【 ピアノ 】





 ――初めて彼の演奏を聴いたのは、取手と出会った数日後のこと。
 彼は、葉佩に自分の音楽を聴いてほしい、と、控えめに希望した。
 しかしその控えめな望みのため、自分のクラスの授業を断りC組まで講師として出向いた取手の情熱に、葉佩は正直驚いた。
 数日前、遺跡で倒れこむ彼に手を伸ばした葉佩は、彼がどんなに繊細で、また内気であるかを知っている。
 そんな彼が、自分に音楽を聴かせるためだけに、このクラスに講師としてやってきたというのだから。
 葉佩はもちろん、にこりと頷いた。
 さりげなく授業を抜け出していった皆守を見送っていたため、出口付近で佇んだまま、彼は取手の演奏に耳を傾ける。
 その演奏に、不覚にも涙が溢れた。
 彼の指先が奏でるメロディに、自覚しないうちに、頬を熱いものが滴っていったのだ。
 ああ、これは何だろうと指先で拾い上げ、口に含む。それは塩辛かった。
 ……“宝探し屋”と名乗る以上、芸術に対しては、多少の造詣があるつもりだった葉佩だが、こんな風に心に衝撃を受けたのは初めてだった。
 クラスの皆も、背丈と体つきのわりには日頃から目立たない取手の演奏に、それぞれ意外そうに聞き入っている。
 葉佩は勘のいい皆守が授業を抜けていたことに心から感謝し、誰にも気づかれないよう、流れ落ちた涙をもう一度指先で払った。
(演奏を聴いて、泣くなんて)
 そもそも、葉佩が涙を流したこと自体随分久しぶりだった。
 痛みによる生理的な涙を除いては、最後に泣いたのはまだ10歳にもならない頃だったのではないだろうか。
 音楽は、人に強い感情の働きをもたらすのだ。
 葉佩はそれを身をもって知った。
 そして、取手が静かに、けれどその奥で強い思いを秘めた音を奏で続けるのをどこか呆然と聴く。
 ああ、なんかまた泣けそうだ、と思った。



*****

 ――結局のところ。

 取手は、普段喉奥にしまいこんでしまうような感情を、ピアノを通して訴えるように弾くということなのだ。
 感動したときも、悲しいときも、怒っているときも。
 彼のメロディは、その感情を忠実に再現する。
(あのとき、かまちの音楽で泣けたきたのは、そういう理由なのかもなァ)
 最近、昼休みは決まって取手の演奏を聴くようになった葉佩は、ふとそんなことを考えた。
 …長い鬱屈から解き放たれた取手。
 彼のメロディは、解放された喜びをうたった。また、それと同時に、初めて認めることができた慕っていた姉の死へと、鎮魂曲を奏でているようにも感じた。
 葉佩の心は、それをダイレクトに感じ取ってしまった。つまり、そういうことなのだろう。
(…ん。でもそう考えると、俺にも何か、音楽の才能がありそうな気がしない?)
 しかし葉佩がそう言って、どうかなあ、と教室に戻ってきた皆守に笑いかけたところ、即座に鼻で笑われてしまった。
 鍵盤の位置も把握してないような奴が一丁前に何を言ってやがる…、ということらしい。
 全く、失敬な。
 そう考えた葉佩だったが、確かにそれも事実だ。
 そもそも、自分はあくまでも“宝探し屋”なのだから、別に無理に音楽の才能があってほしいわけではないのだ。
 ……そう。そのはずなのだが。
(? おかしい。何で俺はあのとき、ちょっとガッカリしたり、何だか水をさすようなことを言った甲さんに腹が立ったりしたんだろうな)
 音楽室の前。
 葉佩はチャラリ、ポケットの鍵を鳴らし、ふと首をかしげた。そのまま少し考えていたが、結論には至らない。
 まァ、別にいいか。
 彼はあっさり考えを中断すると、音楽室の扉を軽やかに数度叩くと、返事を待たずに扉を開けた。
 中に人がいるのは分かっていた。何故なら、彼は今日呼び出されてきたのだから。
「…あ、九龍君…。メール、見てくれたんだね」
「よ、かまち! ごめんなレスしなくて。ちょうど音楽室に行くトコだったから、どうせなら先に行ったほうが早いかなと」
 ガラリと扉を開けると、音楽室の手前に置かれたピアノの前に、取手が座して楽譜を見ているところだった。
 彼は葉佩を見て嬉しそうに微笑み、ごめんね、突然呼び出してしまって…、と目を伏せる。
「いーのいーの。言っただろ? どうせ音楽室に行くトコだったんです。かまちに会いたいなって思ってたから、ちょうどいい」
「……そ、そうかい? それは嬉しいな…。ありがとう」
「イエイエ。俺こそありがと?」
 くくく、と葉佩は喉奥で笑い、すたすたと迷いない足取りでピアノに近づいた。
 彼はそのまま、椅子に座った取手を見下ろし「で、」と首をかしげる。
「それで、どうしたの?」
「え、…う、うん。あの、ね」
 葉佩は、言葉を口にするのに躊躇うことがない。
 重要な回答を迫られるときは無表情のまま思考することもあるが、基本的には即断、即決、即答が信条なのだ。
 取手はそんな葉佩の口調に僅か気おされたような表情を見せつつも、軽く唇を湿らせてから、
「…実は、今日もピアノを聴いてほしくて…」
 と、ぼそぼそ呟いた。
 ぱちり。
 葉佩はその言葉に、一重のまなざしを瞬かせた。
 それならば、いつもの用件と変わらない。
 そう思ったのだ。
 何故わざわざ、取手はメールを使って呼び出したのだろう? とも。
 しかし、葉佩は結局何も聴かず「じゃあ聴かせてよ」と、ねだった。
 その言葉に、「うん…」と取手は心から嬉しそうに頷き、それからハッと気づいたように訊ねる。
「あの…ところで九龍君は、もうご飯を、食べたのかい…?」
 その質問に、葉佩は笑って首を振った。
「実はまだなんだ! 腹ペコで仕方ない。……な。演奏、少し待っててもらっていいかい? 一走り、売店で買ってこよう」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
「かまちは?」
「え…? あ、僕はもう…、というかその…あまり、食欲がないから……」
「んー、わかった。じゃあ、もう少し待ってて? 何か食べやすいもの、すぐに用意するから」
「…えっ? あ、あの九龍君……!」
 用意するから、の言葉に、取手が慌てるが、葉佩は意に介さずにっこり笑った。
 ピアノを聴く時間は、ちゃんと確保するから安心して、という意味で笑ったつもりだったが、上手く伝わったかどうかは分からない。
 なぜなら葉佩は、即断、即決、即行動の男だったから、立ち上がるや否や疾風のような速さで音楽室を飛び出していってしまったのだ。
 たたたたん、と葉佩は自分の足が立てる軽い音楽に、僅かに耳を澄ませた。
 音楽室では、取手がまだ途方に暮れているだろうか。
 少し強引だったかもしれない。けれど、仕方ない。昼食は重要である。特に彼も、自分も、成長期なのだから。
 栄養は重要だ。特に取手は、もっと栄養をとるべきだと思う。彼が体調を崩すのを見るのは、とても悲しいし、つらい。
 葉佩はそう頷いて、たたん、曲がり角を曲がった。
「…ああ」
 葉佩はそこで、唐突に気がついた。
(そうか。俺は彼が大切なんだ?)
 軽い足取り。
 取手は肌が青白いから、もっと血色のつく、滋養のあるものを食べるべきだと考えながら、脳裏に一分でできるような幾つかのレシピを思い浮かべる。
 購買のコッペパンと、自室に取り置いてある卵、それからサニーレタスを使って簡単なサンドイッチを作ろうか。
 一口大に切って持参すれば、彼も食べやすいに違いない。
 そんなことを考えることが、ひどく快く、楽しい。
(そうか。…だから俺は、音楽を理解できる人間でありたいのか?)
 だって、そうすれば、取手の「ことば」を理解することができる。
 彼の気持ちを、理解することができる。
「…大切っていうよりも。…むしろ、これは恋なのだろうか?」
 葉佩はそこで、ふと立ち止まってたどり着いた購買を睨んだ。真っ先に目に入ったのは、積み上げられた文房具の群れ。
 何言っとんじゃ葉佩、と境の声がしたが、葉佩はそのまま返事をせずに立ち尽くした。
 恋。こい。れんあい。
「俺の記憶する限り。…そういうのは、初めての体験だなァ」
 彼はやがて、すばやくフリーズ状態から抜け出すと、軽く頭を振って「じいさん、コッペパン四つね」と声を上げた。
 育ち盛りの男子高校生だ。一人二個くらいでも足りないくらいだろう。取手が食べ切れなければ、葉佩が食べればいい。
 あとミネラルウォーターある? と葉佩は続けて注文しながら、ふーと襟元を緩めてため息をついた。
 小走りに駆けてきたせいではなく、何だか顔が熱かったのだ。



*****


 『今日の昼休みに』

 :こんにちは、九龍君。
  あの、…良かったら、昼休みに音楽室まで来てもらえないだろうか。
  もちろん、もし忙しかったら断ってくれて構わない。
  大した用事ではないんだ。
  …その、突然変なメールを送ってしまって、ごめん。
  何度も言うようだけど、忙しいなら、大丈夫だから…。
  それじゃあ。
  

「…えっ? あ、あの九龍君……!」
 ――昼休みが始まったばかりの音楽室で。
 取手は、引き止める暇もなく駆けていってしまった葉佩の背中に、呆然と立ち尽くした。
 彼が立ち尽くす横では、取手が唐突に立ち上がったせいだろう、譜面台の上に乗っていた楽譜がはらりと揺れて、床に落ちた。
 足元にぱたりと落ちたそれを、取手は小さくため息をついて拾い上げる。
「……。…僕はどうして、いつも…。彼に余計な心配をかけてばかりなんだろうか…」
 拾い上げた楽譜は、先日取手が書き上げたばかりのものだ。
 姉が、彼のために作曲した「Shine」。葉佩は、ことにそれが気に入った様子で、昼休み何か聴きたい曲があるかと訊ねると、決まってそれをリクエストされる。
 そう。勿論取手は、葉佩の好きな曲を奏で、彼の心を癒す手助けができればいいと思う。
 ただ、できればもっと多くの曲を聴き、興味になってもらえれば、とも思うのだ。
 …それは、もしかしたらわがままな願いなのかもしれないが。
 取手は几帳面に記された楽譜をじっと見下ろし、また譜面台に戻した。
 あまりクラシックは知らないんだ、と葉佩は言う。
『そもそも、音楽に興味を持ったのも最近だったり。…ふふ。ちょっとだけ、衝撃の告白かな? かまちの曲を弾いて、俺初めて、音楽ってものに感動したんだ。前から、歌は好きだったんだけども』
 そう言って、葉佩は一曲歌声を披露してくれた。
 彼の甘いテノールが響かせたのは、どこか遠い異国の歌。
 英語ではなかったように思う。豊穣と安定を祈る歌だよ、と葉佩は言った。
 すごくきれいな曲だ、と感動して拍手した取手に、しかし葉佩は軽く苦笑して首を振る。
『残念ながら、俺が聴かせてもらったあの歌は、もっと豊かで、もっと深かったんだよ。…ああ、かまちにも聴かせてやりたいな』
 取手は、そう言ってもう一度、残念だと口にした葉佩の顔を思い起こし、鍵盤のひとつに指を乗せた。
 そうして、譜面台に乗せた楽譜にさっと視線を走らせる。
「……。…やっぱりこんなこと…厚かましかったかな……」
 彼は小さくそう呟くと、後悔したように眉を寄せた。
 …ふわり、その楽譜を風が僅かに揺らした。どうやら、窓が開いていたらしい。
 緩くまとめられたカーテンが、ゆっくり浮き上がり、また降りた。
 少し待っていて、といって飛び出した彼は、まだ帰らない。
 取手は時計を確認してから、鍵盤に両手の指を乗せた。
 葉佩が帰ってくるまで、もう一度練習しようと思ったのだ。
 いずれにせよ、ここに来た以上、何か弾かないと気持ちがおさまらない。
 取手は、一音一音確認するように、緩やかにメロディを奏でた。ぽろり、ぽろり、と音が零れ落ちるように部屋の中に満ちていく。
『…かまちの音は、まるで雨のようだね。砂を潤し、草木を芽吹かせ、大地を歌わせる』
 つい先日、葉佩に言われたその賛辞が、ふと取手の胸に暖かな気持ちとともによみがえった。
 そんなことはないと否定しようにも、言われた言葉があまりに嬉しすぎて、取手はただ頬を赤らめて俯いた。
 ああ、やっぱりクサかった? ごめんね、と葉佩は笑い、その笑顔に取手はまた満たされた。
(…この音色が雨だというのなら、僕は暖かな大地にも似た君を……、少しでも潤せているのだろうか?)
 ほろり、とピアノが歌を奏でる。
 取手はそれに合わせるように、うっすらと目を閉じた。
 上手く扱えない言葉よりも、この音色はずっと雄弁に取手の気持ちを奏でてくれる。
(……こうしてピアノを弾くとき、僕はいつも君のことを考えているんだと……。…また、そんな風に言ったら、彼を困らせてしまうだろうか…?)
 確か、以前にもそう言ったように思う。
 だけれど、今はそのときよりもいっそう強く思うのだ。
 葉佩への言葉にできない気持ちがあふれ出して、取手の胸の中ははちきれんばかり。
 このままでは心が溺れてしまう。
 そのぎりぎりで、取手は曲を奏で、音色で歌い、均衡を保っているのだ。
(……。…僕は)
 さらさらと流れるようなタッチで鍵盤を押さえながら、取手は思う。
 ここのところ、何度となく繰り返した自問と自答。いくら悩んでも、いくら問いかけても、答はいつも一緒だ。
(僕は……きっと、彼がとても大切なんだ。……まるで恋のように、僕は彼を想っているんだ……)
 そう。まるで恋のように。
(…これが、ただの擬似恋愛なのか…。それとも、本当のものなのかは、まだ分からないけれど)
 取手は、甘く胸を締め付ける痛みに酔いながら、最後の一音を響かせた。
「……それでも、僕は彼が好きなんだ……」
 その余韻に紛れるようにして、取手は、そうひっそりと呟いた。
 頬は熱く、けれどそれをどう冷ましていいのかも分からない。
 取手は、また鍵盤に指を置いた。やがて、甘く激しい恋の歌が、その指先から紡がれ始める。



*****

「…あれ?」
 葉佩は、パンを詰めた袋を抱えて廊下を走る途中、うっすらとどこかで聴いたようなメロディが流れていることに気づいた。
 多分、これは音楽室からなのだろう。…ということは、取手が弾いているのだろうか?
 彼はその曲に、ひどく聴き覚えがあった。…けれど、最初は一体何なのか分からなかった。
 何故なら、その曲はこのように正式な形で奏でられることなどないような、小さな村で歌から歌へと伝えられてきたメロディだったから。
「――…」
 葉佩はその事実に気づいて、音楽室の薄く開いた扉の前で呆然と立ち尽くした。
 村の娘が教えてくれた、独特のメロディ。
 それが今、取手の指先で再現されている。
 その事実に、彼は言うべき言葉を失ってしまったのだ。
(そうか。用件って、それだったのか)
 葉佩は今頃のようにそれに気づいたが、しかし扉を開けてこの音を遮ることが忍びなく、まだもう少し扉の前で立っていようかと思う。
『この歌は、豊穣と安定を祈って歌うの。…それからもう一方では、結婚を誓い合った男女が歌う、愛の歌でもあるのよ』
 …だからクロウ、どうか覚えていて?
 彼にこの歌を教えてくれた娘は、それからすぐに嫁いでいった。
『あなたにいつか、愛する人が現れたら、その歌を歌うといいわ。あなたのことを愛していれば、そのひとは必ず歌を歌い返してくれるはず。…しきたり? いいえ。それが事実なの。不思議ね。…何年も、何十年も、そういう風にしてきたのよ』
 そういう風に、できているのよ。
 彼女は自信ありげにそう告げて、微笑んだ。
 その笑顔と、取手のピアノが、葉佩の頭の中でぐるぐる回る。
「……うあ。これは参ったな…」
 彼は更に火照った頬を押さえ、腰を抜かしそうになって壁に背を押し付けた。
「…心臓が、どくどくする……」
 小さな呻き声は口の中でかき消されるようだったが、葉佩の耳には確実に届いた。

 …あなたのことを愛していれば、そのひとは必ず歌を歌い返してくれるはず。

 あの日、そうなんだと笑って聞いたあの話。
 ああ、それが真実であればいい。
 …本当であればいい。
 葉佩はそう祈るように、そっとまなざしを閉じた。


 取手の声よりも、ずっと雄弁なその音色は、やがてじわりと収束していった。
 そして、はじまりのうたを歌い終わったピアノは、恋の歌を歌い始める。
(この声が、本当にかまちの声ならいいのに)
 やがて流れ始めたメロディの切なさに、葉佩はそう思わずにいられなかった。
(…ああ。本当に、音楽の才能があればいいのに。かまちの歌声を、本当に本当だと保証するくらいの才能があればいいのに)
 はらり、と頬を伝った涙に、葉佩はやんわりと笑った。
 差し出した手のひらに、ぽとり、落ちた涙の雫。
(まいった)
 葉佩はその感触に笑い、また一筋涙を流した。


(恋は切ないものだっていう話。……あれはどうやら、本当だったみたいだな)

 
 ――ああ、本当に。

 彼のピアノは、なんて葉佩を泣かせるのだろう。


FIN