【 唇から、崩れる 】



 ――よく動く彼の唇は、いささか薄い。
 冬の寒い日には、乾燥して血が出ていることもある。
 だから、血が出ているよ、と指差して声をかけた。
 ああ、そうか。
 彼はその言葉に、初めてその事実に気づいた様子で。
 ぺろりと、舌先でその薄い唇を舐めた。
 乾いた血がこびりつく、唇。
 ざらり、と音がしそうな舌の動き。
 そうして、彼の舌裏は唇の上、こびりついた血液を丹念に溶かして。
 舐めとって。

「これで、とれた? 血」

 そう言って、どこかあどけなく。
 どこかしら甘く、笑ってみせた。



*****


 ――取手は、実に内気なひとだと葉佩は思っている。
 それは、たとえば音楽室でつい転寝をしてしまったときなどに、特に思うことなのだが。
 ………ぽおん、と叩かれた鍵盤。低く、優しい音。最後の一音。
 それを聞いてるうちに、ついうとうとしてしまって、机に頬を押し付けた。
 …いつもは、ピアノの近くまで椅子を引きずっていって、そこで取手のピアノを聴くのが普通だ。
 こころうたれる、彼の音色。
 ……心打たれ、心撃たれる、彼の音色。
 葉佩はうっとりと、それを聴く。――心地よい、取手の調べ。
 …君が好きだよと。
 まるで、そう一心に囁いてくれているかのような、彼の音色。
「……はっちゃん?」
 眠ってしまったの?
 最後の一音。その余韻が消えないままに、取手がそっと、葉佩の名前を呼ぶ。
 その幼い呼び方を、葉佩はとても気に入っていた。
 これから先、この呼び方を取手以外にさせたくないくらい、気に入っていた。
(ほら、かまち。…俺は、ちゃんと眠っているよ?)
 心の中で小さく呟くこの声は、取手の元に届いているのだろうか。
 果たして彼は、躊躇ったように……がたり、と音を立てて、椅子から立ち上がったようだった。
 そうして、かた、かつ、と他に誰もいない昼休みの音楽室に足音を響かせて、葉佩へと近づいてくる。
「…はっちゃん。……眠っちゃったのかい…?」
 午後からまだ授業が……、と困惑したように囁く割には、取手はいつも葉佩を起こそうとはしない。
 肩に、控えめに乗せられる掌。
 ひやりとした、体温の低い取手の指先。…その感触が、制服越しに感じられて。
 唇が切れている。
 先ほどそう指摘されたように、確かに唇はまだ痛かった。
 何か喋るたびに、ぴしぴしと小さな痛みがはしる。
 こびりついていた血は舐めとったけれど、別にリップクリームを塗ったわけでもなかったし。
 その唇に、取手の指が、――冷たい指が、そっと触れた。
 ……誰かに触れることを、取手はいつも怖がっている。
 それは、触れることによって他人の精気を吸い取ることができる能力に、起因しているのだろう。
 彼は、手をつなぐことも自分からはしない。(もっとも、男子生徒同士で手をつなぐということ自体、そうそうないことだろうが)
 葉佩が、おいで、と差し出した掌を、おずおずと握ることくらいしか。
 触れるか、触れないかくらいのもどかしい指先を、葉佩につかまえられることしか、できない。
 けれど、葉佩がこうして取手の前で転寝をしているとき。
 …取手の前でだけ、こんな風に無防備な姿を晒すときに限り、取手は葉佩に触れてくるようになった。
 唇を指先でなぞる。おどおどと、頬に指先を触れさせる。
 ……あとは、時々。本当に、時々、震える唇が、そっと葉佩のそれに押し当てられることもある。
 押し当てられるばかりで、何も出来ない唇。
 それは、眠ったフリをする葉佩の吐息を感じたくらいで、すぐに離れてしまうくらいの呆気なさで。
 ――けれど、まるで敬虔に。
 神に祈るが如く、彼は眠る葉佩にくちづける。
(勿論。俺は、そんなに綺麗じゃあないのだけれどね)
 今日も、震える指が、葉佩の唇を撫でる。少し、かさついたそこ。
 乾燥しやすい葉佩の唇は、今日も、先ほど指摘されたとおり、うっすらと切れていて。
 取手が、息を殺して――その傷跡とも呼べないような、小さなひびわれを撫でる。
 さっき、指摘されてすぐに唇を舐めたせいだろうか。
 そこは僅かに湿っていて、取手はその感触に、僅か指先を戸惑わせた。
 その間も、葉佩は当たり前のように寝息を立てて、さも転寝で、挙句熟睡してしまった暢気な友人を演じている。
 すうすうと健康な寝息を立て、取手の様子になど微塵も気付かずに、眠り続ける鈍感な「葉佩九龍」。
(――本当は、気付いているのかもしれないな)
 こんなことが何度か続くにつれて、葉佩はそんなことを思うようになった。
 だって、自分は“宝探し屋”。遺跡では、誰よりも鋭敏に気配に気付かねばならず、日常生活でも妙な気配には常に気を配らねばならない。
 誰かの前で熟睡なんて、無防備な真似もそうそうしない。
 寮に重々鍵をかけ、(だが、本当に開けようとしたら、あんな鍵はものの数じゃないだろうことも葉佩は知っている)誰もいないと確信した部屋でこそ、葉佩は初めて熟睡することができる。
(それなのに、こんなときばかり絶対に目を覚まさないなんて。……ふふ。おかしいと思うだろ? かまち)
 指先の戸惑いは、そのせいだろうか。
 震える指先が、唇からついと離れた。
 はっちゃん。
 取手の声が、小さく、確認するように名前を呼ぶ。
 ……まるで、了承をとるように名前を呼ぶ。
(いいよ。――おいで)
 だから、葉佩は心の中で答える。
 取手にはけして聞こえることない、葉佩の心中の声。
 けれど、彼は明確にそれを聞き取ったかのようなタイミングで、片頬を机に押し付けた葉佩に。
 ――そっと、唇を寄せた。
 す、と。
 取手の唇から漏れる、かすかな吐息。
 それが、葉佩の唇のひどく間近で漏れ聞こえることに――その感触があたることに、心がぞくり、震える。
 ――そして、乾いた取手の唇が。
 葉佩の唇へと、柔らかく。……ほんの一瞬だけ、重なる。
(………)
 彼は目を閉じているのだろうか?
 それとも、開いているのだろうか。
 葉佩はいつも、そのことを疑問に思う。
(目を開けていたら、分かるのに)
 ……けれど、葉佩はけして目を開けない。
 何食わぬ顔で彼の口付けを甘受し、もう何分かしたら、当たり前のような顔で「おはよう、かまち。また寝てしまった?」と笑いかけて、欠伸をする。
 それしか、しない。
(………、でも)
 そうでなければ、自分の均衡も、取手の均衡も、崩れてしまう。
 そう、知っているから。
(………。……だけど)
 葉佩は、流れ行くものだ。
 どこまでも、とどまることなく進む流れ。
 上流から下流へ、時に下流から上流へ。……たゆむことなく、彼は流れ行くもの。
 取手は、留まるものだ。
 彼は、どこにも流れていくことはしない。
 その場に留まり、静かに、けれど美しく才能の花を開かせるものだ。
 彼と葉佩は、本当に正反対なのだ。
(――だから、俺は君を連れて行ったりは、しないよ。安心しておいで?)
 彼は、摘んだら枯れてしまう花なのだ。
 だから葉佩は、今日も気付かないフリをする。……気付かないフリを、しなければならない。
 断じて、ここで目を覚まして「ずっと知っていたよ」などと言ってはいけない。
 俺も君が好きだよ、溺れるように君をいとおしんでいるよなどと、狂おしく囁いてはいけない。
 おずおずと、唇が離れていく。……吐息もまた、離れていく。
(ああ)
 その感触に、葉佩は胸のうちから叫びだし、取手に捧げたくなる自分の思いを、持て余す。
 けれど、彼を壊すと知っていて、それを叫ぶわけにはいかないのだ。
(…ああ)
 乾いた唇。
 少し湿った葉佩の唇には、また新しい血が滲んでいるだろうか。
 そしてそれは、取手の唇に、僅か移っただろうか。
 きし、と音を立てて、取手の身体が離れていく。
 ……かた、かつつ、と音を立て、取手がまたピアノの前に座る。
 まるで、――取手と葉佩の間には、砂で出来た壁があるようだと思う。
 蜃気楼のように、触れたらたちまち壊れてしまうような、はかない壁。
 けれど、触れないでいれば、もう少しだけもちそうな。
 ……だけれど、下手に触ると、たちまち崩れてしまうので、補強することもできないような。
 そんな、壁。
(君と俺を間違いなく隔てる、壁)
 ――まだ、もう少し目を開けてはいけない。
 葉佩は、小さく寝息を乱して、軽く頬の位置をずらした。
 ぽおん。
 それに気付いたことを示すように、取手がピアノの鍵盤を、ひとつ叩く。
(壊してしまいたい)
 その音を聴きながら、葉佩は考える。
(…君を、奪ってしまいたい)
 流れるように、優しく紡がれ始める音。
 抑えられたメロディは、けれど、激しい恋情に満ちて。
 まるで、檻のように葉佩をとらえて。……がんじがらめに、して。
 君が好きだと。
 そう、狂おしく囁くように、取手はまた歌を奏でている。
 葉佩もその声に応じるように、机の下、そっと手を握りこんだ。
(――俺は、流れるもので。そして、君は留まるものだ)
 だから、葉佩は取手の想いに応えてはいけない。
 自分も同じ気持ちだと言って、彼を縛り上げてはいけない。
 けれどその声に、どうしてと叫ぶ声がある。
 何故、彼を奪ってはいけないと。
 ――何故、彼を壊してはいけないと。
 どうして、彼を摘んではいけないのだと?
 自分の体温で、すっかりと温んだ机の感触。
 それをもどかしく感じながら、葉佩はうっすらと目を開けて、取手の演奏を眸でとらえた。
 葉佩の漆黒が映すピアノと向かい合う彼は、――敬虔なる求道者であり。
 あるいは、俗世に縛られることを止めることが出来ない、恋に溺れるちっぽけな人間であった。
(――俺は、きっと)
 そして、葉佩は目を開けたことを後悔する。
 音楽に純粋で、真っ直ぐな彼。……ピアニストになりたいのだと、はにかんで呟いた彼。
 恐らく、遠くない将来、その夢は叶うだろう。
 彼の演奏は繊細で美しく、そして正確だ。才能に、溢れている。
 ――葉佩は、いつかきっと、そんな彼を壊してしまうことだろう。
 彼を奪い、その全てを手に入れずにはいられなくなることだろう。
(多分、はじめてだよ。…こんなに、誰かをほしいと思ったのは)
 葉佩は僅か、唇の端を引きつらせて、笑った。
 ごめんね、かまち。
 そして、囁くように、思う。

(――俺はきっと、君を奪うだろう)





*****


「あ。かまち。唇が、切れているよ」
 音楽室に鍵をかける取手。
 …その姿を、少し寝ぼけたような目で見守っていた葉佩が(それはそうだ。だって、彼はついさっきまで、また眠っていたのだから)不意に取手の唇を指差して、そう言った。
「……え? あ、…ホントだ」
「冬の空気は、ホントにドライだね。ピシピシの、カサカサだ」
 恐らく、その形容は、唇が乾燥して切れるさまを表現しているのだろう。…独創的な表現に、取手はちょっと苦笑した。
「? 何か可笑しなことを言ったかな」
「ううん。…はっちゃんの言うことは、面白いなと思っただけだよ」
「フウン? まあ、いいや。かまちは笑うと可愛いから、許してあげよう」
「……えっ、う、うん…?」
 可愛いなんて言葉は、188センチもある自分にではなく、168センチしかない、小柄で整った顔立ちをした葉佩にこそ捧げられるべきではないだろうか。
 取手は何となく釈然としない気分で頷きながら、はっちゃんも、と気付いて彼の唇を指した。
 ……そして、先ほどその唇に邪な目的で触れたことも同時に思い出し、少し、指先をさまよわせる。
「…はっちゃんも、唇が切れているよ。また…」
「エッ。……あー本当だ」
 言われた葉佩が、指先で自分の唇をなぞると、そこに赤い跡がつく。
 少しだけ湿った、そこ。
 その感触をひそかに味わっていることに、不埒な喜びと、ひどい罪悪感をおぼえながら、取手はそっと目をそらした。
「かまち」
 けれど、そんな取手を、葉佩の声が――不意に、とらえて。
「……ッ」
 少し屈んでと、両手を引かれた拍子、腕の中、滑り込む小柄な身体が。
 ――取手の唇を舐め取るように、自分の唇を彼に重ねて。
「…ん」
 20センチの差。
 少し首が痛いと、麻痺したようになっている頭で考えたのも、ほんの一瞬。
 取手の血をなめとってすぐ、離れた葉佩の唇と、けれど未だ間近にある顔は、どちらも悪戯っぽく微笑んでいて。
 ピシピシ、カサカサも悪くないねなんて。
 ……まるで何事もなかったように笑って、ついと取手の腕から抜け出す。
 たんと、何気なく踏み出された、葉佩の足音。
 …それに呼応するように、取手の手から、鍵が滑り落ちた。


 ――それは、何かの留め金が外れたような音にも、多分似ていた。



FIN