇にちゅっとキスをした。
「……今は、」
「ン?」
そうして、ひどくいとおしげに取手の首に腕を回す。その感触にひどい幸福感をおぼえながら、取手は小さな声で聞き返してみた。
「今は、怖くないの?」
ぎゅっとしがみつく、葉佩のしなやかな腕。
それを心地よく感じながら、取手は囁く。
「子どもの頃、怖かった月は、……今はもう、怖くないの? はっちゃんは」
「……」
葉佩はその言葉に、少しだけ、沈黙した。
けれど、彼はすぐにその沈黙を破って。
「怖くないな」
そう答えて、ちょっと笑った。
「だって。今やその矛盾を、俺も抱えているのだから。――そうだろ? かまち」
同意を求めるような、その響き。
取手はその言葉に、同じように微笑んだ。
「…そうだね。……そうかもしれないね」
そう言って、とても幸せそうに、あるいはとても儚く笑う。
葉佩の位置からは、その笑みがよく見えないようだ。
けれど、彼はそれでもそれをどこか痛ましげに見上げ、……殊更明るい声で続ける。
「俺は君を食らい、君は俺を食らう。それでも俺たちは変わらないだろう? だから、俺はもう月が怖くないんだ」
かまちのおかげだ。
そう言って、葉佩はありがとうと明るく告げる。
そんなことないよ…、と取手はその言葉にうろたえたように答えて……、それから控えめに、おずおずと反論した。
「……いや、でも…はっちゃん」
あるいはそれは反論ではなく、補足だったかもしれない。
「…確かにそうかもしれない。変わらないかも、しれないけど。……はっちゃんは、その。…だんだん綺麗になる気がするよ」
そう、おどおどと付け加えられた言葉。
葉佩は、くすりと笑う。
「じゃあ月と同じだ。うん。それから勿論、かまちもそうだね」
「…僕も?」
「そうだよ。あれ。困ったかまちだ。自覚がないの? 君も、どんどん綺麗に、格好よくなっていっているよ。困ってしまうね」
こんなんじゃ、おちおち違うクラスでもいられない!
おどけたようにそう告げる葉佩に、取手は「とんでもない」と思うが、これもまた葉佩のジョークなのだろうと流すことにした。
ちらりと見上げた窓では、半端に開いたカーテンから、まだ月が見えていて。
「だけれど、俺はかまちに食べられたいし。…俺もかまちを食べたいし。ねえかまち。浮気なんか、したらいけないよ?」
「……えっ!」
その月を、ああ、綺麗だなと思っていた矢先にこんなことを言われたものだから、取手は一瞬どきりとしてしまった。
一瞬だが、心拍数が跳ね上がったのを葉佩も感じたのだろう。
それまで冗談混じりに話していた筈の彼の眸が、スウッと細められる。
「フウン…? 冗談で言ったつもりだったんだけど。まさか、本当に?」
「えっ、そ、そんなことあるわけないじゃないか! 僕は君だけだよ…! 君しかいないよッ…!」
「口ではなんとでも言えるね。…さっきの心臓の音は、只事じゃなかった。疑わしいね」
「そんな…!」
取手は顔面蒼白になって、死刑宣告ともとれる葉佩の言葉を聞いた。
そんなことはない。そんなはずはない。
大体にして、葉佩以外のひとをどうやって愛したらいいというのだろう?
こんなに奔放で、こんなに強くて、こんなに愛らしいひと以外の、誰に恋したらいいと言うのだろう?
そのように愕然とする取手の表情に、……葉佩はようやく満足したらしい。
「…うそだよ。かまち」
そして、彼はまた綺麗に微笑む。
「俺はかまちの気持ちを信じてるよ? 勿論、俺だってかまち一筋だからね」
誰にも、こんなキスをさせたりしたらいけないよ。
彼は低く囁くと、まだ少し顔が強張っている取手の唇に、貪るようなキスをした。
(いつまで…?)
取手は葉佩のキスをそのまま甘受しながら、まだ少し衝撃を覚えたままの心臓を持て余して、考える。
(……でも、その『一筋』はいつまでなんだろう?)
と。
彼は、月のように気まぐれなひと。
そして、子猫のように奔放なひと。
……いつまでもここにいるわけではないひと。
………いつか、ここを出て行ってしまうひと。いつか取手を置き去りにして、去っていくひとなのだ。
長い口付けを終えてから、取手はそっと囁く。
恐る恐るといった調子で、……けれど、これだけは聞いておかなくてはいけないといった様子で。
「……。もし、僕が本当に浮気とか……その、心変わりとか、したら、どうするの?」
「――。あまり愉快になれない想像だね」
葉佩はその言葉に眉をしかめてから、ちょっとだけ苦笑した。
そして苦笑したまま――、自分の身勝手を知る子どもの顔で、声ばかり真剣に、囁いてみせた。
「許さないよ。…絶対に。どこにいたって飛んできて、――そして、お仕置きしてしまうからね」
「……お仕置きって、どんなことをするんだい?」
「………。……そのとき考える」
「……じゃあ、はっちゃんが浮気しても、お仕置き、だね」
「うん。そうだね」
葉佩は笑った。
そして囁く。
――じゃあ、そのときは俺のことを食べてしまってよと。
全部全部食べてしまって、なくしてしまっていいよと。
取手はその響きの真剣さにまごついて、……けれど、もう一度こっそり見上げたカーテンの向こうの月が、あまりにも綺麗で。
そして、あまりにも葉佩に似ていたから。
「…うん。そうするよ」
そうとだけ返答して、困ったように微笑んだ。
――それはあくまでも、戯言めいた睦言だ。
けれど、その戯言がまるで真剣な誓いであるかのように、葉佩は澄んだ声で答える。
そうして、と。ただそれだけ。
俺のことを、全部食べてしまってと。
…掠れた声で、そっと囁くのだ。
*****
――今は、永遠ではない。
だからこそ月は美しく、時間は尊い。
けれど、あの夜空が深い青に揺れているように。あるいは青ざめた月の輝きが変わらないように。
変わらないものは、必ずどこかにあるのだ。
(…いつまでこうしていられるか、わからないけれど)
窓の向こうで輝く、灰白い月。
その輝きを包むように。
あるいは目をそらすように瞼を下ろし、二人は口付ける。
瞼の裏にはただ青い残像が残って、――そして、消えた。
FIN