【 オムレツ 】
(たとえば)
――遺跡に誘えば、断られることはない。
それは間違いないのだ。いつものようにメールをすれば、彼は葉佩の要請に応じてくれる。
(だけれど)
探索が終わってからや、集まるまで。
あるいは、学校内でふとすれ違ったときや、昼食のときなどに。
――ここのところ。取手鎌治は、葉佩九龍のことを、明らかに避けているようなのだ。
*****
「で、甲さんは一体どんな対策が講じられると思う?」
「……ハ?」
カレーパンは? おうサンキュ。
…それは、随分肌寒くなった屋上にて、葉佩が魔法のように取り出したカレーパンを受け取り、ぱりっと袋を開けたところでの問いかけだった。
「一体どんな対策って…。何の対策だよ」
「うん。だから」
葉佩も、同じようにばりりとカレーパンの袋を開けた。
カレーと揚げパンの香りが、二人の間に漂う。なんと心地よい香りか、とこのときばかりはアロマパイプをくわえず、一瞬皆守が幸せそうな顔になる。
その隙を突くように、葉佩が「俺が、かまちに避けられることに関する対策だよ」と答え、眉を寄せた。何か、痛いところがあるようなその表情。……この場合、「痛いところ」は身体ではなく、気持ちの方にあるのかもしれないが。
「……取手が、お前を?」
「うん」
コクリ頷く葉佩に、皆守は呆れたように眉を寄せ、そうだったか…? とカレーパンを齧った。そのまま、むぐむぐと咀嚼する。
「そうだよ。――現に、最近は保健室にも来ないだろ。かまち」
「ああ。…昼休みにはな? 他の時間には来てるぜ。授業が始まってから……とかな」
「……。俺は甲さんみたいに授業をサボって、保健室に遠征しないから」
遠征ってほどの距離じゃねえだろうと心中呟いて、皆守は咀嚼したカレーパンを飲み下す。うん。このカレーと揚げパンの構成が、全く素晴らしい。完成されている。
「とにかく、――俺は避けられてるんだよ。かまちに。……おかげで、最近は業務メールくらいしかできなくなってしまった」
ちょう、さみしい。
呻くように呟いて、折角開けたカレーパンを口にしないまま、葉佩は膝を抱えた。
カレーパンに失礼なヤツめと思いつつ、珍しく葉佩がストレートに落ち込んでいることに皆守は軽く眉を寄せ、あー、と呻いて頬をかいた。
ぽんぽんと、子どもにするような仕草で葉佩の頭を撫でてやる。指先にひっかかることなくすとんと流れる髪の感触が、心地いい。
「ああ、まあ、その。何だ…。……元気出せよ」
「……出ない。かまちと口ききたい」
「昨日だって、遺跡で口きいたろ」
「『そこトラップあるから、止まって』『分かったよ』……これだけじゃないか」
「……じゃあ、今からでも行って、何か話してこいよ」
「用件もないのに、行けない」
「……前は、用もないのに音楽室に入り浸ってただろうが」
「かまちの音楽を聴くっていう、重要な用件があったよ」
じゃあ何で今はその用件で訪れないんだ、と皆守は言いかけたが、やめる。
そういえば、今日、葉佩が屋上に来るまで少し間があった。てっきり購買でパンを買っていたのだろうと思っていたのだが、…もしかしたら音楽室に寄ってきていたのかも知れない。
「…いないのか。取手が、音楽室に…?」
「…………」
抱えた膝に、幼い子どものように黙って顔を埋める葉佩。
その動きこそが、全ての答えだった。
どうしようもなくて、結局皆守は「あー、わかった。わかったから」と親友の頭を撫でてやることしかできない。
「……それにしても、一体何したって言うんだよ。お前…。…あの取手に避けられるなんて、よっぽどじゃないか…?」
さらさらする葉佩の髪を乱暴にかき混ぜるようにして撫でているうち、葉佩がじわりと顔を上げた。
そして、その「よっぽどの理由」を、眉を寄せて口にする。
「――ちょっと、キスを」
「………」
皆守の手が、止まる。
「………ハ?」
「だから。――ちょっとキスをしたら。……避けられるように、なった」
「………」
止まった手は、するりと外された。皆守は外したその手で、……再び、カレーパンを咀嚼し始める。
「? 甲さん?」
「……馬鹿馬鹿しくなった。……お前な、……ああ、そうか外国帰りだったか…? ……いいか? 普通キスなんてもんは、男同士でしないもんなんだよ…!」
それは、避けられるだろう。
……ことに、相手があの、見た目に似合わず純情な取手ならば尚更だ。
「そういうものなの?」
「…そういうもんだよ。……ッたく、心配して損したぜ…」
馬鹿馬鹿しい。
皆守はもう一度呟くと、何故か胸を焼く苛々を見ないフリで、葉佩が放り出しているもう一つのカレーパンに手を伸ばした。そして、葉佩が何も言わないでいるのをいいことに、それも当然のように咀嚼し始めた。
「なあ、甲さん――、じゃあ、どうしたらいいかな。…俺、このままかまちに避けられているのは嫌なんだよ。何か、ないかい?」
「……知るかよ」
齧る。咀嚼する。飲み込む。
この動作を何遍か繰り返してから、皆守は自分を見つめる葉佩の必死さに気付いて――、また、じりり、苛々が胸を焼くのを感じながら、口中のパンを無理やり飲み下した。
「……そうだな。……じゃあ、物で釣るってのはどうだ、トレジャーハンター? お得意の手だろう。……取手の好きなものでも用意してやりゃあ、いいさ」
ああ。馬鹿馬鹿しい。
皆守は、ひどく虚しいものを感じながら、実に適当な「対策」を一つ提供することにした。
こんなことで仲直りできりゃ、苦労しないだろうと。
そういう反応が返ってくることを見越した、皆守の提案。
しかし、意外にも葉佩はパッと顔を明るくさせ。
「それ、いいな! グッドアイディアだ。…うん、考慮してみよう!」
などと言って、全開で笑う。
「……ハ?」
呆気にとられたのは皆守だ。そして、お前まさかホントに取手を物で釣る気か、と確認しかけるが、サンクスと言って葉佩が皆守の頬に。
「……ッ!」
ごく自然な仕草で、ちゅっ、と音を立てて口付けた。…そのため、皆守はそれ以上何も言えなくなってしまった。
……否、何も言いたくなくなってしまった、というか。
「さて、じゃあランチを……って、甲さん俺の分まで食べちゃってるじゃないか。仕方ないな。もう一遍、買って来よう。先に食べてていいよ」
そして葉佩は、嵐のようにぱたぱたと屋上を出て行ってしまい。
「…………」
屋上で一人。
――皆守は、ただ頭を抱えた。
*****
『件名:今日のお昼はオムレツ!
やあかまち。元気だろうか?
突然だけど、今日はオムレツなんだ。食べようと思ってたくさん作ったけど、食べる人が足りない。
良かったら、一緒に食べてほしい。俺の部屋で待っているから。
――葉佩九龍より』
「……」
取手は、休日の昼間、突然届いたメールに困惑して、眉を寄せた。
(……もう、一週間くらい、まともにはっちゃんと話してない)
そして、微妙におかしな文面の向こう、葉佩がいつものように、あのくろぐろとした眼差しで笑っている顔を想像し、ふわと微笑んで――目を伏せる。
あの日、唇が切れていると言って、取手にキスをした葉佩。
……まるで当たり前のように、取手に口付けた彼。
(どういう意味なんだろう、なんて……。聞けるわけ、ない、し……)
葉佩の、少し乾いた唇。薄い唇。
……眠る葉佩から、何度となく奪った、唇。
取手は、じわり熱くなってきた頬を押さえながら、はあとため息をつく。
――このままでは、取り返しがつかないことになってしまう気がして。
葉佩と、キスをした。……眠っていない葉佩と、キスをした。
その事実が、とんでもないことに繋がってしまう気がして。…取手は逃げ出したのだ。彼を、曖昧に避けるという手段でもって。
(けど……、それも、もう潮時なのかもしれない)
いいかげん、逃げてばかりでは仕方ない。
葉佩のことだ。
キスの意味を問うたところで、意味なんてないよ唇が切れていたからだよと、当然の如く、答えてくるだけかもしれない。
そう答えてくれたら、それでいい。……それが、一番いい。
それなら、取手もまた、以前と同じように振舞えばいいのだ。
……この学園を、いつか去っていってしまう彼に抱いた、この苦しい想いを持て余して。
ジレンマを抱えて、一人で彼を想っていれば、それで。
(……それだけで、いいんだ…)
取手は、結局、慣れない手つきで「わかった。今から行きます」とだけ、返信を打って、部屋を出た。
同じ寮内だ。葉佩の部屋まで、そう距離があるというわけでもない。
何分もしないうちに辿り着いた、葉佩の部屋の前。…ノックをしようと身構えた取手の目の前で、扉がいきなり開いた。
「――やあ、かまち! 来てくれて、嬉しい!」
中から顔を出したのは、端正な顔を全開の笑顔にして、さあ入って! と手招く葉佩だった。
「う、うん。……お邪魔します…」
その勢いに気おされるようにして、取手はおどおどと中に入った。
「…あ」
……中からは、甘い卵の香り。首を傾げて見ると、メール通り、テーブルの上には美味しそうなオムレツが二人分、用意されている。
「ふふ。かまち、オムレツ好きだろう?」
「え、う、…うん。好きだよ」
「よかった! さあ、食べてくれる? あ、もしかしてお腹、減ってなかったりするかな。平気?」
「う、うん」
葉佩に空腹を問われたことが何かのスイッチだったかのように、きゅう、と取手の胃袋が切ない音を立てた。……そういえば、昨日の夕飯から、何も食べていない。
その音を聞きつけたのだろう。
葉佩はくすくす笑って、さあ食べてよ、とスプーンを手渡した。……久しぶりにまともな会話をした彼は、ひどく機嫌がいいようだ。
はっちゃんは食べないのかな…と思いながら、取手は受け取ったスプーンでもぐもぐとオムレツを咀嚼する。
……見た目もそうだが、そのオムレツは、今すぐ料亭を開けそうなほど美味しかった。
「…美味しいよ。はっちゃん」
「本当? 嬉しいな」
じゃあ、俺も一口。
葉佩は幸せそうな顔で自分の分を一口食べて、それからニコッと笑ってみせた。確かに、美味しいね、と。
「……うん」
…その笑顔が、ひどく眩しい気がして。
取手は、口ごもって、まごつきながら、またごまかすようにオムレツを口に運んだ。
端正な面差しをしている葉佩が、ニコッと子どものように笑う。その表情は、ひどく愛らしく。…取手の胸を、きりりと甘く締め付ける。
そのまま、取手は黙ってオムレツを咀嚼した。
言葉どおり、オムレツはひどく美味しい。……しかし、それよりも葉佩と、またこうして自然な時間を過ごせていることが、取手には嬉しかった。
誰にでも微笑みかけ、優しい言葉をくれるのだろう、葉佩。
彼が気まぐれにしてきたあのキスは、まだ取手の中で、どうしていいのかわからずに未消化だったけれど。
……けれど、だからといって何かをどうこうできる筈もなく。
取手は最後の一口を口に運んで、もぐもぐと咀嚼した。美味しい。そう思う。
「………」
と、そこでようやく葉佩を見る余裕が出た取手は、ちら、とテーブルの向こうに座している葉佩を眺めた。
「――」
自分と同じようにオムレツを咀嚼していた筈の葉佩はしかし、……オムレツにスプーンを差し入れたまま、思案げに目を伏せていた。
……かと思ったら、彼はぱっと視線を上げた。…そこに取手の視線があったことに、葉佩は戸惑ったように瞬きして。
ちょっと、笑った。
「……」
その笑みに、取手も小さな笑顔を返す。葉佩の笑顔が、木漏れ日のようだと思った。
「――かまち」
木漏れ日の笑顔を浮かべたまま、葉佩が口を開く。
彼が呼ぶ、名前の響き。それが、取手は好きだった。
…そうして、そのまま。
「俺は、かまちが好きだよ」
葉佩は、無造作に。……あるいは、意を決したように、その言葉を取手へ放り投げた。
「………」
カララン。
取手はその言葉を受け止め損ねて――、スプーンを、そのままオムレツの皿の上に取り落とす。
「え…、う……、うん……」
そうしてから、取手は自分の狼狽ぶりに、自分で苦笑してしまった。……何を誤解しているのだろう。
こんなのは、きっと、いつもの葉佩の友情表現だ。彼にとっては当たり前の、告白だ。
「うん。……うん、僕も、好きだよ。……ありがとう、はっちゃん」
だから、当たり障りのない答えを返す。
そう。好きだ。
――初めて、好きになった相手だ。
キスをしたいとか。……その身体に触れたい、だとか。そんな感情を伴った、好き、を、初めて抱いた相手だ。
嘘は言っていない。
「……そ?」
葉佩は、その言葉に苦笑した。…優しい、微苦笑。
「じゃあ、かまち」
彼はそのまま、がたんとその場に立ち上がり。…すたすたと、取手の傍まで近づくと。
「――だったら、キスしてもいいね」
藪から棒に。
ひどく、真剣な顔でそう呟いて、座る取手の唇に、そのまま、宣言どおりキスをした。
「ンッ…!」
それは、とても友愛のキスなんて、言い訳できるものじゃない。
みだらに舌を絡め。……取手の口中を蹂躙するように、葉佩の舌先が彷徨い。歯と歯が、僅か触れ合う。
呆然とする取手の目前で、葉佩は目を開けたまま、じっと。……僅か潤んだように見える目で、取手の胸に、しがみつくようにして身を屈め。
――その辺りから、取手の理性が、ぷつんと途切れた。
身を屈めて立っていた葉佩。その華奢な身体を引き寄せて、座ったまま、自分の腕の中、捕まえて。
きつく肩をつかんで。頬に、触れて。腕の中、葉佩を閉じ込めるようにして――自分からも、口付ける。
ぴちゃ、と、唾液同士が絡まる音がする。……千切れた理性の糸が、焼け焦げる。
ん、と葉佩の口から、甘い息が零れた。それからも、全て奪おうとするかのように、取手は慣れないキスを繰り返して。
「………ッ」
ビッ、と勢い葉佩の襟元をはだけさせたところで――、ようやく、我に返った。
「……あ」
「…か。…かまち…?」
腕の中。
唐突に動きを止めた取手を見上げる葉佩の頬が、上気している。
そんなことに、また理性が揺らぎそうになるのを感じながら、取手はようやく、呟いた。
「……ごめん…」
そう。…ひどく、苦しそうに。
「………。…謝る意味がわからない」
葉佩が、その言葉に眉をひそめた。
「この場合、謝るべきは俺じゃないかな。――無理やりかまちの言質をとって、キスをした。君を煽った」
自覚はあるよ。
葉佩は、当然のような顔で。――襟元も正さないまま、取手の腕の中で彼を見上げている。
「……ッ…、あ、煽ったって…!」
「煽ったんだよ。……だって」
葉佩は、そこで初めて、僅か躊躇う様子を見せてから。
真っ直ぐ、取手を見上げ。
「――俺は、君がほしかったから」
囁くように、かすれた声で。……迷いなく、告げた。
「……」
どくどくと。
その言葉に、取手の心臓が音を立てる。
――葉佩の声が、言葉が、取手の胸を灼く。
「ほ、ほしかったって…」
「……。かまちは、俺がほしくない?」
簡単な二択だ。
葉佩はそう言って――けれど、あまりフェアじゃない二択かもしれない、と苦笑した。
「君は、俺がほしい? ……俺は、かまちの望むようにしたい。君が平穏を望むなら、今まで通りの葉佩九龍として振舞おう」
今の口付けのせいで、僅か、濡れた唇。
その唇で冷静な言葉を紡いで――、彼は取手を見上げる。
「けれど、君が俺を望むなら。友人としての葉佩九龍ではない、俺を望んでくれるなら。……分かるね。かまち」
何故なら、俺は君が好きで。
――君のことが、欲しいから。
ぞっとするような、葉佩の言葉。
それに、取手はくらくらする頭を押さえ――こめかみを押さえて、低く、呻いた。
「……君は……、ずるいよ…」
嘆くように。…憤るように、低く呟く。
その言葉に、葉佩はそうだね、と笑った。
俺はずるい。
襟元を正さず。口付けの余韻を残した唇で。……甘さを残した、潤んだ眸で取手を見上げて。
そんな二択を、迫っている。
――取手は、震える指を、葉佩の背に伸ばした。
(…いつかいなくなってしまうひとなのに。……ここを、出て行ってしまうひとなのに)
僕は、何をしているんだろう。
そう思うのに、……腕の中、微動だにしないで、自分を見上げる葉佩を、取手は今抱きしめようとしている。
「…、俺は、ずるいね」
取手の腕が、葉佩を引き寄せる。……抱きしめる。
その瞬間、葉佩がまた、自嘲気味に、そう呟いた。
「………うん。……ずるい」
だから、取手は腕の中の愛しい人に、責める強さも持たないまま、そっと囁いて。
けれど、と、付け加える。
「……でも、僕も、ずるいね……」
――机の上では、殆ど手付かずの葉佩のオムレツ。
――窓の外には、眩しい、冬の陽射し。
――…そして続く取手の囁きは、やがて続く口付けに飲み込まれて、消えてしまった。
FIN