【 気弱です 】






 ――ひんやりとした廊下に佇む彼。
 少し元気がない気がする。いつもより、顔色が悪い気がする。どうしたんだろう。
 そもそも彼は、背が高いけれど痩せている。肩幅はしっかりしているけれど、全体的に線が細い。
 もっと健康管理に気を配るべきだ。栄養のあるものを、もっと食べたらいい。
 …ただ廊下の向こうに佇む彼を見ただけで、メニューまで考え始めてしまった自分に気づき、葉佩は少しだけ苦笑した。
「ン? どうしたの?」
 それを見咎められたのか、隣から八千穂が話しかけてくる。
「ううん。なんでもない。かまちがいるから、声をかけようかなって」
「え? …あ、本当だ! すっごいねえー、いつもすぐ気づくよね!」
「うん。俺は彼のことを愛しているからねェ」
「アハハ、うんうん。知ってる知ってる!」
 葉佩の言葉に、八千穂はケラケラと邪気なく笑った。だから、葉佩も一緒に笑って、やあ、かまち、と声を上げた。
 まだ距離は少しだけ遠い。けれど、自分が歩く僅かな距離すら待ちきれない。

 ――うん、こういう出会いがあるなら移動教室も悪くないな。



*****


 ――さっきから、ズキズキと頭が痛む。 
 休み時間、取手は教室を出て、廊下で小さく深呼吸した。…昨晩、遅くまで起きて作曲に耽っていたせいだろうか。それとも、今朝食欲がなくて、食事を抜いてしまったせいだろうか。身体を動かすことがひどく億劫で、頭もぼんやりする。
 あるいは、その頭の中が、常に何かしらの悩み事で満たされているからかもしれない。
 それはたとえば、勉強のこと、部活とピアノの両立のこと。
 頭痛がすること。さっき教室を出るときに、教室に入ろうとする生徒と肩がぶつかってしまったこと。
 …要するに、自分は気が小さいのだ。
 取手は、そう自覚している。しかし、それでも彼は、相変わらず始終何かで悩んでいる。
 そんな彼が悩み事から解放されるのは、ピアノを弾いているときと、それから。
「やあ、かまち!」
 …ああ、なんてタイミングだろう?
 取手は廊下の彼方から響いた声に、口元を緩ませた。
 その声の主は、廊下の向こうから駆けてくる少年。
 ――つい最近C組にやってきた《転校生》。
 葉佩九龍がそばにいるときは、……取手は悩み事も、辛い考え事も、忘れることができるのだ。
「…やァ。はっちゃんに、八千穂さん。これから、移動教室なのかい?」
 取手は、駆け寄ってきた葉佩と、その隣でニコニコしている八千穂に声をかける。…C組といえば、彼らといつも行動を共にしている――というよりさせられている皆守も同じクラスだった筈だが、姿が見えないのはサボっているからだろうか。
「イエス! これから化学の実験なのさ。ねえ、やっちー?」
「そうそうっ。えへへ、今日はどんな実験をするのか、今からすっごく楽しみなんだ! 取手クンは、次何の授業なの?」
 きらきらと小動物めいた眼差しを輝かせる八千穂と、同じく嬉しそうに眸を瞬かせる葉佩。
 何だか兄妹を見ているようだなあ、と取手は微笑ましく二人を眺めながら「僕のところは、次は国語なんだ」と答える。
「へえ。…国語か。ううん。俺、実はこの間も小テストで赤い点つけられちゃったんだよね」
「…ええと、赤点のこと?」
「そうソレ。喋るのは得意なんだけど、漢字が難しいね。国語」
 葉佩は笑って、肩をすくめた。
「あっ、そろそろ授業が始まっちゃうよー」
 そんな葉佩に、八千穂が声をかける。彼女の位置から、A組の時計が見えたのだろう。確かに休み時間が終わるまで、あと数分しかない。
 うわ、ホントだと葉佩は目を丸くし、じゃあな! と手を振って八千穂とぱたぱた廊下を駆けて行った。
 どこか慌しい二人は、――けれど、ひどくきらきらした生命の輝き、みたいなものに溢れていて。
 いいな、と取手は二人を見送りながら考える。
 依然として、頭痛は取手を蝕んでいた。けれど、今日は葉佩と話したから……きっと、もう大丈夫だろう。
 辛いな、と少し思うけれど、もうじきチャイムが鳴ってしまう。さあ、教室に帰ろう。
 しかし、取手はそこで、ぐらりと揺れる視界に足を止めざるをえなくなった。
(……うッ…)
 心中で、低く呻く。視界が、また揺らぐ。
 しまったと思った。
 やはり寝不足がたたったのだろうか。急に動いたせいで、めまいがする。けれど、そんなことを咄嗟に考える冷静さがあるくせに、身体が全くそれに追いついてくれない。
 倒れるまではいかなかったものの、取手はぐらりとよろめいて窓に手をついた。
 ハアハアと、荒い息をつく。
(…いや、違う……。これは寝不足…じゃなく……)
 その視線の先には、見えない筈の黒い砂が、ゆらり、揺れた。
 もうあれはないはずなのに。
 葉佩が、あの呪われた場所から取手を解放してくれたのだから。――もうあれはみえないはずなのに。
(どうしてだろう……)
 それが辛いとか、悲しいではなく、取手はぼんやりとそんなことを思いながら目を閉じた。…意識が闇に吸い込まれる。
 ――しかし、その腕を誰かが強く……きつく、掴んだ。
 力強い感触。
「取手君…、取手君、大丈夫なのッ?」
 必死な声で、そう彼の名を呼ぶのは……国語担当の、雛川だろうか? けれど、彼女がこの腕を掴んで、取手を支えてくれているとは考えにくい。
 じゃあこの手は誰だろう?
 そう疑問に思い、うっすらと目を開けた取手の視界にいたのは――さっき教室移動をした筈の、葉佩だった。
「……はっちゃん…?」
 掠れた声で、そう名前を呼べば、葉佩は気遣わしげな表情を浮かべたまま、指先を唇に当てた。
 しゃべらなくていい。
 葉佩はそう示し、取手の腕を掴んだまま雛川と何事か話しているようだ。けれど、その声すらどこか、ひどく遠いところのようで。
 けれど、取手の腕をしっかりとつなぎとめてくれている、葉佩の掌。
 その少し冷ややかな体温が、とても心地よくて。
 取手は安心して、目を閉じた。……そうして、すぐに目を開けるつもりだったのだ。
 大丈夫。葉佩がいるから、自分はもう平気だ。
 そう信じて、目を閉じた。――そのつもりだったのだけれど。


 ……次に取手が目を開けたところは、保健室だった。
 見慣れた、白い天井。カーテンに仕切られたベッド。薬品の匂い。
 …ああ、僕は結局あのまま倒れてしまったのか。
 取手はまだ少しだけ朦朧とする意識をつなぎとめながら、そう考える。
 まだ身体はひどく億劫で、身じろぎすることすら、気だるい。
 けれど、頭痛は、大分治まったようだ。先ほど見えたあの《黒い砂》も、もう見えなくなった。
 あれは一体なんだったのだろう。そう考える取手の耳に、保健室の主の声が飛び込んでくる。
「――彼に無理をさせるのは、あまり感心しないな」
 涼やかな、落ち着いた女性の声。
 …聞き慣れたその声が紡いだ「彼」とは、もしかしたら自分のことだろうか?
 取手は僅かに瞬きをして、外の会話に耳を澄ます。
「全くだね先生。俺は、彼にひどいことをしている」
 端麗の言葉に応じたその声は、同じく聞き慣れた葉佩の声。
「このところ、連日墓地に付き合わせてしまっているから。――たぶん、その疲れが出たんじゃないかと思う」
「…あとは《黒い砂》とやらの後遺症かもしれないな。実際に取手へ影響を与えていた“それ”は消えたのかもしれないが、君が遺跡に行くたびに味方につけている執行委員たち。……彼らにも同じように《黒い砂》は関わっている。精神的に脆いところのある取手が、それに引きずられて、影響されるかもしれないことも考慮するべきだな」
「……」
 葉佩は、端麗の言葉に黙った。
「俺は、本当にひどいことをさせているね」
 そうして暫し待った後、返されたセリフは、彼の声とは思えないほどひどく淡々としていて。
 気落ちしている。
 取手はそう感じ取って、頭にじわりと血が上るのを感じた。
 元気をなくしている? 彼が? 僕のせいで…?
 葉佩について墓地に向かうのは、取手の意志だ。
 ……ついていきたいのだ、どこまでも。どこへ行くのにも、傍らにありたいのだ。
 そう叫び出したくて、取手はまだ気だるいような口を開きかける。
「先生、それでも俺は」
 しかし、それを葉佩の声が遮った。
 いつも通り、まるで迷いのない口調。真っ直ぐな、――どこまでも葉佩らしい口ぶり。
「俺はそれでも、彼を手放したくないんだ。たぶん、片時も」
 彼はその声で、きっぱりとそう言った。
 取手は、思わず耳を疑う。
 寝不足だった体は、休息を求めているようで、ベッドに横たえたままの頭はまだ少しうとうとしている。
 そのせいで、自分は都合のいい夢でも見ているのだろうか?
 呆然と天井を見上げている取手を置いて、会話は進んでいく。
 端麗は、葉佩の言葉に、呆れて煙を吐き出したようだ。フーッ、という吐息が聞こえた。恐らく、それはカーテンの前でかき消えたのだろう。取手の元までは、届かない。
「――懺悔しても?」
 葉佩が、少し黙ってから、呟いた。その声は、淡々としているくせに、力強く。
「好きにするといい。――幸い、彼はまだ眠っている」
 端麗の言葉に、葉佩は安堵したようなため息をついた。ふう、という音が、取手の鋭敏な耳に届く。
「俺は、彼のことが好きなんだ」
 そして、告げられたそのセリフ。まるで迷いのない。……けれど、取手が眠っているという前提条件上で、口にされた葉佩の本音。
「皆のことも、勿論好きだ。守りたい。愛したい」
 けれど、と葉佩はそこで、緩く首を振った。
「…けれど、彼は。――かまちは、特別なんだ。彼があまり体が丈夫でないのを知りながらも、どこに行くにも連れ回したくて仕方ない。常に傍にいたくて仕方ない。…彼のことを考えれば、俺は退くべきだ。…近付きすぎなんだ。決めたラインを、オーバーしてばかりだ」
 取手が聞いたことのないような、葉佩の声音。どこか上ずってすら聞こえるその声は、自嘲すら、含んでいるようで。
「それでも」
 葉佩はそこでいったん言葉を切った。そうして、彼にしては珍しく、一瞬言葉を捜すように沈黙してから。
「……、まだ、足りない。まだ欲しいんだ。これだけ彼を疲弊させているのに」

 ――それでも俺はまだ、奪い足りない。

 そこでぷつんと、葉佩の言葉は途切れた。
 取手は思いもしなかった葉佩の言葉に惑い、瞬きを繰り返す。
 ああ、君は一体どんな顔をして僕の話をしているのだろうか? どうか、どうか。――どうかこれが、夢でなければいいのに。
「――だよ、葉佩」
 葉佩の懺悔に応えるようにして、端麗が何かを言った。けれど、取手はそれを一瞬聞き逃してしまった。耳を澄ますが、しかし、言葉は繰り返されない。
「こんなに、身勝手なものなんですね」
「ああ、そうだ」
「…。参ったな。俺はどんな顔をして、彼に会えば?」
「今まで通りに。あるいは今感じているままに振る舞えばいい」
 はい先生。
 …まるで彼らの会話は、何かの舞台劇を聞いているかのように、淀みなく迷いなく。
 取手は、それを聞きながら、僕は今、起き上がるべきなんじゃないかと考える。
(奪ってくれてかまわない)
 そう葉佩に応じるために、このカーテンを強く引きたい。
 ――僕を全て君にあげるから。
 それでひとかけらでも、君を得られるというならば。……僕は何をひきかえにすることも、ためらわないだろうからと、そう訴えたい。
 けれど、そう考え、起き上がろうとする気持ちとは裏腹に、まだ疑う心がある。
 取手の中に根強く残るそれは、彼に疑心の囁きばかりを聞かせてくるのだ。
 これは、本当に夢ではないのか、と。
 良い夢を見ている。呆れてしまうような、自分に都合のいい夢を見ているのでは、と。
 実際、保健室の寝慣れたベッドの上で、取手の意識はまだどこか夢うつつだ。
 ……本当に、これは夢ではないのだろうか?
 起き上がって、あのカーテンを開ければ、きっとはっきりするのに。
 それなのに、体は動こうとしない。(本当ではなかったときが、怖いからだ)
 夢だとしたら。本当に夢なのだとしたら、まだ少し覚めないでいたい。幸福な夢にまどろんでいたい。(だとしたら、ますますあのカーテンを開けることは出来ない)
 埒も明かないことをつらつらと考え続けていた取手の瞼が、次第にとろり、とろけていく。
 ああ、また夢の中へ落ちていくのだ。
 それとも、今ここで会話を聞いていた、その瞬間こそが夢?
 どこからが夢で、どこからがほんとう?
 それすらも分からないまま、取手はきつくシーツを握り締め。――目を閉じた。



*****


 葉佩は、静かに眠る彼の寝顔をじっと見つめていた。
 端麗は用事があると言って、席を外している。……あまり、悪戯をするなよ、とひとこと葉佩に言い残して。
(悪戯ってどんなこと? 先生)
 その言葉とともに頭に浮かんだ、さまざまな不埒な事柄。
 だけれど、と葉佩は取手の寝顔を見つめながら考える。
 眠りが浅い取手の傍らで、気配を殺して佇みながら、考える。
 ――こんなに静かに眠り続ける彼に、一体どんな悪戯が出来るだろうかと。
 葉佩は小さく苦笑した。
 なにひとつ、できはしないよ。
 小さく呟いて、冷えた指先で取手の手首に触れた。
 眠りについているせいだろうか。平温の低い取手の肌は、常よりも若干暖かい。
 指先を僅か動かして、とくとくと震える脈を探る。
 じわりじわり、と爪を動かして、彼の甘い脈を探り当てる。
 取手の睫が、そっと揺れた。
「――目が覚めたかい?」
 とく、とくとく。
 落ち着いていた筈の脈が、少しだけ乱れた。
 ――これを乱したのは、俺だろうか。
 そう考えて、葉佩はうっすらと微笑む。ああ、こんなにも浅ましい俺の心。
 倒れるほど彼を振り回して、彼の生活を独占して、それでもなお、取手に飢える心。
「……はっちゃん」
 取手が、掠れた声で葉佩の名を呼んだ。そして彼は、戸惑ったようにそっと微笑む。
「…ずっと、ついていてくれたのかい?」
「そうだよ。――移動教室で会ったとき気になっていたんだ。今日は少し顔色が悪い」
 だから心配で戻ってみたら、案の定倒れかけてたから。
 話しながら、葉佩はひやりとした指先で、取手の額に触れる。…熱はないようだ。
「熱はないかな。だけれど、辛いだろう? もうしばらく休むといいよ」
 よかった。
 確かにそう安堵して、葉佩は立ち上がる。
 端麗に懺悔して、大分気は済んだ。……暫く、彼と距離を置いてみようかとも思う。
 今回のことがいい例だ。自分が傍にいては、彼のように繊細なひとを振り回すばかりだろう。
 葉佩はそんなことを考えているとはおくびにも出さず、ニコと笑って取手の額から指先を離した。
 …けれど、取手はそんな葉佩の仕草に不安をおぼえたようで、小さく「はっちゃん」と名前を呼ぶ。
「……はっちゃん…」
 そうして、彼は何かを言いたげに口を閉ざした。
 葉佩は首を傾げて、取手の言葉を待つ。けれど、取手は惑ったように視線をさまよわせるばかりで、その唇からはそれ以上、言葉が紡がれることはない。
 どうしたのだろう。
 葉佩はそう考えながらも、ふと時計を見て「あ」と呟いた。
 そろそろ、授業が終わる頃合だ。いいかげん教室に顔を出しておかないと、八千穂も心配するだろう。
 彼はそう考えながら、名残惜しく思いつつも取手にもう一度笑いかけた。
「ごめんかまち。俺、教室に戻るよ。――ルイ先生が戻ってきたら、ちゃんとみてもらうんだよ?」
 そうして笑いかけてから、なるべく未練がましくないように、すぐ背中を向けて。
 早く、早く保健室を出て、それから深呼吸しよう。
 このままここにいたら、それこそまた、取手を振り回さずにいられなくなるから。
 ――けれど、葉佩は移動することができず、つんのめった。……取手が、葉佩の手首をつかまえたのだ。
「かまち…?」
 戸惑って振り返る葉佩の前で、取手が、顔を真っ赤にしている。
 ……いや、顔というのは正しくないかもしれない。正確に言えば、赤くなっているのは取手の耳元だけだった。
 彼はうろうろと視線をあちこちにさまよわせた挙句――ひどく不安定な態勢になっている葉佩に向けて、小さな声で呟いた。
「…いつも、――いつも、ありがとう……」
 ただ、それだけを。必死になって紡ぎだすように、それだけをようやく呟いた。
「……」
 葉佩は仕方なく足を止めた。止めるしかなかった。
 細いけれど、とても長くて大きい取手の掌。それにしっかりと引き止められて、僅かざわついた脈拍を押さえるように、殊更冗談めかして笑う。
「なんだそんなこと。気に病む必要もないよ、かまち」
 ふふ、と笑って、本音も大分交えて、葉佩は肩をすくめてみせた。(その間も取手が手を離さないものだから、葉佩はまた少しつんのめった)
「俺はこうして、ポイントを稼いでいるんだから。…気にすることなんて、ないよ?」
 ああ、本当に。
 葉佩は告げながら、取手に背中を向けて考える。
 俺は、本当に卑怯ものだ、と。
 けれど、そんな葉佩の背中、不意に暖かい体温が包み込んだ。
 これは何だろうと、疑問視するまでもない。それは、取手の体だ。
 ――自他共に認める、気弱で繊細な取手が、葉佩を背中から抱きしめているのだ。
 その感触は、とても優しい。そして、ひどく暖かい。
 ……挙句、おずおずと葉佩の体に回された両腕は、どこか弱々しいくせに、葉佩に逃げることを許さないような強さをも持っていて。
「か、」
 うわあみっともない、今声が裏返ったよ俺! と思う一方で、葉佩は自分の耳がじわりと熱くなるのを感じた。
「…か、まち…?」
 だから、もう一度、用心深く名前を呼んだ。
 けれどそれは、逆に用心深すぎたようで。
 どこか頼りなくすら響くそれは、まるで自分の声ではないようだった。
『恋だよ、葉佩』
 そんな彼の耳に、先ほどの端麗の言葉がよみがえる。
 こんな弱々しい拘束を、振りほどくこともできない自分。
 友情の、抱擁だ。
 ……取手は、言葉が足りないから。それを補おうとして、こんな行動に出ているんだと懸命に理由付けをしなければ、誤解してしまいそうなこの行為。
 取手が、葉佩の首筋に顔を埋めるようにして、そっと自分の唇を噛んだようだ。
 葉佩はそれを感じながら、自分の体に回された取手の指先を見下ろし――、そうっと、それに触れた。
 そうと、そうと。
 ――はっちゃんぼくは、と掠れた声が零れる取手の唇。
 それが、自分の首筋間近にあることに、宝探し屋らしくもなく激しく動揺しながら……、それをごまかすように、殊更そうっと、それに触れる。

 逃がさないように。
 葉佩がそれを、そう、と、握り締めたのと同時。

 …何ひとつ囁くことができないまま。
 取手は、葉佩の首筋に、震える唇を押し当てた。

FIN