【 布も巻けないこの心は 】
「かまち、この後少しだけ時間あるかい?」
タアン。
呆気ないくらい軽い乾いた音と、硝煙の臭い。
ああ、また一体化人が潜んでいたのだろうか。
取手はその音と鮮やかな葉佩の手並みに息をつき、それから「えっ」と目を瞬いた。
ふわり。漂うラベンダーと共に、皆守が隣から「この後、時間があるか、だとよ」と葉佩の言葉を繰り返す。
小さく響いた起動音は、彼らの前で葉佩がH.A.N.Tを起動させた音だろう。
安全領域に移行しました、合成された女声がそう告げる音と共に、葉佩が小さくくすりと笑った。通訳アリガトウ、甲さん。
その言葉に、取手は自分がぼんやりしていたことを後悔する。
葉佩が折角自分に声をかけてくれたのに。…しかも、戦闘と緊張の合間をぬって、かけられた言葉を聞き逃してしまった。
「…ごめんよ、はっちゃん。えっと、時間はあいているから大丈夫だよ。…何か用事かい?」
「それはよかった」
ニコリ、葉佩は暗視ゴーグルを額に押し上げて笑う。
「じゃあ今日はこのくらいにして、地上に戻ろうか。続きは戻ってからにするよ」
がちゃん、と音を立てて、葉佩が手にしていた銃器を肩にひっかけた。ついでに手にしていた真紅の日本刀を、鞘に戻して腰から下げる。
流れるような動きに、取手は僅か見とれかける。硝煙の臭い、それから鉄の臭いが立ち込める中で、彼の動きはどこまでも鮮やかだ。
その手から、不意に何かが零れるように落ちた。取手は何か道具が落ちたのかな、と思ったのだが、皆守がスイとアロマパイプでそれを示し、
「…九龍。ソレ、ほどけかけてるぜ」
と言ったことによって、葉佩の掌から零れ落ちたそれが細く裂いた布のようなものだったということに気づく。
「ああ。ホントだ」
葉佩はその言葉に小首を傾げ、少し待って、と皮のグローブを外し、口にくわえた。
その下から現れた手の甲は、ぐるぐると布で覆われている。
これも武装だと、取手は物々しい手の甲を見て、そう考えた。
学園の中ではのびやかに晒されているそれも、覆わなければならないのだろう。
やがて作業を終えたらしい葉佩は、待たせてゴメンと小さく笑った。
「さて、地上に戻ろうか」
*****
――男子寮に着くや否や、皆守はたちまち自室へと姿を消した。
盛大な欠伸をしていたところを見ると、明日の一限に来るかどうかは危うい。
「用件というのは、他でもない」
甲さんオヤスミー、と皆守の方に手を振ってから、葉佩はくるりと取手に向き直り、真面目な表情を見せた。
一体何を頼まれるんだろう、と取手はゴクリ、息を呑む。
もとより、自分は葉佩によって救われ、彼によって光を取り戻した身だ。
葉佩の頼みならば、たとえそれがどんなことだろうとも叶えたいと思っている。
しかし、葉佩がもったいぶって告げた頼みとは、実に些細なことだった。
「…数学の宿題が大量に出たんだけどさ。これが意外と難解で。――手伝ってくれない? かまち」
彼は、まだ硝煙の臭いが残った両掌をぺしりと合わせて、コクリ、首を傾げてみせる。
たわいないお願いに、取手はホッとして笑った。
「あ、うん。いいよ。…じゃあ、僕の部屋に来るかい? 少し散らかっているけれど……」
「わあ、本当に? イキマスイキマス! 部屋で少し待ってて? ダッシュで準備してくるからさ!」
見てて笑ってしまうほどに葉佩は顔中笑顔になると(彼は全くもって感情表現が極端にできている)消灯時間を過ぎているにも関わらず、たたたたと軽い足取りで自室へ向けて走っていってしまった。
取手はそんな彼の背中を見送り、ちょっとだけ微笑んでから……「あ、急いで戻らないと、はっちゃんに追い越されるかもしれない…」と慌てて部屋に戻った。
十分後、自室にたどり着き、制服についた汚れを叩いて落としていた取手の元に、軽快なノックが聞こえてきた。
「あ…、どうぞ、中に入って」
取手は僅かに浮き立つ声を押さえて、ドアの外に声をかける。
考えてみれば、こんな夜遅くに誰かを部屋に招くのは初めてかもしれないと思い至ったのだ。
おじゃまします、と葉佩が扉を開けた。
その音にどきりとして、閉まる音に些細な緊張をした。どれもこれも、どこか心地よいそれだったのだけれど。
「…あの、ごめんね。インスタントコーヒーくらいしかないんだけど……、はっちゃんはコーヒー好きかい?」
「ん? ああ、イエ、オカマイナク」
そう言ったにも関わらず、葉佩はしれっと「ブラックがいいな」と笑った。
ただ単に「オカマイナク」と言いたかっただけなのだろう。取手はそんな葉佩に微笑して、少し待っててね、とコンロにかけた薬缶を示す。
しん、と静まり返った夜の寮室に、しゅんしゅんと薬缶が立てる水音が響く。
「かまちの部屋は、綺麗だね」
「そうかな…?」
「そうだよ。――散らかってるっていうから、少し期待したのに」
葉佩の黒々とした眼差しに、僅かな笑いが浮かんだ。
「はっちゃんは、何を期待したんだい?」
足の短いテーブルを出して、そこに教科書を置きながら取手は尋ねた。
そして、以前一度訪れた葉佩の部屋は「ほどよく」散らかっていたのを思い出す。
数々の収集品に、さまざまな国の辞典、歴史書、図書館から借りっぱなしなのだろう天香学園の印が押された書籍の数々…。
「あ、今俺の部屋を思い出したでしょう」
「……ふふ、そんなことないよ」
「うそ。だって笑ってるよ、かまち」
俺が思うに、学生寮は非常に便利だけどやや手狭だと思うんだよなァ。
葉佩はフウンとため息をついて肩をすくめ、取手がテーブルに教科書を並べ終えたのを見て「あ、ゴメン」と照れ笑いを見せた。
「じゃあ教えてくれる?」
ばばん、と葉佩はノートとペンを剣と盾のように構えた。いざ! と言いたげなその態度に、取手はちょっと笑ってしまったが、ふとその手にまだ先ほどの布が巻かれたままだということに気づく。
「あ」
そんな取手の視線を追ったのだろうか。葉佩が苦笑して、そういえば外してなかったね、と手の甲をひらひら揺らめかせた。
「ごめんよ、ちょっと待ってて」
「うん」
葉佩はぐるぐると、厳重に巻かれた布をほどいていく。
しゅるしゅる。
静かになった部屋に布がほどける音だけが響いて、何だか落ち着かない。
「……最初は、てっきり手の甲に怪我をしてるのかと思ったよ」
「ん? ああ」
ハイ、右手終わり。
葉佩は解き終わった布をちゃっちゃとまとめ、テーブルの端に置いた。
「手の甲ってね、どうやっても鍛えられないんだよ。人体のうち、どうしても無防備になってしまう体の一部ってことさ」
「ああ…、そうか」
しゅるしゅるしゅる。
取手が見ているうちに、葉佩の左手に巻かれた布がみるみるほどかれ、その下から彼の手の甲があらわになっていく。
まじまじと凝視しているのもおかしいかな、と思ったが、目を離せない。
「外すのは。…そうだなァ、部屋にいるときとか、風呂に入るときとか、勉強するときとか?」
くすくす、葉佩は笑った。結構外してるね。
取手はそんな葉佩の笑みと、ハイこっちもおしまい、という言葉と共に晒された手の甲をどこか感慨をもって見つめた。
よく見ると、手の甲には細かな傷がついている。いや、手の甲にも、と言うべきか。
「……」
「…? どうした、かまち?」
「えっ、あ、…ううん」
葉佩の服の下には、きっと今取手が見ている以上の傷が隠されているのだろう、と想像して、ついぼんやりしてしまった。
特にまずいことを考えたわけではないのだろうが、何とはなしに後ろめたい。
取手は迷ってから、考えていたことの一部を当たり障りがないように答えた。
「うん…。なんか、その。…つまり今はっちゃんは弱点を晒したってこと……だから、信用されてるのかなって…。ちょっと嬉しくなったんだ」
しかし、答えてみるとこれもいささか当たり障りがあるように思えた。
よく思い返してみれば、この場で葉佩は信用しているから布を外したのではなく、勉強をするから外したのだ。勘違いもはなはだしい。
取手はかああ、と赤くなっていく頬を指先でひっかき、ごめんね、とくぐもった声で謝った。
きょとんと目を見張った漆黒の目が、少し、いやかなり痛い。
「そうだけど?」
だが、葉佩の口から零れたのは、そんな呆気ないくらいの同意だった。
「……え?」
「いや、だから信用してるんだけど。かまちのこと、すごーく、とても、たくさん信頼してるんだけど。俺は」
あるいはかまちにだったら傷つけられてもいいのかも、と葉佩は続けて問題発言を漏らしたが、それは幸い混乱し始めた取手の耳には届かなかったらしい。
「いや…でも、今は勉強するから外したんだよね?」
「うん。――でも、それも信頼してるからでしょう?」
葉佩は何を今更、と言いたげに首を振る。
「本当、今更疑わないでくれるかい? かまち。そんなに言われると、俺の愛の示し方が足りなかったんじゃないかと心配になる」
「え、うん。…ごめんね…」
「いや、そういう風に謝られたいのでもなく……。ウーン。…日本語の機微ってむつかしい」
真剣に頭を抱えて悩みだした葉佩の仕草に、取手は思わず笑ってしまった。
全体的に華奢で端正な面差しの彼なのに、仕草ばかりは妙にオーバーアクションなのだ。
「あ、笑った」
「うん。…ありがとう」
「イエイエ。ユアウェルカム?」
そう言って笑うと、葉佩はスイ、と手の甲を差し出した。何なら。葉佩の薄い唇が、言葉を紡ぐ。
「――触ってみる?」
差し出された右手の甲。ああ、こちらは彼の利き手じゃなかっただろうか?
取手は一瞬まごついてから「いいの?」と首をかしげた。
「いいって。…平気だよ?」
おずおずと伸ばした手が、葉佩の手の甲に触れた。
「かまちだから、平気なんだよ」
その優しい響きが、取手の心に沁みるようだと思う。
すんなりした掌はけれど手の皮も厚く、どこかゴツゴツしている。手の甲には、先ほど見つけた細かい傷がいくつも。さらりと指先でなぞると、指の腹に感触が残った。
何かくすぐったい、とむずがゆそうな表情で葉佩はそれをおとなしく受け入れている。
まるで、なかなか人に馴れない獣のような仕草だと思う。
平気だよ、かまちだから。
その脳裏に、ふと先ほどの葉佩の言葉がひらめいた。
本当かな、と思う。疑うわけじゃないが、僕なんかのことをそんなに信用してくれていいのだろうか、と思うのだ。
掌の中にある、葉佩の手の甲。
無造作に投げ出された、葉佩の信用。
――どうしてそんなことをしようという気になったのかは分からないけれど。
気がつくと、取手は差し出された手の甲に、そっと口付けていた。
「……ッ」
驚いたのだろう。
葉佩が僅かに手を震わせたが、しかしその手は取手に預けたままで。
「…嫌だったかな」
取手がそう問いかけると、彼は何ともいえない顔で答えた。
「いいよ。……いいって言ってるだろう?」
彼らしくもなく、ややぶっきらぼうになった口調は、多分照れているからなのだろう。
握られた取手の手の中から、葉佩の掌が逃れる気配はない。
「……うー、参った」
そのまま手を握ったままの取手に、葉佩はテーブルを避けて、もぞもぞと膝先で近づいた。
はっちゃん? と小首を傾げるも、依然として手を離そうとしない取手。
そんな彼に何を思ったのか、葉佩は彼らしくもなく耳元を真っ赤にして「…俺は、君になら何でも許してしまいそうだ」と小さな声で呟いた。
そのあまりに恥ずかしそうな、途方に暮れたような声音に、取手の胸がざわつく。
かわいい、と、そう思うことは自由だろうか。(けれど口に出すことは控えたほうがよさそうだ、と取手は思考する)
「ほんと、参った! …ねえかまち、俺は君の前ではすっかり腑抜けだねェ…」
かっこわるーい。
葉佩はそう呻いて、もぞもぞ近づいた勢いのまま、取手の腕の中にポフンとおさまった。
華奢だけれど、骨格のしっかりした葉佩の身体。それが自分の腕の中にいることに狼狽しながらも、取手は恐る恐るその身体を抱きしめる。
「――それでもはっちゃんは、誰より格好いいよ」
そう言って、とても幸せそうに微笑んだ。
墓地でも、学園ででも、こうして腕の中、ぬくもりに馴れない野生動物のように、どこかおずおずと身を預けているときですら。
「…僕の、一番だよ」
いつだって、そう思っているのだ。…なかなか本人に、伝える機会はないのだけれど。
葉佩はその言葉にコメントできないまま、取手の肩にぎゅうっと爪を立てた。
しがみつく腕に、力がこもる。
だから取手も、ぎゅっと、葉佩の身体を抱きしめてやった。
――薬缶の中で、お湯はもう蒸発してしまっているだろうか?
ふとそう考えたが、そのときはまた沸かしなおせばいいだけの話だとも思い直す。
…いずれにしても。
葉佩が与えられた宿題に取り掛かるのは、まだ当分先になりそうだ。
FIN