【 初めての… 】
――子どもの頃から、ものに執着しないタチだった。
宝探しは得意だったけど、手に入れた宝物を手元に置いておくことが不得意だった。
形のあるものは苦手だった。
形のないものにこそ価値があると、そう信じていた。
だから、形あるものには執着せず、すぐいろいろな人にあげてしまったり、手放してしまったりした。
それこそが“宝探し屋”として正しい姿だと信じていたし、今でも実際そうだと信じている。
…けれど、信じているからこそ余計に強く感じてしまうのだ。
ああ、俺はとうとうやってしまったと、どこか自嘲すら混じった思いで考えてしまうのだ。
それは随分昔に聞いた、父の予言だ。
「なあ息子。油断しちゃいけないよ。油断はよくないよ? そいつはいつも不意打ちでやってくるものさ。お前が知らないうちに背後に忍び寄って、ぱくりだ! 気づいたら逃げ道なんてないのさ!」
だから、今はまだ威張っておいで。
何にも執着しないよ、何も惜しくはないよと威張っておいで!
…きっといつか。
そう遠くないいつか、お前はきっと見つけてしまうだろうからね?
優しい目つきでそう話してくれた彼は、きっと知っていたのだろう。
「……はっちゃん? どうかしたの」
ポロォン。
鍵盤の音が、余韻のように響く音楽室。
そこで、不思議そうにこちらを見て首を傾げるひとのことを。
「――ううん」
彼に向かって真っ直ぐに放たれる。
躊躇いもなく向けられ、戻ってくる当てのないこの気持ちのことを。
「なんでもないよ。かまち」
********
最近、葉佩はぼんやりしていることが多くなった。
取手がそう、皆守に話すと、彼は不思議そうな顔で「前からそうじゃねェか?」とアロマをふかした。
八千穂に言うと、「そうかな? おなかでもすいてるんじゃないかな? いっつもひとにあげてばっかりだし…」と彼女なりに心配そうな顔をした。
椎名に尋ねると、「いつも通りだと思いますけどォ? リカ、よく分かりませんわァ」と首を傾げられた。
…ポロロォン。
慣れた鍵盤を叩きながら、取手はこっそり葉佩の表情を窺う。
(……誰に聞いても、はっちゃんはいつも通りだっていうけど)
奏でる曲は、シューベルトのアヴェ・マリア。
リクエストを聞いたところ、優しくて静かなうたがいいと言われたための選曲だ。
救い主の母を歌う、美しきメロディ。
それをゆるゆると奏でながら、取手はまたちらりと葉佩の顔を見た。
音楽室の机の一つに座った葉佩は、目を瞑ってメロディに耳を傾けているようだった。
しかし、時折その黒々とした眸が開き、取手の曲を聴きながら外を眺めている。
「…あ」
不意にその薄い唇から、ほろりと言葉が零れた。
そのメロディに反応して、取手の指が止まってしまう。
「あ。何だ。止めてしまうことないのに」
葉佩はそれを残念そうに見たが、すぐまた視線を外に移す。
「……ああ」
取手も窓の外を眺めて、葉佩が小さく声を上げた理由を理解した。
「…雨だね」
「イエス。――降り出したなあと思って」
防音措置の施された室内には、外の雨音は殆ど響かない。
夕立だろう。
中から見ていても、結構激しい雨粒が、窓を叩いている様子が見て取れた。
「…ふふ。雨だれを弾いてもらった方がよかったかな」
「そうかもね…。でも、もうこれ…雨だれどころじゃないよ」
特別教室棟を襲う唐突な雨は、この季節には珍しいほど激しい。
取手もピアノから立ち上がり、天気を確認しようと窓に近づいた。
しかし真っ先に雨に気づいた筈の葉佩は、机から動かないまま。
頬杖をついて、窓を見ている。
「……はっちゃん、傘、持っていた?」
「ノ。持ってない」
「…持ってない、の?」
「そ。持ってきてない、じゃなく持ってないの」
困らないの、と首を傾げる取手に、雨でも走れば何とかなるでしょ? と葉佩は首を傾げる。
「勿論、多少濡れるけど。でも、大したことじゃないし」
黒々とした、それこそ雨に濡れたような黒い眼差し。
その眼差しに、どきりと一瞬心臓が速さを増した。
…Andanteが一気にAllegrettoになったよう。
どぎまぎと視線を泳がせる取手に、葉佩は何を思ったのだろう。
不意に笑って、取手を手招いた。
「だからね。――暫く、ここで雨宿りをしていようよ?」
微笑んで手招く表情は、アヴェ・マリアがうたう清らかな聖女にも似て。
…そのくせ、英雄を惑わすカルメンの妖艶な笑みにも似て。
取手はぎくりと足を止めながらも、しかし葉佩の薄い唇が浮かべる笑みから目を逸らせない。
「どうしたのかまち。――おいでよ」
微笑んだまま、手招く葉佩に、取手はふらふらと近づいて。
――気がつけば、机のすぐ傍に立っていた。
葉佩が笑って、囁く。
「ねえ。屈んでくれるかい」
そうじゃないと、キスが出来ない。
その言葉に、頭の中が一気に沸騰したようだった。
取手は……決して初めてではないというのに、…葉佩とのキスが初めてではないというのに、まだくらくらしてしまう頭を振って、葉佩の言うがままに屈む。
長身を懸命に折りたたむようにして葉佩の肩に触れ、その唇に口付ける。
葉佩は黒い眸を閉じて、取手の口付けを甘受した。
そして、薄く唇が開く。
その事実にまた狼狽しながらも、取手はぎこちない技巧で葉佩の口内に舌を差し入れた。
「…ン…」
あえかな声が、取手の耳朶に触れる。
それがひどく恐ろしいようで、……心がとらわれてしまうようで、取手は心をおののかせながら口付けを続けた。
「……。…かまち、凄くどきどきしてるね」
ぴちゃりと唇が離れた拍子、唾液が音を立てた。そのいやらしい音に、頭に血が上りそうになる。
こんなこと一つ一つに狼狽している自分は、なんて物知らずで、なんて経験が足りないんだろう!
取手は葉佩の言葉にうなだれながら、「ごめんよ…」と囁くように詫びる。
「? 何故謝るの。かまちがどきどきしてくれて、嬉しいよ。俺にどきどきしてくれてるんだろう?」
俺もどきどきしてるよ。いつもかまちにどきどきしてる。
くすくす笑って、あどけないと言ってもいいような笑顔で取手を見上げる葉佩に、取手はしかしうなだれたまま。
葉佩の頬にそっと掌を這わせて、おずおずとその額に口付ける。
(…ああ、きっと僕だけがはっちゃんがぼんやりしていると気づけたのは)
ちゅ、と音を立ててこめかみに口付けて、そして離れる。
哀しそうな取手の目に気づいたのだろう。
葉佩が戸惑ったように彼を見上げ、かまちどうしたの、と呟く。
その呟きを聞きながら、取手は思う。
(……僕が…こんな口付け一つにも慣れなくて、いつもはっちゃんの顔色を窺っていたからだ)
本当に僕でいいのかなと、一つ一つが不安で仕様がなくて。
いつも、葉佩の様子を窺っていたからなのだ。
「……なんでもないよ」
ひどく情けない思いで取手は葉佩の言葉に答えるが、葉佩は納得しない。
「なんでもなくない。何で? 俺、何かかまちを傷つけたかな」
教えてほしい。
真剣な目でそう言う葉佩に、取手は嬉しくなった。
けれど、同時に哀しくなった。
「……。……違うんだ。……ただ、はっちゃんはこんなに慣れて、落ち着いているのに。…僕はいつまでも慣れなくて、みっともないなって…。そう、思っただけなんだ」
「……エ?」
取手の言葉に、葉佩の顔が訝しげなそれに変わる。
「……。…だって、はっちゃんは……その…。……キスだって、…その…ええと、こういうことだって、全部初めてじゃないんでしょう…? 僕にとっては何もかもが初めてだけど、…はっちゃんにとってはそうじゃない…」
それを不実だと責めるのは筋違いだ。
ただ、葉佩は取手よりも経験している。慣れている。それだけの話だ。
まだ出会ってもいない過去のことを責める筋合いはない。
葉佩が困惑したような顔になっているので、取手は慌てて「…あ、責めてるとかじゃないんだ…」と説明する。
「……ただ、僕は自分が不甲斐ないんだ。……不甲斐なくて、その……」
不甲斐ない、情けない。
そう呟きながら、しかし、取手は次第に、口にするまで気づかなかった胸のざわつきが、じわり、広がっていくのを感じた。
今、自分を不思議そうに、心配そうに見上げている葉佩の黒い眸。
この眼差しを、自分と同じくらい間近で見上げているひとが、いたのだ。
今は困惑したように引き結ばれている唇。それを、自分以外にも味わったひとがいたのだ。
葉佩の細い、けれどしなやかな身体。
綺麗に筋肉のついた、猫のように引き締まった身体を知っているひとが、いたのだ。
ザワリ。
……胸の奥にじわじわと広がっていく黒い雲。それは、嫉妬という名前だと、取手も知っていた。
けれど彼はそれすら恥じて、俯いてしまう。
俯いても葉佩の眼差しが目に入る。…それが辛いので、俯くだけでは足りず、目も逸らした。
ひどく苦しい。けれど、それをどうしたらいいのかも分からなかった。
「……。かまち」
葉佩がそっとため息をついた。
それに心臓をひどく押されるようだと思いながら、取手は「ごめんね…」と押し殺した声で呟く。
聞こえない窓の向こうでは、雨足が次第に弱まっているようだった。
「かまち。――こっちを向いて」
そうして目を逸らす取手を、葉佩が強い声で呼んだ。
命令というほど強くないが、懇願というほど弱くない、それ。
その声に押されるように、取手はようやく葉佩に向き直った。
彷徨いがちになる視線。
しかしそれは、ぎゅっときつく握られた掌のせいで、ひとつに――掌の持ち主である葉佩に絞られて。
「確かに、俺はキスもセックスも、かまちが初めてじゃないよ」
きっぱりと肯定する葉佩の言葉に、心臓を縫いとめられそうになった。
音を立てて硬直した取手に、けれど葉佩はすぐに「だけど、俺だってかまちが初めてなんだ」と言葉を付け足す。
「……はじめて?」
困惑したように復唱する取手の視線は、まだどこか疑わしげで、自信なさげだ。
そんな取手を鼓舞するように、葉佩は更に強く掌を握り締める。
「初めてだよ。君にとって俺が初めてのひとであったように、俺にとっても君は初めてのひとだ」
「……。……いいよ、そんな慰めを口にしなくても……」
「慰めじゃないよ」
取手の自嘲するような言葉に、葉佩はムッとしたように眉を寄せた。
「心外だ。かまちは、俺が適当な慰めを口にしてごまかすような男だと思っていたのかい? どうして信じてくれないか、理由を言ってくれないか」
「……そんなの…」
取手は決然とした葉佩の口調にたじろぎながら、だってはっちゃんは何が初めてだったのか言ってない…ともごもご言い返す。
「あ、ナルホド」
眸をぱちくりさせて、葉佩はそうか、と頷くと、目を物騒に細めて「かまちのえっち」と笑った。
え、えっちってなにが、と顔を赤くする(しかし傍目には殆ど顔色も変わっていない)取手に、葉佩は椅子から立ち上がって抱きついた。
いや、――抱きしめた。
細いがしっかりした両腕を取手の背中に回し、懸命に背伸びして顎を肩に乗せる。
そして、言う。
「…抱きしめたいと思った人は、初めてなんだよ」
少しだけ照れたように、口早に。
そう呟いて、え、と呟く取手を「黙って聞いてなさい」と叱咤する。
「自分からキスしたいと思ったのも、こうして抱きしめたいと思ったのも、……心から愛したい、慈しみたいと思ったのも君が初めてなんだよ、俺は! …守りたいとか、ハグしたいとか、……とにかくその、そういう気分になったのは初めてなんだ。君以外になったことないんだよ俺は」
かまちだけだよ。
そう呻くように呟いて、葉佩は背中に回した腕に力をこめた。
肩に、ぐりぐりと顎を押し付けた。
「………はっちゃん……」
「ナニ。…一応言っておく。俺は今、物凄く顔を見られたくない。理由もいいたくない。黙秘だ」
「…………。……じゃあ目を瞑ってるよ? ……目を閉じてるって約束するから……、その…」
取手は。
自分を抱きしめるこのいとしい生き物に何を言っていいのか分からないまま、溺れるほどの幸福に目が眩むような思いで、囁いた。
「キスをさせて。……君に口付けたい」
目をふさいでいていいよ。
見えなくても、キスは出来るから。……君のことを思えるから。
これ以上何を言うこともできないまま、そう思いを込めて囁くと、葉佩は絶句したように沈黙して。
「……。じゃ、ちゃんと目を閉じておいで」
開き直ったように、そう言ってから、度重なる戦闘やら宝の発掘だとかで荒れた掌を、取手の瞼に乗せた。
そして背伸びをしたまま、取手と口付けた。
……取手が一瞬だけ約束を破って、葉佩の指の間からちらり眺めた窓の外は、いつの間にか雨が上がっていて。
うっすらと、…けれど、確かな七色の帯が、空に架かっていた。
そうして思った。
僕は今なら、どんなうたも書けるだろうと。どんなうたも、奏でられるだろうと。
どんなうたも、喜びをもって奏でられるだろうと。
そう思った。
********
「雨が上がってよかった」
…夕焼けも過ぎた空の下。
そういえば、下校のチャイムなんてとっくに鳴り終わっていたね…と苦笑する取手と手をつなぎながら、葉佩は寮に向かって歩いていた。
『そう遠くないいつか、お前はきっと見つけてしまうだろうからね?』
笑いながらそう予言した父は、この日のことを知っていたのだろうか?
今、隣で幸せそうに身を屈めて歩いているいとしいひとのことを知っていたのだろうか?
葉佩は薄闇に表情をごまかしながら、「よかった。俺は傘を持ってないから」と笑った。
ひどく切ない思いに顔を歪めながら、笑った。
(ごめんよかまち。俺は、さっき、ひとつだけ本当を言わなかった)
取手が小さく口ずさんでいるのは、アヴェ・マリア。エレンがマリアをうたう、きよらかなうた。
それを聞きながら、葉佩は懺悔する。
神にではない。葉佩自身、何か分からないものに懺悔する。
(本当は。…本当はね。………。俺にとって、君が初めて執着するものになったんだと、そう言いたかったんだよ)
つないだ手の先。
まだ知らなくてもいいと思う。
手をつないだ取手は知らなくてもいい、いつか葉佩が旅立つだろう日のこと。
(初めてだったんだ。……、置いていくのが惜しいなんて。……宝を探すよりも、何よりもずっと君の傍にいたいなんて、初めてだったんだ)
――こんな胸を締め付けられるようなジレンマは、初めてだったんだ。本当に、初めてだったんだ。
葉佩は薄闇にそれを隠して、別れ際、取手の掌をきつく握った。
はっちゃん? と首を傾げる取手に微笑を向けて、また明日ね、と手を離した。
いつか、本当に別れの日が来るとしたら。
葉佩は何でもないように笑って、廊下を歩いていく。
取手も、同じようにいつも通りの足取りで廊下を歩いて――自分の部屋に入ったようだ。
だから葉佩は一人立ち止まって、既にしまった扉を見つめて考える。
――そう、いつの日か確実に来る、別れの日のことを、考える。
「……。また明日ねって、そう言うよ。俺は」
そして誰もいない廊下で、葉佩は静かにそう囁いて、……また歩き出した。
いつか見つけてしまうだろう執着。
それを見つけたら、どうしたらいいと、父は教えてくれなかった。
教えないまま、ただ優しく葉佩の髪の毛を撫でた。
その感触を思い出そうとしても、今はもう取手の掌しか思い出せないのだ。
FIN