【 バスケットボール 】







 ……あおげばとうとしわがしのおん。おしえのにわにもはやいくとせ。
 取手は小さな声で、そっとその歌を口ずさんだ。
 この歌を特別好きだというひとに取手は会ったことがない。また、取手自身もさほど好きだというわけではない。
 だけれど、この歌を知らずに大人になるものはいないだろう。特別好きだというものが少ない割には、この歌はよく卒業式で奏でられる。
 まだ、校内はいくらかざわめいている。
 卒業式も無事終わり、既に時刻は夕方になっているとはいえ、そこここで別れを惜しむ生徒たちの姿が見受けられた。
 取手はリカが精一杯背伸びをして胸につけてくれた花をくすぐったく思いながら、今日以降は着ることがなくなる天香の制服の袖を指先でつまんだ。
 そうして、ようやく目指していた体育館を前にし、そっと笑って、ギイ、と扉を開く。
 そう。『彼』がいつもそうしていたように。
 扉の前で、何かを決意するように呼吸してから、両手に力をこめて扉を開ける。
 いつもそうしていた彼の仕草を真似るように、取手は体育館の扉を開けた。
「…良かった。もう、片付いている」
 先生や、実行委員たちがすぐに片付けたのだろう。
 午前中卒業式が行われたそこは、床一面に敷いてあった布も、一面に並べてあったパイプ椅子も、綺麗に片付けてあった。
 残っているのはステージ上に上がっている「卒業おめでとう」の看板くらいだ。あれは、きっと後日業者がきて撤去するのだろう。
 取手は中をぐるりと見回して、中の光景を目に焼き付けるようにした。
 床を上履きで踏みしめる感触だとか。天井の照明の位置だとか。
 薄暗い館内に、二階席の窓、薄く開いたカーテンの隙間から忍び込む光の具合だとか。
 そんな、愛しいものたちを目に焼き付けるように、取手は瞬きもせずに体育館内を見つめ、そうして乾燥した痛みに潤んだ目を、そっとしばたたいた。
 照明もついていないせいか、中はひどく薄暗かった。
 けれど、取手は迷いのない足取りで館内の用具室までたどり着き、懐から取り出した小さな鍵でそこを開ける。
 そして、開かれたそこで目的のものを探し出し、彼はうっすらと微笑んでそれを入れ物ごと体育館の床の上へ引っ張り出した。
 そこには、山のように積まれたバスケットボール。
 引き出したボール入れの中の一つを手にとり、取手はゴールポストを見上げ、小さく息をついた。



********



「あーっ! やっと見つけた! もう! C組の皆で写真撮ろうって言ってたのに、どうしていなくなっちゃうかなァ!」
 温室の隅で、欠伸混じりに空を見上げていた皆守は、ばたばたばたと駆けてきた八千穂に「げ」という顔をした。
 八千穂はずんずんと皆守まで近づくと、悔しげに手にしたカメラを示す。
「もうッ! しょうがないから、もう皆守クン以外の皆で写真撮っちゃったよ? 夕薙クンだって、白岐サンだって、今日は一緒に写真撮ったのに!」
「あー…、別にいいだろ。俺の分は、写真の右上にでも合成しといてくれ」
「言われなくたって、そうするよッ。もう…! 皆守クンって、卒業式にまでそうなんだから」
 きゃんきゃんとわめく八千穂に閉口したのか、皆守は欠伸をしながら温室から抜け出そうとする。
 それを見咎めた八千穂が更に何か言おうとする言葉へ被せるように、隣に立っていた白岐が「九龍さんからは、連絡はなかったの?」と尋ねかけた。
 その問いかけに、皆守以上に八千穂が一瞬びくりと肩を震わせ、とても悲しそうな顔になる。
 気遣わしげに八千穂を見る白岐だったが、しかし、問いかけは引っ込めない。
 皆守は仕方なく、嘆息して呟いた。
「ねェよ。……大体、何で俺に連絡があるって決め付けんだ?」
「さァ。…ただ、連絡が入るとしたら、たぶん貴方が一番最初だろうと思っただけよ…」
 連絡が入っていないのならしょうがないわねと、白岐は八千穂の肩を抱いて優しく撫でてやる。
「……」
 皆守はポケットのアロマパイプを探しかけて、手を止めた。
 そして、「きっと、あの薄情な《転校生》は、またどこかの遺跡にでも潜ってるんだろうさ」と肩をすくめ、何でもないことのようにそのまま温室を出て行った。
 葉佩九龍という《転校生》が、この學園の謎を解き、――長くかけられていた封印をとき、多くの仲間たちの心を掴むだけ掴んで、そして現れたときと同じように、全く唐突に。
 そう。全く唐突にこの學園を去ってから、もう二ヶ月以上が過ぎた。
 次はどこの遺跡に行くんだと問いかけた皆守に、彼はただ黒々とした眼差しを笑わせて「守秘義務があるから」と答えた。
 ヒミツだよ、と言って、翌日いなくなった。
 今でも覚えている、あの日の葉佩の言葉。……そして、翌日呆然と立ち尽くした、A組の取手の表情。
(九ちゃんは、結局取手だけには何も言わずに去ってったってことなんだろうな)
 聞いてなかったのかと告げた皆守に、取手はただ呆然と首を振った。
 そして、どうして僕は演奏をやめてしまったんだと、そんなことを呟いて、うなだれた。
 勿論、ショックを受けたのは取手だけではない。
 別れを告げられた皆守だとて、葉佩に向けた自分の引き止める言葉の意味のなさを知らされたことが、どれだけショックだったことだろう。
(……。そういえば、取手のヤツ、今日は卒業式以来見てねェな…)
 別に会って、何を話すというわけでもない。
 ただ、保健室で時間を潰すことが多かった皆守にとって、取手は数少ない友人だったのだ。
 今日を境に、もう、今までのように保健室で会うことがなくなる相手に、最後に二、三言挨拶してもいい。
 きっと取手のことだ、音楽室へいるのだろうと、皆守はたった今通り抜けてきた中庭へと再度向きを変えた。
 しかし、そのとき皆守の耳に、体育館から響いてきた物音が飛び込んできた。
 僅かな物音。……ボールが弾んで、落ちるような物音。
 皆守はその音に眉をひそめ、(今日は運動部も練習を休みにしている筈だ)きっちり閉じられた体育館の扉の前に立ち、躊躇いながらその扉を開いた。
 ギィ、と軋むような音。重い扉を開けて中に入ると、午前中卒業式を行っていたそこに、ただ一人。
 整ったフォームで、ゴールポストに向けてボールを放つ少年がいた。
「………」
 バタン、と背後で音を立てて扉が閉まる。
 そんな背後の様子に気づかないのか、依然として照明もつけないまま、中の少年――取手鎌治は、黙って、また一つシュートを放った。
 取手の長い指から離れたボールは、まるで吸い込まれるようにゴールネットの中へと吸い込まれ、だぁん、床に転がって音を立てる。
 そうやって、一体何回シュートを放っているのだろう。
 見回せば、体育館のあちこちには、ボールがごろごろと転がっていて。
 そのうちの一つが、ごろごろり、緩慢な動きで皆守の足元まで転がってきた。
 皆守はそれを拾って手にとった。
 何てことはない。ごく普通の、學園の備品であるバスケットボールだ。
「……やァ、皆守君」
 そこで、取手がようやく振り返り、皆守を眺め、小さく微笑した。
「よう。…うまいもんだな。その位置からだと、三点入るんじゃねえか」
 皆守がゴールを指差して言えば、取手は困ったように笑って、「ここからだと二点だよ」と訂正した。
「…ああ、そうだ。皆守君。八千穂さんに会ったかい? 君のことを探していたよ…。クラス全員で写真を撮るんだって」
「ああ…。さっき言われたけどな。俺の写真は右上にはめ込まれることになりそうだ」
「ふふ…、そうなんだ。それは残念だね…」
 ――はっちゃんの写真も、同じように埋め込まれるのかな。
 取手は何気ない調子でそう続け、またゴールに向き直った。
 そうして、先ほどから何度も打っているのだろうに、全く崩れそうにないフォームで、また一つシュートを放つ。
 ガコン。
 ボールはまるで、魔法のように、ネットの中に落ちた。そのまま床へと転がり落ちる。
 何気ない様子で口にされた、葉佩の名前。
 皆守は、その響きに存外動揺している自分に気づきながら、そうかもな、と思い出したように返事を返した。
「…はっちゃん、卒業式に来なかったね」
 ……ガコン。
 ボールがまた、ゴールに吸い込まれる。
 そして、呼吸も乱さぬまま、取手は隣に置いたボールいれから新しいバスケットボールを取り出し、構える。
「ああ。…薄情な野郎だったからな。忘れてるんだろ」
「…そうかな。僕は、覚えてるんだと思うよ」
 シュッ。取手の手から、バスケットボールが離れ、宙に弧を描く。
「覚えてるから、……だから、来なかったんだよ」
 ガコン。
 ネットを抜けたボールが、床に落ちる。
「……へぇ? そりゃ、どういう理屈だ」
「さァ…。うまく説明はできないな…。本当は、僕がそう信じていたいだけなのかもしれない」
 取手の手からは、休むことなくボールが放たれる。
 ここにあるボールを全て投げるつもりだろうかと、皆守は取手の動きを訝しげに眺めやった。
「…皆守君は、――この學園を出て、それからどこに行くつもりだい?」
「……」
 取手はふと、シュートを放つのと同じくらい簡単な調子で、そう尋ねた。
 だから、皆守も何でもないことのように応じる。「――さァ、な。進学でないことだけは確かだが」
 雛川先生が、心配しただろう…、と取手はそんな保健室仲間の言葉に含み笑う。
「別に、関係ねェだろう…。そういうお前は、どうするんだ? 大学にでも行くのか?」
「――うん。先日、音大に受かったんだ…」
「…そっか」
 ……だから、これで本当に、バスケットはやり納めなんだよ。
 取手は皆守に背を向けたまま。
 小さな声でそう呟いて、また綺麗なフォームでシュートを放った。
 しゃんと背筋を伸ばしたその姿は、いつも窮屈そうに身を屈めて歩いている彼らしくない、真っ直ぐな立ち姿で。
 ガコン。
 また、一つシュートが決まった。
 皆守が見ている中で、取手はまだ一つもシュートを外していない。
 こんだけの腕があるのに勿体無い気もするけどな…、と皆守は肩をすくめたが、取手の決定に口を出す気もない。
「――…皆守君は、はっちゃんを追いかけるんでしょう?」
 しかし、そのとき不意に、取手から断定的な言葉が。……問いかけではない。確認の響きで、放り投げられた。
 皆守はその言葉に眉をしかめ、「そんなわけねェだろ」と答えようとしてから……、口を噤み。
 がこん、と、ボールがネットに吸い込まれた直後、「さァな」とだけ答えた。
 馬鹿馬鹿しい。そんな筈はない。
 世界中、どこにいるのかも分からないような彼を、どうして追いかける必要がある?
 けれど、何故かそれを口にすることは憚られた。本当は、それが正しい筈なのに。

『――甲さん』
 
 脳裏に浮かぶ、葉佩の凛とした声の響き。
 独特な呼び方で、自分の名前を紡ぐ葉佩。
 料理を作るのが得意で、武器を扱うのが得意で、数学と生物が苦手だった葉佩。

『今度は、何処に行くってんだ。……そんなに急いで、何処に行くってんだよ』

 薄情だと、そう責めることもできず、苛立ってそう話しかけた皆守に、葉佩はいつものように真意の見えない眼差しで笑ったのだ。

『残念。秘密だよ。守秘義務があるから』

 それだけ言って、まるで冗談のように「明日すぐ発つから」と苦笑した。
 サヨナラ甲さん。
 はっきりと別れを告げて、目を細めて。
 …皆守はその声に、返事もしなかった。
 卒業式には帰るのかという言葉に、彼らしくもなく曖昧に笑った葉佩の腕をきつく掴んだだけだ。
 
『…お前の望む挨拶なんて、絶対言ってやらねェからな』

 そう言って、苦渋に顔を歪めた。それだけだ。
 葉佩はその答えに、「甲さんは意地っ張りだ」と、微笑した。苦笑ではなかった。嬉しそうに、笑った。
 その笑顔は、何故かそれまで見た、あの黒々とした、奥底が覗けないくらいに真っ暗な眼差しでなく。
 皆守が生徒会役員だと告げたそのときに、葉佩が見せた、虚ろな目つきでもなく。
 初めて皆守と会ったとき、これからよろしくと笑ったそのときの眼差しに、ひどく酷似していた気がして。


 ――ガコン。


 ――…また、ボールが一つゴールに吸い込まれた。
 取手は、だん、だんだんと床を跳ねるボールの音が消えるのを待ってから、呟く。
 その声は、いつものようにくぐもっているくせに、やけに体育館内によく響いた。
「…僕は、追いかけるよ」
 その声に、躊躇いはなかった。
 彼は迷いもなくその言葉を口にして、そして、最後に三つだけ残ったボールの一つを放り投げる。
 ガコン。
 ボードにぶつかって一度跳ねたボールは、しかし、またゴールを綺麗にすり抜けて。
「……どうやってだよ。お前、進学するんだろう?」
 皆守は、取手の迷いない口調に惑ったように、そう尋ね返した。
 取手は皆守に振り返らないまま、二つ目のボールを手にする。
 シュッ――…、ガコン。
 決まった手順のように。まるで何かの儀式のように、ボールは綺麗な弧を描いて、ゴールを潜り抜け。
「うん。…進学するよ。ピアノは好きだから。もっと、勉強したいから、僕は進学する。……けれど、それと同じくらいはっちゃんも好きだから。――だから、僕は彼を探しに行くんだ」
 くぐもった声。けれど、奇妙に明瞭な響き。
 彼は真っ直ぐな決意を口にして、「…だって、僕はまだ、彼に何も言えてないんだ」と微笑んだようだ。
 皆守の位置からは、背中しか、見えなかったけれど。
「言いたいことも。聞きたいことも。……こんなにたくさんあるのに、まだ一つも言えてない。……だから、僕は彼に会いたいんだよ」
 皆守は、取手の言葉があまりに真っ直ぐで、またあまりに迷いのないことにいくばくか戸惑いながら、ただ眉を寄せた。
 自分を顧みるように、眉を寄せた。
 その間に、取手の手は最後のボールを手に取った。
 身構える。……シュートを、放つ。
「はっちゃんが前に言っていたよ。……何かをするためには、そうしたいと思うことが大切なんだって。思うことが、そして実行することが、何より大切なんだって」
 ガコンッ、と音を立てて、ボールが吸い込まれていく。
 最後のシュートが、床に落ちて、だんだん、だん、と跳ねる。
「正直、……僕はまだ、どうやって彼を探したらいいのかとか。…どうやって会いに行ったらいいのかなんてことすら、まだ分からないでいるけど。……だけれど、僕が彼に会いたいってことだけは、決まってるから。……だから、僕は歩き出そうと思うよ」
 くぐもった声は、しかし決意を秘めて。
 迷いのない口調で告げて、振り返った取手は笑う。…以前のように、控えめに。けれど、はっきりと何かを決めた顔つきで笑う。
「……。…そうか」
 皆守は取手の言葉に、ただそれだけ答えた。
 取手も同じように、うん、と短く答えて、微笑む。
 それから、彼は一つ一つ、丁寧な仕草でボールを拾い上げ、用具室にそれらをしまいこんだ。
 そして、しっかりと鍵を閉めて、皆守に背を向けて、体育館の扉の前に立つ。
「僕が、ここに置いていくものはこれでお終いだ。……付き合ってくれて、ありがとう。皆守君」
「いいや。…別に、ただ見てただけだからな。なんてことはないさ」
「うん。…でも、ありがとう。……保健室にいるときも、いつもそうやって気にかけていてくれたよね。…嬉しかったよ」
 取手は振り返って、皆守を見た。
「はっちゃんは僕にとって、初めてできた大事なひとだけど。……皆守君は、たぶん最初の友達だったから」
 皆守は、その言葉に何も答えなかった。
 そりゃどうもと手を振るくらいしか、できなかった。
 取手は、しかしそれで十分だと言うように、ニコリ笑って、体育館を出て行く。
 皆守はその背中を黙って見送りながら、扉が閉まるのを見ていた。
 ここに入ってきたときから、手にしていたボール。
 それを取手がしまい忘れたことを指摘しないまま、扉が閉まりきるのを見て。
「……よっ、と」
 それから、取手のフォームを真似るように、バスケットボールを放った。
 できるだけ上手く投げたつもりだったが、しかしボールはボードの辺りで跳ね、ゴールに入ることなく床で跳ねた。
 あいつみたいに上手くはいかねェか、と皆守はそれを見て苦笑し、ポケットからアロマパイプを取り出して。
 ……それから、ぎゅっと手の中でそれを握りしめ、ポケットにしまいなおした。
 そして、彼は体育館を出て行った。
 ギィ…と、音を立てて扉が閉まる。
 それを背中に聞きながら、振り返りもしないで出て行く皆守の背後。
 彼が最後に投げたボールだけが、まだ、何度か跳ねて。

 バタン、と閉まった扉の向こうで。


 ――静かに、動きを止めた。


FIN