【 夜にこそ響く、君恋うる旋律は 】




 ――夜の空気は、ピアニィシモ。

 音がしないわけでもなく、けれど音がはっきり聞こえるわけでもなく。
 どこからともなく、聞こえてくるような、けれど聞こえないようなかすかなメロディが、そこかしこに満ちて。
 …取手は、机の上を鍵盤に見立て、ととん、指を走らせた。
 冷ややかな夜の空気、取手の中にだけ響く旋律。
(……楽譜、出してこようかな…)
 時刻を見れば、もう既に日付が変わろうかという時間。……静かなはずだ。明日も平日。授業だって、普通にあるのだから。
 取手は小さくため息をついて、身体をうまく縮めて腰掛けていた椅子から、がたり、立ち上がった。
 立ち上がった拍子にふと、机の端。ペン立てに一本だけささっている羽ペンが目に入る。…その羽をくれたひとのことを思い、取手はそっと微笑んだ。
「…はっちゃんは、また今日も墓地にいっているのかな…」
 さっき入浴してきたばかりで、まだ少し濡れた髪。それをざらりとかきまぜて、取手は小さく独りごちた。
 それは、彼にひかりをくれたひとの名前。……初めてできた、姉以外で心を開ける、大切なひとの名前。
 ……ととん。
 かまち、と名前を呼ぶ葉佩の声の響き。その音程をなぞるように、取手は机の上で右手を走らせ、微笑んだ。
 ――しかし、そこへ唐突に、ココンコン、と慌しいノックの音が響き、取手はびくっと背をしならせた。…思わず伸ばしてしまった背中が、こきり、と音を立てる。
「……ど、どなたですか…」
 こんな夜更けになんだろう。
 取手はチラリ、机の上の携帯を確認してから(液晶に示された時刻は、23:43だった)慌てて扉に近づいた。
「……取手クンっ! おきてる?!」
「…? …八千穂さん?」
 ノックしてから間もなく聞こえてきたのは、3年C組在籍の八千穂の声。……やけに強張ったその声に、取手は慌しく扉を開け、どうしたの、と声をかけようとし――ぎくり、と言葉を飲み込んだ。
「……よかったァ…! 取手クン、起きててくれて…」
 そこで、涙目になって立っているのは、声から予想したとおりに八千穂と……、それから、同じくC組に在籍している白岐と。
 白岐と八千穂の両方に肩を借りるようにして立っている、血まみれの、葉佩九龍だった。
 ぶわりと葉佩からきつく臭うのは、鉄のにおい。――血のにおいだ。
 言葉がうまくまとまらず、目前の光景に呆然とする取手に、同じく僅かに青ざめて見える白岐が「……このひと。あなたのいうことならきくでしょう?」と、小さな声で、囁くように告げた。
 その細い腕が僅かに震えていることに気付いて(当然だ、いくら葉佩が小柄といっても彼は男子で、白岐は女子で)…取手は、反射的に腕を差し出し、葉佩の身体を抱きとめるようにして支えた。……白岐の手と、八千穂の手が、それに安堵したように離れる。
 ――腕の中。広がる、むせかえるような血のにおい。
「…あのね、あの…さっきまで遺跡に潜ってたんだけど…! 九龍クン、ひどい怪我しちゃって…、でも、白岐さんの力も、大分消耗してるから、もう使えないって……」
「……。それなのに、そのひと、平気だって言って部屋に帰ろうとしたのよ…。……殆ど、一人でも歩けない有様なのに」
 呟きながら、白岐が僅かに眉を寄せた。――こまったひと。そう、表情で示すように。
「皆守…くんは…?」
 取手は葉佩の身体を支えながら、(当の皆守以外は)誰もが認める葉佩の親友の名前を、ようよう呟いた。しかし、八千穂はぶんぶんと首を振った。
「いくらノックしても出てきてくんないの…。……たぶん、耳栓してるんだと思う。最近寝不足だって、昼間すごい言ってたから」
 …その言葉に、葉佩が不意にぱちりと目を開けた。…よく見ると、目の上もうっすらと傷ついて、血を流している。大分、目が開けづらいのだろう。
「……。……甲さんは、寝すぎなんだよ」 
 彼は小さく苦笑して、イテテ、と呟く。
「はっちゃん…意識が…?」
「…さっきから、あったよ。――ごめんね、かまち。起こしてしまった?」
 僅かに、掠れた声。けれど葉佩は、まるでいつもと同じように笑って、取手の腕の中から抜け出そうとする。……しかし、取手の腕が、反射的に葉佩を逃がすまいと、それを無意識に引き止めた。
「白岐さん、大分消耗してたから。だから、手当てを断ったんだけど。…だけど、そもそもこれくらいなら大したコト、ないし」
 ドントウォリィ。
 葉佩は片目だけで笑ってみせると、離してくれない取手に困ったような顔をした。
「…ど」
「――ど、どうしてそんな血だらけで大丈夫なんて言うのッ! だめ! ちゃんと手当てしてよね…!」
 その言葉に覚えず憤りかけた取手の代わりに、八千穂が上ずった声で叫ぶ。…んわんわんと、ピアニィシモの廊下に響く、フォルテシモ。白岐が、落ち着いて、と小さく囁いて、八千穂の肩を撫でる。
「手当てなら、するよ。…でも、一人で十分だから――」
 葉佩はしかし困ったような顔で、腕からも、頬からも、破れた制服の下からも血を流しながら、首を傾ぐ。そして傾げながら……小さく、ふわあと欠伸をした。
「はっちゃん…?」
「……だめだ、でもすごーく……すごく、眠い…。…ウォントゥスリーピング」
 失血のせいだろうか。それとも、続いたのだろう寝不足のせいか。葉佩はとろとろと、未だ生乾きの傷から血を流したまま、取手の腕の中で目を閉じかける。
「だ、だめだよはっちゃん! 起きて、――傷の手当て、してからじゃないと、だめだよッ!」
 そんな葉佩に取手は思わず声を荒げる。その声音に、葉佩は渋々といったように目を開けた。……どこか幼い口調で、彼は、だめなのかい…と小さく呻く。
「…駄目だよ。……ほら、立てるかい…? 手当てするから、起きていて」
 腕の中、いっそ無防備なほどに身体を預ける葉佩に狼狽しながら、取手は後ろで待っていた白岐に、慌てて、彼は自分に任せて、とコクリ頷く。
「…そう。よかった。……なら、大丈夫ね。葉佩さんは今日、無理をしていたみたいだから、…ちゃんと手当てしてあげて」
 彼女はその頷きにうっすら微笑んで、八千穂に「戻りましょう」と告げた。
 ――あなたのいうことなら、ちゃんときくみたいだから。
 そんな風に、優しく付け加えて、白岐はまだ少し涙目の八千穂を連れ、入り口に向かって歩いていく。
 ……その足取りが、一瞬僅かよろめいた。カツン。――僅か、乱れた足音で、それが分かる。
 その音に反応したのか、取手の腕の中、葉佩が目を開ける。「…白岐さん、ひとりで戻っちゃ」
 ――そうして、慌てたように声をあげたが「私がついてるから大丈夫だよッ!」と八千穂の声と、カツツン、……白岐の傍に、駆け寄ったような軽い足音が取手の耳に届く。
「……」
 きっと、それは葉佩の耳にも届いたのだろう。彼は安堵した様子で、取手の腕に再び身をもたれさせた。




*****




「――…とりあえず、はっちゃん。まず、傷を見せてくれないかい? …この部屋にも、救急キットはあるから」
 それとも、葉佩の部屋まで行って、彼の持っているキットを借りた方がいいだろうか?
 取手はラックから下した救急箱を隣に置きながら、ベッドにもたれてウトウトし始めた――依然として血臭の濃い葉佩を「はっちゃん」ときつく呼ぶ。
「どれも、かすり傷だよ。……寝たら、治るって…」
 しかし、葉佩は頑固に首を振って、頻繁に繰り返される瞬きを無理やり押さえ、その場にふらり、立ち上がった。
「はっちゃん、駄目だよ! まだ手当てしてないだろうッ?」
「平気だって。――ああ、ごめん。シーツ、少し汚しちゃったかも…」
 大分回復した。もう平気。
 葉佩はまだ少し顔色の悪いまま、けれどきっぱりとそう言って、いつものように笑って見せた。
 遺跡の中、ひどい怪我をしている筈なのに、平気と言って歩き出すときのように、ごく自然に。――とても上手な、うそつきの笑顔で。
 取手はその笑顔に、カッと頭に血がのぼるのを感じた。応急手当も、大体してあるんだよ。などと、全く説得力のない血だらけの制服で、彼はそのままスタスタと、僅かに震える足で扉へ向かう。
「――平気なわけ、ないじゃないかッ!」
「……ッ!」
 だが、頭に血の上った取手が、いきなりそう怒鳴ったのには不意を突かれたらしい。面食らったような、キョトリとした顔。
 くろぐろとした眼差しを見開いて、葉佩は取手を見上げ、え、と呟く。
 その呟きには一切答えず、取手は葉佩と同じく立ち上がり、葉佩よりもきっかり20センチ高い場所から……静かに怒った眼差しで、葉佩を見下ろす。
「……本当に平気だって、言うんなら」
 そうして、彼は怒鳴ったせいで上ずった声を押さえるように、呟いて。
「……ッ!」
 制服に、ジワリと滲んでいる赤茶けた色。特にひどそうな、腕の一部分を狙いすまし、ぐっと片手で握り締めた。
 突然の感触に、葉佩はびくりと身を震わせ、痛みに耐えるように眉を寄せた。
 ……そして、小さく、息を殺すように苦悶の声を漏らす。
 その響きに、罪悪感と――背徳感にも似た、背筋をゾワリ、駆け上る感触を覚えながら、取手はそっと手を放した。
「……傷を、見せて」
 低い声でそう告げると、葉佩は――迷ったように眉を寄せてから。
 ハイ、と。
 ……素直にそう答えるしかなかった、ようだった。
 取手は頷いた葉佩に「じゃあ、そこのベッドにでも腰かけていて」と指示し、机に置きっぱなしだった暖房のリモコンを操作して温度を上げる。
 それから、使っていないタオルを、ばりり、開封し、ボウルにたっぷりお湯を張った。
 取手が彼らしくもなくてきぱき部屋の中動き回るのを、……こちらもまた「らしく」もなく、葉佩はベッドに座ったままで、困惑したようにおとなしくしている。
 そうして準備を終えてから、取手は、どこか困惑したようにこちらを見上げてくる彼の身体から、まず物々しいアサルトベストを。次に、傷に触れぬよう、慎重な手つきでその下の制服を脱がせていく。
「か、かまち」
「……いいから。はっちゃんはそうしていて」
 もう、痛くしないから大丈夫だよ…。
 そう呟きながら、取手は上着を脱がせて、シーツの上にばさりと置いた。…次はワイシャツだ。
 ……いたくしないからって。
 ばりり、と傷口にへばりついていたらしい制服がはがれる感触も気にした様子なく、葉佩は呆然とそんなことを呟いている。
 しかし、取手もまたそんな呟きには構っていられなかった。
 …白いワイシャツは、あちこちが鋭利な刃物で切り裂かれたように傷だらけだったのだ。その下には、無論手当てのひとつもされていない傷口が覗いている。
 確かに、傷自体はどれも浅いようだ。けれど、出血がひどい。殆ど傷はかたまりかけているものの、このままではいくつか跡になってしまうだろう。
「……少し、我慢してて」
 それ以外にも、てんてんと残る白い――古い傷跡。きっと深かったのだろう傷跡も、いくつか。……弾痕と見られる傷跡も、いくつか。
 それを痛ましく見下ろしながら、取手は湯で濡らしたタオルで、傷口を丁寧に拭った。
「…ッ…」
 しみるのだろう。声にならぬ叫びが、じわり、葉佩の口元までせり上がっては消える。
 本当は、もっと柔らかい布があればいいのだろうが、葉佩は文句を言わずに取手に身を任せていた。だから、せめて少しでも手際よく、と取手は葉佩の傷を全て丁寧に拭うと、固まった血を溶かすように、落とした。それが終わったら、今度は消毒だ。
 結局、上半身に五箇所ほど、刃物でできた傷が。(采女とかいう化人と戦闘したのかもしれない)下半身には、足に幾つか小さな傷を負っていた。
 どれも浅い傷だ。……否、浅くなるよう、葉佩がうまくかわしたのだろう。俊敏な彼のことだ。滅多なことでは、致命傷などは負わない。
(…そう、その筈だ…)
 絆創膏じゃだめかな……、と取手は救急箱からガーゼを何枚か取り出して葉佩の傷に当てがった。
「結構。本格的な救急箱あるんだね」
「…うん。一人暮らしは何かと困るからって……。…高校に入るとき、姉さんが用意してくれたんだ」
「……。そっか」
 優しいんだな。
 葉佩はさらりと笑って、頷いた。その笑みは、いつものものより、どこか透明度が高すぎて。
 ……何か気を悪くしただろうか、と一瞬取手は訝しむ。普段の葉佩なら、もっと明るく、屈託なく笑うのにと。
(…いいや。だけど、僕は、本当には…はっちゃんのことを、何も知らないのかもしれない)
 消毒してから、傷薬を塗って、ガーゼをあてがい、テーピングと包帯でまとめる。大げさだ、と葉佩は少しだけ顔をしかめた。
 それから、また少し、眠くなってきたのかもしれない。瞬きが増えて、くろぐろと深い眼差しが、ぼんやり霞み始める。
「…まだ、寝ちゃ駄目だよ」
「……、うん…」
 幼い仕草で、ごし、と目の辺りを擦る葉佩。取手の言葉に、素直に頷く彼。
 彼がどこで生まれ、どこで育ち。…家族が何人で、どこで暮らしているのか、今連絡をとっているのかどうか。
 そんな、些細なことすらも、取手は知ることがない。
 ……恐らく、これからも知ることはないのかもしれない。
(…だって、このひとは)
 足の傷に包帯を巻いて、絆創膏を貼って。手当てをすすめながら、取手は考える。
(だって、はっちゃんは。……あの遺跡を全て、探索し終えたそのとき)

 ――きっと、この学園から出て行ってしまうのだろうから。

 …去るときはきっと、痕跡のひとつすら残さず。
 訪れたときと同じように、いっそ唐突なくらいに出て行ってしまうのだろう。
 そうして、去り際には、また、優しい嘘をつくかもしれない。
 じゃあ、また明日。なんて。
 いつも通りの明日が来ることを疑わせない仕草で、手を振るかもしれない。
「……ッ!」
「…あッ…、ご、ごめん…!」
 どうやら、覚えず力を込めてしまったらしい。
 包帯をきつく巻いた感触に、眉を寄せた葉佩の息遣い。それを、屈んだ取手の頭上に感じて、彼は慌てて葉佩を見上げた。
「……、ごめん、ね…。大丈夫。…これで、終わりだよ」
「…そ?」
 葉佩はその言葉に、安堵したように息をつき、無造作に血で汚れたワイシャツに手を伸ばしかけ――眉をしかめた。
 いくら衣服に無頓着な彼とて、その服をもう一度着る気にはならなかったらしい。
 取手はちょっと笑って、僕の服を貸そうか、とクローゼットからシャツを取り出し、葉佩に放った。
「っと、――サンキュウかまち。…ふふ、洗濯したてだろう、コレ」
 いいにおいがする。
 そう言って、葉佩は無防備なくらい、幼げな笑顔を見せた。コレも、先ほどの笑み同様――余り見たことのない、笑顔のタイプだ。
(眠くて、無防備になってるのかな……)
 先ほどまでは頭に血が上っていた取手も、ひとまず傷の手当てが完了したせいか、だんだん落ち着いてきていた。
 ……そうすると、今度は殆ど半裸の葉佩と、同じ部屋の中にいるのがジワジワ息苦しくなってきて。
 しっかりした骨格。そのわりに、妙に華奢な手足。…しなやかに、ベッドから床に伸びる、葉佩の足。
 まじまじと凝視するのもおかしいかな…とそこまで見てしまってから、取手は慌てて目をそらす。…しかし、目をそらしたそこに、ちょうど葉佩の――うとうとと、取手のシャツに顔を埋め、殆ど眠りにつきかけている顔を発見した。
「は、はっちゃん…! 駄目だって、せめて、服を着てから寝て……」
 慌ててそう言いかけてから、あっそれも違う、部屋までは送るからちゃんと休んで…だよね? と混乱する取手の前で、葉佩は「モー、ダメ。ダメ」とカタカナで呟き、もぞもぞと……寝台に身体をもぐりこませ始める。
「……ムリ。…ね、かまち…ここで寝たら、だめかい?」
 ウォントウスリーピィ。スリーピング。とてもとても、スリーピング。
 ぽつぽつと、流暢な英語混じりに呟かれたそれに、えっ、と取手は困惑する。
 じゃあ、僕はどこで寝たらいいんだろう…?
 それは口に出さなかったものの、恐らく、葉佩も眠気の中でぎりぎり残った理性でそれを察したのだろう。
「うん。…じゃあ、一緒に寝よう?」
「……。………」
 さらりと言われた台詞が。
 …取手の脳に浸透するまで、少し時間がかかった。
「……えっ!」
 ぎょっとして、顔を赤くしたときにはもう遅い。
 にゅっと突き出した手が、取手の腕をつかんで寝台にひきずりこむ。
「はっ、は、は、はっちゃん……! あの、ぼく、あの……ゆ、床にねるよ……!」
「……ドントウォリィ。アイ、ドントタッチトゥユ…?」
「いや、あのッ…」
 もう完全に寝ぼけているらしい葉佩に、取手はずるずる布団の中まで引きずり込まれた。
「……ンン…」
 そして、布団にもぐりこまされた取手に、葉佩はぎゅうっとしがみついて。…すり、と頬を肩口に押し付け、子どものように鼻にかかった吐息を漏らす。
 取手は反射的にその身体を抱きしめ――自分より一回りは小さい身体を、腕の中、しまいこんだ。
「……、」
 どうしよう、と思いながらも、どうしようもないというのは分かっていて。
 こんなことしていいのはっちゃん。…僕に安心していていいのはっちゃんと、いえない呟きを胸の底、落として。
 ……僅か、苦笑する。
「…鉄のにおいがするよ。はっちゃん」
 悔し紛れに(もっとも、何が悔しいのかも分からなかったけれど)そう呟けば、気持ち悪かったら言って、と、辛うじて返答が返ってきた。
「――ううん」
 取手はその言葉に、ただ首を振って、小さく否定する。
「……はっちゃんの血のにおいなら、僕は平気だよ」 
「――…」
 眠ってしまったのだろうか。
 ……それきり、葉佩は黙り込んでしまった。
 取手はおずおずと、葉佩の髪の毛を、そっと撫でてみた。……指先に触れる、くしけずるとサラリこぼれる、手触りのいい黒髪。
「かまち」
「……ッ」
 そんな折、眠ってしまったかと思われた葉佩が唐突に取手の名前を呼んだ。びくっと硬直し、な、なに、と呟く取手に、葉佩は半分以上眠りに落ちながら、小さく笑ったようだった。
「お礼に。……明日になったら、お礼にマミーズで何かおごるよ…。…なにがいい? 何でも買ってあげる」
 いつもの彼らしくない、舌の足りない子どものような口調。
 それに取手もちょっとだけ笑って、……今度こそ眠りについたらしく、それきりスウスウという寝息しか聞こえなくなった葉佩の髪に優しく触れ。
 ……葉佩の額。髪の毛の根本あたりに、ひとつ残っていたかすり傷に、唇を押し当てた。
「…本当に、何でもくれるんなら」
 そして、もう葉佩が返事も返せぬ深い眠りに落ちたことを信じながら、小さく。……けれどはっきりと。
 ――ぼくは、きみがほしいよ。
 そう、優しく、切なく囁いて。
 取手は、僅かに鉄の味がする傷口を舐めてから、眠る葉佩の唇に、そうと唇で触れた。
 スウスウと、定期的に吐き出される葉佩の吐息。そっと取手の唇をかすめる、掠れた寝息。
 無防備に晒された寝顔。
 そんなものたちをひどく胸苦しく受け止めながら、彼が寒くないように、取手は葉佩の身体を腕の中、抱きかかえなおした。 
 抱え込んだ葉佩の身体は、服を殆ど着ていないせいだろう。いつもより、僅かに冷えているようにも感じて。
(僕の体温なんて、全部持っていってしまっていいのに)
 そんな馬鹿なことを考えて、取手は嘆息した。
(……僕の心ごと、全部、全部…持っていってしまって、いいのに)
 ――…ただただ深く、ため息をついた。



 ………夜の空気は、低く静かなピアニィシモ。
 それは、誰にも気付けぬほどやさしく、そうっと。
 …けれど、確かに奏でられるメロディのごとくそこにあり。


 ――さながら、痛いほど静かに紡がれる、胸苦しい恋の旋律のごとくに、そこにあるのだろう。


FIN