【 つぎの一歩と、つぎのひと呼吸のことだけを 】




 ――彼は、本当のところ。
 いつも、少しだけ、我慢をしている。

 だから、あと一歩のわがままが、いつも遠い。

 たった一歩だから、歩いてほしいと思うのに。
 たった一歩だから、踏み出してほしいのに。

 俺はいつだって欲張りだから、彼がそうして我慢していることが理解できないし。
 気づいても、何を言っていいのかわからなくて、結局何もできないまま。
 けれど、本当はいつだって待っているんだよ。
 
 手を伸ばせばいい?
 それとも、一歩、俺から距離を縮めればいいのかな。

 迂闊なことをすると、彼はまた、俺には理解できないところを我慢して。


 ごくり。飲み込んで。

 また、何もなかったように、そっと笑うんだろう。 


*****

「…なあ。今日の昼は、どうするよ?」
 ――ざわざわと響く喧騒が心地よい、といつも思う。
 …人の声は、とてもあたたかだ。
 遺跡の中、しんと静まり返る空間にひたひたと踊る砂の音も、そう悪くはないのだけど。
「おい、九ちゃん? 聞いてんのか」
 葉佩は、そこでようやく傍らの親友に目線を移した。
 そして「ああ、ごめん」と笑って、俺はマミーズでも購買でもいいよと首を傾ける。
 ――葉佩は、今までろくに学校に通っていない。
 必要最低限の勉強を協会で、残りの不必要に興味溢れる部分を独学で吸収してきたため、成績が際立って悪いわけでもないが、大して良くもないのはそこが理由だ。実践的な語学に関してはさすがに堪能だが、日本のように読み書き重視の勉強には慣れていないため、まだ成績が追いついていない。
 しかし、それ以上に葉佩は、このようにひとつの建物に集う同世代の群れや。
 その中で、それぞれの趣味、嗜好、それぞれの思い、考えを抱いて生きる少年少女たちの、眩しいようなざわめきに慣れていなかった。
 自分と同じ年頃で、けれど自分とは違う生活に身をおいてきた同年代の若者たち。
 葉佩は、そんな彼らを眩しく思い、時に煩わしく思い、そしてひどくいとおしく感じる。
 羨ましい、というのとは少し違うのだろう。葉佩は、自分の生活に満足している。不満があれば、仕事もやめるだろう。身軽で、判断に躊躇のいらない自分を、葉佩は知っている。
 けれど、ここは明るいひかりと、雑多な闇に満ちていて。
 それが、そう、とても好きで、愛しいと思う。
「…またボーッとして。何そんなに考えてんだ?」
 再度の問いかけに、葉佩はただくつりと笑った。
「ちょっとね。甲さんが言うとこの、いつもの“大げさなこと”を考えてた」
「…あァ? じゃあまた、いとしいだのまぶしいだの、うつくしいだの、そんな恥ずかしいこと考えてたのか?」
 お前、それじゃあ黒塚と殆ど一緒だぜ、ノリが…、などと呟いて、皆守は気だるげに目を細める。
 その言葉に、一緒だとどうしていけないの、と葉佩は笑い、彼のいとしいものたちを再度見回そうと思って視線をめぐらせた。
 その拍子に、ぱちり、とひとつ瞬きをする。
 瞬きの少ない一重の瞳が、知り合いの姿を映したからだ。
「あ…」
 しかし、その知り合いは葉佩と目が合ったか合わないかのタイミングで、すっと廊下の奥に姿を消してしまった。
「……あれ」
「ん…。どした?」
「うん。今そこに、かまちがいたんだけど」
 葉佩は首を傾げて廊下の隅を指差し、指差すだけでなくぱたたたとそこまで小走りに駆けていく。
 皆守も、何だよ急に…とぶつぶつ言いながらも、付き合いよくそのあとに続いた。
「…あれー? もういない」
 しかし覗き込んだそこには、既に取手の姿はなかった。
 長身で、腕の長い。そして、線の細い彼は、見かけに似合わず大層逃げ足が速いようだ。
「……。…気のせいだったんじゃねェの? もしくは、別の用事があったとか」
「うー。気のせいはありえないから、きっと何か他の用事があったんだろうな」
 ありえないのかよ、と皆守が突っ込んでくるので、葉佩は小さく笑ってそうだよと返した。
「だって、俺がかまちを見間違えるはずないだろ?」
「……まあ確かに、特徴あるけどな。あいつの見た目は」
「うん? ああ。そういうのじゃないよ。なんていうのかなあ。……分かるんだよ?」
 葉佩はくすくす笑って、勿論、甲さんのこともわかるんだからな俺、と腕組みをする。
 そうして構えると、小柄な筈の葉佩が妙に大きく見えるから不思議だ。
「だって、かまちも甲さんも……やっちーも白岐さんも黒塚も、俺が出会って好きになった人たちみーんな、俺の宝物だから」
「はァ…?」
 タカラモノ、ねえ、と皆守は葉佩の言葉に呆れ果てたような仕草で首を振った。
「…お前が言うと、洒落にならないな」
 どこか苦笑混じりに、そんなことを呟きながら。
 ふふふ、そうだろう?
 葉佩はその言葉に満足げに笑い、ぱたっと足を止めて、唐突に背後を振り返った。
 どうした、と声をかける皆守に、なんでもないと答えて、葉佩は小さくため息をつく。
(かまち。…確かに、さっきいたはずなのにな)
 廊下の隅、今にも声をかけそうな様子でじっとたたずんでいた。
 けれど、ああかまちだ、一緒に食事でもどう、と誘おうと葉佩が目を輝かせたら、その瞬間いなくなってしまった。
 まるでおびえた小鹿だ。
 彼に話しかけ、約束を取り付けるには入念な準備が必要なのだろうか?
(だけれど)
 葉佩はそこでもう一度腕組みをして、昨日話したばかりの長身の彼の姿を思い浮かべる。
 そう。だって昨日は、一緒に昼食を食べたのだ。
 昨日も、出会いは廊下だった。
 今日のように、人ごみとざわめきにぼんやり浸っていた葉佩は、廊下で偶然会った取手に奇遇だねと笑いかけた。
 そのまま少し待っていると、相変わらず控えめで小さな、取手の「うんそうだね…」という答えが返ってくる。
 取手は、声がか細く、返事が人より少し遅い。けれど、待っていれば必ず答えは返ってくるし、小さな声は耳を澄ませば聞くことができる。
 昨日も、かまちに会えてラッキイだな、いつもは放課後まで殆ど会えないのに、と嬉しげに話しかけた葉佩に、取手はほんの少し目を瞬かせ、その眼差しにじわりと喜びを滲ませると。
 また、少し間をおいてから、そうだね、と。
 まるで、万感の思いをそこにこめているかのように、呟いた。
 僕も、嬉しいよ。
 …そう、まるで、とても大切な音を紡ぎ出すように。
「確か、時間泥棒がでてくる話があったね」
 葉佩は傍らの皆守が欠伸をするのを見ながら、唐突に言った。
「…ハ?」
「エンデだよ」
「……えんで?」
 恐らく、今日は珍しく朝から授業に出たせいで寝不足なのだろう。
 皆守は完全に欠伸混じりの声で、気の抜けた相槌を返す。
 ミヒャエル・エンデだよ、と葉佩はもう一度言い直し、児童書だし、甲さんは読んでないのかも、と考えた。
 ひとびとの時間を奪う泥棒たち。立ち向かったのは、ちっぽけな一人の女の子と、彼女の友達だけ。
 そう。その友達に、無口な掃除夫がいた。
 いつも少しだけ口ごもる。だけど、とびきり優しい掃除夫。
(かまちは、少しだけあの掃除夫に似てるな)
 考え考え、考えすぎるせいで、返事をするのが少し遅れる掃除夫。
 そんな彼の、ひとを気遣いすぎる愛すべきおろかな美徳。それを、取手も備えているように思えた。
 ああ、あの掃除夫はなんて名前だっけ?
「甲さんは知っている? 彼の名前」
 小柄な葉佩よりも、皆守はもう少し目線が高い。少しだけ皆守を見上げるようにして話しかけた葉佩に、しかし皆守は顔をしかめるだけで。
「…お前。頼むから自分の心の中の台詞も、会話に含めて話すの、やめないか?」
 全然、脈絡も前後関係も掴めないんだが、とアロマパイプを探して、火をつけないままゆっくりと口にくわえた。


*****

 ――辺りは、痛いほどの静寂に包まれている。
 消灯時間を大きく回った廊下はまるで外ほどに寒いわけではなかったが、肌に触れる外気はやはり冷ややかだ。
 学校内にある、墓地の入り口。
 葉佩はそこに立つ前に、いつも自室からメールを送る。誰かを呼び出すにはいささか不適切な時間に送信されるメールは、しかし不思議と断られることがない。
(甲さんだって。眠いとかだるいとか色々ぐずるくせに、誘ったら断らない)
 昼食を食べた後も相変わらず眠そうにして、結局午後の授業にそのまま参加しなかった親友を思い起こし、葉佩はひとり、小さく笑った。
 皆守は優しい。
 本人は、そう評価されることをあまり喜ばないかもしれないが。
 男子寮の自室の前で、ぼんやりとそんなことを考えていた葉佩の視界に、ふとひとつ人影が映る。
 現れた長身の彼は、昼に葉佩が会い損ねた取手だ。
「や、かまち」
「……やァ。…こんばんは」
 取手はその長い手足を持て余したように軽く身をかがめ、葉佩に挨拶を返した。
「…今日は、こっちに集合だったんだね。…あとは誰が来るんだい?」
「ノ。今日はかまちだけだよ」
「…え?」
 天香学園の、墓地。そこに眠る超古代文明を探る葉佩は、この学園で出会った特殊技能を持つ友人たちを誘い、夜な夜な探索を続けている。
 しかし、葉佩が一人で探索に繰り出すことはあっても、仲間を一人しか誘わないという日は滅多になかった。取手が知る限り、今回が初めてなのでは、とも思う。
「……大丈夫、なのかい?」
 自室の前で、それ以上なにも語らず、にこにこしている友達に、取手はおずおずと話しかけた。
「…君も知ってると思うけど……、僕は、あまり戦闘向きじゃないよ…?」
「うん」
 葉佩は、取手の言葉にあっさりうなずいた。それから、首を傾げて笑いかけ、
「大丈夫。今日はかまちだけでいいんだ」
 そう、付け加える。
 くろぐろとしたまなざし。
 日本には子どものときに少しいただけなんだと言う葉佩。その割に、その見た目は純和製というにふさわしい黒髪黒瞳だ。
 夜闇に紛れそうなほど黒いまなざしは、けれど一方で間違いなく闇を貫いて取手のもとまで届く。
「それよりも」
 そうなんだ、と、言うべきか、それでも一人だけつれていくのだったら自分よりも相応しいひとがいるのでは、と言葉を探す取手の前で、葉佩は僅かに首を傾げた。
「なァ、かまち。今日の昼休み、廊下にいた?」
「…え」
 首を傾けた葉佩にそう問われ、取手は狼狽したようにこくんと喉を鳴らしてから、小さく、コクリと頷いた。
「う、うん。…そうなんだ。ごめんよ、声をかけることもしないで…」
「あー、じゃあやっぱりいたのか。ちぇ。せっかく、かまちとも一緒にご飯食べられると思ったのにな」
「うん…」
 ごめんよ、ともう一度囁くように言う取手に、葉佩はふう、と息を吐いた。
「謝らなくてもいいんだけど。うーん。…な。かまち。間違ってたら、怒って?」
 しん、と静まり返った男子寮の廊下。
 葉佩は小首を傾げて、「今日の昼、ホントは声をかけてくれようとしてたんじゃないの?」と取手に訊きなおした。
 間違ってたら、と言う割には、その口調は相変わらず確信に満ちている。
「………う」
 取手は、この確信に満ちた口調と、葉佩の真っ直ぐ見上げてくるまなざしにいたく弱いようで。
 このときも、やや逡巡した後に、うん…、と小さく頷いた。
 そうして、いたたまれなさそうに、その長い腕を頭に伸ばし、がし、と何度か動かす。
「そっか。…うーん。何で声かけなかったのか、とかも訊いていい?」
 葉佩はしかし、右側に首を傾けたまま続けて訊ねる。
 勿論、小鹿のような心を持つ取手が逃げ出さないように、さりげなく退路を押さえる準備をしながら。
「……。…くだらない、理由だよ。…聞いたら、きっと君は呆れてしまうような…」
 しかし取手は逃げ出す様子はなく、代わりに諦めたように苦笑して、そう言った。
「そんなの、聞いてみないと分からない」
 その言葉に、葉佩はそんな断言でもって返す。
「大体、呆れられることに関しては、俺、プロだよ? 甲さんにもやっちーにも、いつも教室で笑われてる。俺は言うことがいちいち大げさなんだそうだ」
「……そうかな…?」
「そうらしい。愛とか、好きとか、言いすぎなんだって。失礼な話だ」
「…ふふ、はっちゃんは面白いね」
「……。うん。褒めてくれてるということにしとく」
 羨ましいくらいだよ、と取手は、そんな葉佩にうっすら微笑みかけた。
 唇の端をほんの少しだけ上げる、分かりづらい取手の微笑み。
 取手はそんな小さな微笑を浮かべたまま、昼は皆守君がいたから…、と呟いた。
「…僕が行ったら、邪魔になってしまうかなと思ったんだ」
 言葉とともに、浮かべた微笑にじわじわと自嘲が混じる。
「……呆れてしまうよ、ね。だけれど、…その、僕は、あまり。…喋るのが、得意じゃないから」
 きょとんと目を見張る葉佩の前で、取手は途切れがちに言葉を紡ぎ、それから、言うんじゃなかった、というような苦い顔つきで押し黙ってしまう。
「………」
 葉佩は取手の言葉に、ことり。左側に首を傾げ。
 …それからもう一度、右側に首を傾けた。
「そうか。…こういうのが、突っ込みどころが多すぎて、どこから突っ込んだらいいのかわからないって言うの?」
「……え?」
 さらっと言われた台詞が咄嗟に分からなかったのか、取手が不思議そうに聞き返すが、葉佩は「ううん」と首を振ってそれを制す。
「まあ、でもひとつずつ訂正していこう。…まず、ひとつ! 俺と甲さんにとって、かまちが邪魔であるはずがないし、俺は絶対にそんなこと思わないから、それはハッキリ違うってコトで。大体甲さんだって、そんなこと気にするタチじゃないよ。彼はあれで、来るもの拒まず去るもの……ええと、さるもの」
 こばまず?
 葉佩は不審そうな表情でそうぶつぶつ呟いてから、ああ、それからもうひとつ、と指を立てる。
「あのね。俺、そんなことで呆れたりしない。…そんなこと言ったら、俺こそ自信を持って呆れられるネタが、今あるんだよ?」
 聞きたい?
 ふふふ、と笑って、葉佩は更にずずいと取手に迫った。
 らんらんと輝くふたつのまなこが、取手をじっととらえる。
「え……、う、うん…?」
 話題の転換についていけなくて、取手はおろおろと瞬いてから、こくりと頷いた。
 葉佩はそれに満足げに頷き、実はねえ、と笑う。
「…実は、今日は遺跡に行くつもりでかまちを呼んだんじゃないんだ?」
 そうして笑ったまま、彼はさらりと爆弾をひとつ落とした。
「………え?」
 取手は、今度こそ目を丸くして葉佩を見やる。
 そのまなざしに、葉佩は珍しくバツが悪そうにえへへと頬をかいた。
「ごめんね、うそをついて。うん。今日の昼、かまちに会えると思ってたけど、結局話せなかったでしょ。だからかな。…どうしても、かまちと話したくて?」
 遺跡にいくよって言ったら、断られないかなあと。
 そんな風に言って、えへ、ごめんね、と笑う葉佩に、取手はただ目を丸くして首を振った。
 大丈夫だよ気にしないで、なのか、あるいは、どうしてそんなこと、なのかは分からないが、葉佩は後者ととらえたらしい。
 ごめんよー、と小柄な身体をちぢこめて、ますますバツが悪そうにしている。
「あ、…ううん、違うんだ…! その…、あの……、い、意外で。……僕なんかと、話したいなんて。…その」
「そ? 意外って言われたのが、俺は意外。…俺、かまちと話すの好きだよ? こうして一緒にいるのも好きだし、くっついてるのもすき」
「………う、う、うん…」
 保健室で、時々葉佩は取手の膝に乗ってくることがある。
 こうすると絶対目線合うんだよなと笑って、おもくない? と首を傾げながらも、そうして暫く乗ったままでいたりもする。いささか過剰なこのスキンシップには、皆守も、カウンセラーである端麗も、礼儀正しく見てみぬフリだ。
「あ、わかった! 思い出した。ベッポだ!」
 葉佩はそこで、唐突にそう叫んで手を叩いた。静かな廊下に、その音は思いがけず響き渡る。
「は、はっちゃん…?」
 唐突に「ベッポだ」と叫んだ葉佩は、しかしひとりで妙にスッキリした顔をしてうんうんと頷くばかり。
「あー、すっきりした! よかった、思い出せて。ありがと、かまち」
「う、うん…?」
 僕は何かしたんだろうか、と考えながら、取手は曖昧に頷いた。
 そこでようやく、葉佩は先ほどまでの会話を思い出したらしい。
 だからだろうか。彼は、ガチャリ、と彼は後ろ手に、自室の扉を唐突に開けると。
「それじゃあ、おいでよかまち。…中国茶と、炭酸と、ミネラルウォーターと、あとミルクかなあ。どれがいい?」
 にこり笑って、当然のように取手を中に誘う。
「……えっ、い、いや……」
「嫌?」
「あ、ううん、そうじゃなくっ…て…。……」
 取手は、おろおろと言葉を捜すように瞬きをして、何度か口を開け閉めしてから、ん…、と小さく頷いた。
「……あの。…じゃァ、よかったら…お邪魔させてもらってもいいかな…?」
 その言葉に、葉佩はとても幸せそうに笑った。
「ふふ、もちろん! さあいらっしゃい、ゆっくりしていってよ」
 いちめいさま、ごあんないーと葉佩の声が室内に響き、取手がちょっとだけ笑った。
 しかし「明日の昼は逃げないでくれるよね小鹿さん?」と扉が閉まる寸前、葉佩が妙に真面目な声で言ったのには不意をつかれたらしく、え…? と不思議そうな声が、最後、廊下にゆるやかに反響して。
 がちゃり、と、扉が閉まり。
 冬の廊下は、また元通りの静寂を取り戻した。


*****



「かまちは、エンデ好き? 俺は昔読んだきりなんだけど、嫌いじゃないんだ、ああいうの」

 今度七瀬に言って、本借りてこようかな。もう一度読みたいな、ああでも日本語かあそうか。原文ないかな。
 …そうして、僕の目の前で彼は矢継ぎ早に話し続け、くるくると軽やかな動きでコンロに鍋を乗せ、小さな戸棚からカップを二つ取り出した。
 僕は咄嗟に、どれに返事をしていいのか分からず、一瞬まごついて沈黙する。
 そんな様子を察したのか、彼はにこりと笑って「ひとつひとつでいいよ」と、カップをかちゃり、合わせてみせた。
 …僕はいつも、言いたいことをうまくいえなくて。
 そのくせ、彼には伝えたいことがたくさんあって。
 そして、彼はいつもそのことを察してくれているように、僕に向かって笑いかけてくれるのだ。
 いつも飲み込んでしまう言葉を、彼は上手に引き出してくれている気がする。

 僕は、それがとても嬉しい。

 彼はまるで、魔法をかけるように笑う。
 闇に溶けるような、呪文みたいな不思議な声音で、話しかける。


「大丈夫。夜は、長いから」


 そして「――つぎの一歩と、つぎのひと呼吸のことだけを考えるんだよ」と言って笑った。
 その言葉も、まるで魔法のようだと思った。

 魔法のとどめは、暖めたミルク。
 いかがですかお客様、と差し出してくれた暖かなそれを、僕は両手で包み込むようにして受け取って。
 彼がとても嬉しそうに笑うのを見て、つい顔がほころぶのに気づくのだ。
 君はまるで魔法使いのようだね、と僕は言いたくなったけれど、それはあまりに恥ずかしいのでやめることにした。
 ホットミルクを飲み込むのと一緒に、こくり、喉の奥に言葉を戻しておく。
 彼はそのことに気づいて、また何か我慢してるの、と眉を寄せるけれど、ああ、どうか心配しないで、と僕は言葉を捜して黙り込む。

 もう少し、もう少しだけ。待っていてくれれば。
 そうしたら、もっと上手な言葉を捜して、君に捧げるから。

 …結局、彼は、僕がそう言いたいのを察してくれたのかわからないけれど。

 ベッドに座り込んで、ホットミルクをすすり、笑う彼は、その夜ひとつも言葉をせかさず、ただずっと待ってくれた。
 僕は甘やかされているな、と思いながらも、それがひどく甘く、幸せなものだから。

 またこんな夜があればいいのに、と少しだけ考えた。


FIN