【 188cm 】
…喉が詰まったときは、息をゆっくり呑み込んで、それから吐き出すといい。
苦しいのにかわりはないけれど、いくらかマシになるから。
*****
(…息苦しい)
掌を喉元に当てて、取手は小さく息をついた。
教壇の上では、教師が滔々と語り続けている。
近代史について話していた筈の講義は、しかしいつの間にか大きく脱線しているようだ。違う時代のことどころか、全く関係のない彼の思い出話に内容が移行している。
取手は周囲の生徒と同様、ひっそりとシャーペンをノートの上に置いた。
(……。…息苦しい)
身長が人より高い彼は、座高もほかの生徒より幾分か高い。
生徒たちの群れの中、ひょこりと頭が突き出ているような彼。
彼は長い手足を居心地悪そうに縮め、ちらりと外を見る。
「…取手君、どうしたね」
それを見咎められたのだろうか。
自分が若い頃在籍していた学校の話をしきりに繰り返していた筈の教師が、取手の名を呼んだ。
ぎくりと身体を強張らせ、いえ何でもありません、と取手は呟きかける。
昼休み間近の気だるい空気の中、無造作に放られた教師のひとことに、クラスメイトたちは一斉に取手へ注目した。
(………)
ごくり。
乾いた空気が、喉を通過していく。
実際には何もない。喉を通る物理的な何かなんて、何もない筈だ。
けれど、息苦しいから、それを何とか飲み下す。気体なのか、塊なのかもよくわからない、それ。
取手の喉を息苦しくさせる、それ。
「…なんでも、ありません……」
結局、そう呟くまでに、長い時間がかかった気がした。
教師は、そうかね、とだけ言って、また自分の思い出話に戻った。
(……。………)
いきぐるしい。
取手は、喉元に指先を当てるようにして思う。
長身をできるだけちぢこめて、低い場所の酸素を集めるようにしながら、思う。
(…ここは、酸素が薄いんじゃないだろうか?)
そして、そんなことはありえないと分かっていながらも、そう思うのだ。
チャイムが鳴ると同時に、取手は真っ直ぐ音楽室に向かった。
混雑する売店やマミーズを見て、食事は後でいいか、と考える。
そうしているうちに食事を逃すこともしばしばあったが、昼休みまでくれば残りの授業時間は少ない。
昼食を食べ損ねたときは、放課後にマミーズを訪れることも多かった。
また最近では、そんな取手のことを心配する転校生が、手先の器用さを活かして食事を用意してくれることもある。
取手だけでは無関心になりがちな食生活をまるで母親のように心配して「身長が高い割りに、かまちは痩せてるんだから。だめだぞ、ちゃんと栄養とらないと」などと怒る彼の顔を思い返し、取手は少しだけ微笑んだ。
じわり。
息苦しい喉に僅かばかりの酸素がよみがえる。
本当は、それを大事に大事に喉奥にとっておきたいのだけれど、ひとの体はとても不便にできている。
澄んだ酸素を、二酸化炭素にかえてしまうひとのからだ。
はあ、と吐き出した息は、既に二酸化炭素。
取手はその事実を悲しく思いながら、廊下を足早に歩く。
昼休みで人通りが多い廊下は、取手よりもいくらか目線が低い生徒たちで溢れていた。
長身の取手より目線が高い者は、実際そういるわけではない。
猫背のクセがついたのも、多分そのせいだろう。そうしなければ、相手と目線が合わないのだ。
(……ああ、また息苦しくなってきた…)
できるだけ身を低くして、皆と同じように歩かなければいけない。
(そう。皆と同じ場所で、上手に呼吸をしなければいけない…)
「どうして?」
その声は、ぱしりと取手の心に飛び込んできた。
響きのよい、滑舌のいいテナーは、耳になじんだ転校生のもの。
まるで取手の思っていることに反論するように響いた声に驚いて、彼は声のした方を眺める。
「…どうして、今日に限ってカレーパンが売り切れなんだよじいさん」
「ああ? そりゃあ決まっとるじゃろ! 仕入れた分だけ売れたから売り切れなんじゃ。さ、買わないんなら帰った帰った!」
「ええー、ちょっと! 困るよ、うちのクラスのカレー星人はカレーパンがなきゃ夜遊びに付き合わないとか言うんだよー! あいつに付き合ってもらわなきゃ、回避がね、回避が…!」
転校生……葉佩は、境に追い出されながら盛大に騒いだが、結局諦めるしかなかったらしい。うーどうしよ、と呻きながら、声をかけようにもかけられずに立ち尽くす取手の前でキョトリと足をとめた。
「あれっ、かまち? どうしたの?」
「え…。うん、ええと。こんにちは…。はっちゃんこそ、どうしたの?」
「ん。いやー。我が親友殿の低コストな栄養源がね…」
しょうがないから、今夜は素直にカレーライスで釣るかなあなどと呟く葉佩。
結論はそれで出たらしく、彼はかちりと頭を切り替えたようだ。それより、と笑って、取手を見上げる。
「な。かまちは音楽室に向かうところ?」
「うん、そうだよ。…新しい楽譜を買ったから、弾いてみようかと思って」
「まじ? なあ、俺も行っていい? 聴きたいな」
葉佩の言う「まじ」は、言い慣れていないせいだろうか。妙に綺麗な発音が、少しだけ不自然だった。
そんな葉佩の口調が少し可笑しくて、取手は微笑みながら「いいよ」と頷く。
「やった! へへー。俺、かまちのピアノ好きだな。いつも、すごく感動するから」
「え、そんな…。…その…。…あ、ありがとう…」
「かまち、照れてるな」
「…照れるよ…。そりゃあ」
葉佩の背丈は、取手よりも目線ひとつ分低い。
暫く歩いているうち、自分に合わせるように身を屈めて話していた取手に気づいのだろうか。
葉佩はキョトンと顔を上げ、かまち歩きづらくない? と言った。
「え? …ううん。そんなことないよ」
「そうか? だって、かまちそうやって俺に合わせて歩いてる」
「…ああ。平気だよ。クセなんだ」
「………」
取手の言葉に、葉佩はふうん、と眉を寄せた。
何か機嫌を損ねることを言ってしまっただろうか、とその仕草に取手は視線を彷徨わせた。
しかし葉佩は言葉を続けることはなく、ポケットから取り出した鍵束をくるり回して、ちきりと身構えた。
いつの間にか音楽室の扉の前にたどり着いていたらしい。ニコリ、悪戯っぽく笑って鍵を開ける葉佩に、取手はつられて笑った。
「とーちゃく。…さて、かまち。ピアノに行く前に、ひとついいですか?」
アーユウレイディ?
葉佩に続いて音楽室に入った取手に向けて、葉佩はニッコリ笑ったまま「何かチョーダイ」というみたいに両掌を上に向ける。
えっ、と戸惑う取手の後ろで、ぱたり、扉が閉まる音がした。
うーふーふー、と葉佩はそんな取手を更に追い込むように、サササと取手の背後、扉の前に回りこんだ。
そして、おろおろする取手の足元にしゃがみこんで「そっかあ、かまちはまず足からかな?」と呟く。
「あ、あの、はっちゃん…? 一体何を…」
「んー。なんてことない。ただ、かまちはぴしりと背筋を伸ばしたらどうなるんだろうと思って?」
「…え」
思いもよらないような葉佩の言葉と、それが自分の膝の下から聞こえてくることに狼狽し、けれどどうすることもできずに取手は硬直する。
そうしている間にも、葉佩はマイペースにことを進めていく。
彼は中腰になって取手の膝裏に触れると、屈伸運動を指示する体育教師のように声をかけた。
「ハイ、まず膝のばしてー」
「…えっ、う、うん」
刷り込みって知ってるか取手。
遺跡で助けられて以来、この同学年の友人にすっかり傾倒している取手は、保健室仲間の皆守にそんなことを言われたことがある。
膝乗せてかまち、と年頃の少年に似合わない甘えたスキンシップを実行していた葉佩が、彼の膝に座ったまま、いつの間にかうとうとし始めていたのを見咎められたときだ。
皆守は何ともいえない複雑そうな目つきでそれを眺め、お前を見てるとインプリティングの罪深さを思い知るよ…と首を振った。
(インプリティング。…刷り込み。初めて会った生き物を、親と思い込む現象)
言われたときは、そこまでじゃないよと反論したかった取手だったが、膝に乗ったままの葉佩を押しのけることができない時点で反論する権利はないのかもしれないと口を噤んだ。
そして今も、まるで魔法にかけられたみたいに、取手は素直に従うしかできない。
相変わらず葉佩の声に逆らうことなど思いつかない取手は、今だって皆守の「罪深きインプリティング」発言に反論することなどできないのだろう。
「かまち、膝開かないの。はい、まっすぐー」
「……うん、わかったよはっちゃん」
取手は葉佩の言葉に、小さく笑った。仕方ない。この声に、逆らう気すら起きない。
きっとそれは、葉佩が取手に無体なことをするわけがない、と。
…そう、信じきっているからなのだろうけれど。
「あとは、猫背しないで。…まっすぐ、前見て?」
「うん。…こうかな…?」
「うん、そう」
何だか写真を撮ってるみたいだなあ、と思いながら、取手は葉佩に指示されるまま、まっすぐ前を見た。
しゃんと背筋を伸ばして眺めた世界は、いつも見ている世界よりも少しだけ高い。
馴染みがあるようで馴染まない高さの空気は、取手の喉をひやりと通過していく。
「ほうら」
そんな取手を真っ直ぐ見上げる葉佩は、どこか誇らしげににっこり笑う。
「すごく格好いいよ。かまち」
「…そうかな」
青白い顔色で、背は高くても身体はがりがりで。
声は響かないしか細いし、性格だってそう明るいわけじゃないし。
けれど、葉佩の言う「格好いい」は、本当にそう思って言っているのだと分かったから、取手は控えめに微笑んだ。
ひゅ、と喉を通っていく空気。
窓が薄く開いているからかもしれない。冷たい風。いつもより少し、高いところにある空気。
「――ね。高いところの空気は、澄んでいるんだよ」
葉佩は精一杯背を伸ばすように、爪先で立ちながら笑う。
ピンと伸びた背筋。爪先だけで立っているくせに、その動きには危なげがない。
「だから、苦しくなったら背筋を伸ばして深呼吸するといい。そうすると、楽になるから」
「……え」
そして彼は、当然のようにそう言って笑った。
取手はその言葉に、目を見張る。
「…はっちゃん?」
「うん?」
さあ、これで俺の用事は終了。ピアノ弾いてよピアノ、と爪先立ちのままピアノへ向かう葉佩を、取手は思わず呼び止めた。
「どうした。かまち?」
振り返って、笑う葉佩。
その笑顔は、背後でたなびく白いカーテンによく映えて、鮮やかだった。
「……。……ううん、やっぱりなんでもないよ。…ごめんね」
「そ? ならいいや。ほうら、ハリアップかまち! そう。ピアノ弾いたら、マミーズだからね。ご飯も食べないと、午後の授業もたないぞ」
…まるで、葉佩は取手のことを何でも知っているかのようだ。
取手がたびたび喉を押さえていることも、今日の昼食をまだ食べていないことも、もしかしたらそれ以外のことも。
(ただの偶然かもしれないし。…そうじゃなくても、簡単な推理とか。もしかしたら、ただの勘なのかもしれないけど)
それでも取手は彼の些細な言葉ひとつに、ひどく感動しながら、ピアノに近づいた。
ずっと手にしていた楽譜は、少しだけよれてしまっていたから、そうっと指先で伸ばして。
椅子に座って、背筋をぴんと伸ばした。
――ああ、罪深きインプリティング。
そうだと分かっていても、ただの刷り込みなのかもしれないと知っていても、それでも彼の「格好いいよ」には逆らえないのだ。
*****
…喉が詰まったときは、息をゆっくり呑み込んで、それから吐き出すといい。
苦しいのにかわりはないけれど、いくらかマシになるから。
それから、まっすぐ背を伸ばしてみるといい。
苦しいときは、自然と身を縮めてしまうものだから。
そうして、背筋を伸ばしてみるといい。
――取手はクラスに帰る途中で、一度だけ葉佩のことを振り返った。
葉佩はいつものように、振り返ることなく、小柄な身体をしゃんと伸ばして歩いていく。
(……本当に格好いいのは、君なのに)
そう思って、取手は喉元を探りかけ、首を振る。
そして、真っ直ぐに背を伸ばした。
188センチの視界で、遠ざかっていく葉佩の旋毛を見つめ、それからゆっくり一歩を踏み出してみる。
流れる空気は、確かに葉佩の言うように少しだけ澄んでいるように、思えた。
…もしかしたらそれすらも、葉佩の刷り込み、なのかもしれないけれど。
それでも、そうして眺めてみる景色は。
――いつもより、少しだけ違ったように見えた気がした。
FIN