『雨降り』



 ―――それは天から、降りてくるもの。


「あ、め…?」
 リュウはそっと幼い指先で、その文字を辿った。
 古い、紙の匂いが鼻につく。
「何おまえ。字、読めないの?」
 リュウと相棒になるように紹介された少年、ボッシュ=1/64は、たどたどしく字を辿るリュウに眉を寄せた。
「……うん。…簡単なつづりなら、読めるんだけど」
 サラサラの金髪に、碧色の眼差し。
 上層区で暮らしていたという少年は、今まで周囲にいたような仲間たちとは何処か一線を劃しているように見えた。
 言葉遣いはどこか皮肉げでとっつきにくくはあるけれど、簡潔で的確だ。
 訓練の中で何度か見る機会のあった剣の腕も、恐ろしいくらいに確かだった。
 こんな人と相棒なんて、とリュウはどこかしら気後れするものを感じていた。
 ……しかし、その一方で、どこかくすぐったく、誇らしくも感じていた。
 だが、こんなとき。……例えば、自分の無知や、無能をさらけ出してしまうような瞬間。
 こういうときはいつも、……当たり前だが……ひどく憂鬱で、情けなく感じてしまう。
「ふーん。…ま、ローディーだもんな。文字なんか読めなくても、いいんじゃん?」
「…うん」
 ローディーと。
 ……侮蔑も、蔑みもこめず、淡々と口にされる。
 それも少し堪えるな、とリュウはぼんやり考えた。
 ボッシュは事実しか口にしない、徹底したリアリストだ。 
 だから、彼が何かを口にするときはいつも、心底からそう思っているときなのだ。
「……」
 リュウは軽く俯いて、また文字を指先でなぞった。
 埃だらけの古い書類。
 それは、リュウたちが待機しているようにと言われた部屋の、テーブルの上。
 無造作に、置かれていたもの。
 しゅ、しゅ、す、とリュウの細い指先が紙の上を辿る。
 それを見るともなく眺め、椅子に座って足を組んでいたボッシュは……不意に立ち上がって。
「あ、め」
 そう言いながら、リュウの手を突然握って、同じ文字を辿る。
「昔。人間が、地上に住んでた頃」
 そして、淡々と説明の言葉を呟く。恐らくはリュウに説明してくれているのだろうが、その口調はまるで独り言めいていて、リュウは困惑したように目をしばたかせる。
「“天候”っていうもんが、世界にはあって。……雨は、その天候の一つだったんだとさ」
「……うん」
 リュウは自分のまだまだ幼い掌が―――細くてつくりが綺麗なくせに、しっかりとして、手の皮も厚いボッシュの掌に包まれていることに、密かにどきどきしながらその説明を聞いた。
 後ろから覆いかぶさるようにして説明されているから、言葉も耳間近で紡がれていて。
(なんだか、くすぐったい……)
 リュウはむずむずするような気持ちを押し隠して「ボッシュは、色々なことを知ってるんだね」と賞賛の笑みを浮かべる。
 その笑みに、ボッシュは「ハァ?」と小さく笑ったようで。
「当然。……ローディーとは違うから。俺」
 かなり本気の、当たり前のような口調で、そう返してくれた。


 ―――それは天から降りてくる、雫たちのこと。


「ボッシュ=1/64。リュウ=1/8192」
 かけられた隊長の声に、二人は何となく顔を見合わせてから、部屋を出る。
 初めての、任務。
 ……初めての、二人だけの実戦。
 リュウは緊張した面持ちで剣を持ち直し、ボッシュは落ち着いた仕草で軽く剣を振った。
「ま、気楽にいこうぜ」
 ボッシュはあっさりそう言って、すたすたと線路沿いを歩いていく。
 ディクの捕獲。処分。その報告。
 ……レンジャーにとって、最もポピュラーなこれらの任務。
 それを、とっととこなして帰ろうぜとボッシュは初任務の気負いもなく、冷静に目を細めた。
(ボッシュは……)
 リュウはそれを賞賛と困惑と……僅かな嫉妬の入り混じった眼差しで見つめ、緊張でがちがちになった手足を、苦笑して見下ろす。
(ローディーとは、違うもんね。…おれとは違って、当たり前か)
 訓練で使い慣れている筈の剣が、奇妙に重く感じる。
 リュウはゆっくりと息を吐き出して、ボッシュとの間にできてしまった距離を慌てて詰めた。


 ―――はらはらほろりと、幾筋もの糸のように、零れ落ちてくる雫のこと。


 簡単だ、とボッシュは言う。
 落ち着いて訓練通りにやればいいと、言葉少なに言う。
 だからリュウも、懸命に心を静めた。
 物陰で、生き物たちが……ディクたちが息づく気配を感じて、ばくばくと震える心臓を服の上から押さえて。
 ひゅうひゅうと漏れる吐息を、必死に落ち着けて。


 ―――時に激しく。まるでバケツの水をひっくり返したかのようにあふれ出すこともある。……そんな、水の群れのこと。


「……お出ましだぜ」
 ボッシュが低く笑った。
 ……これまでになく、ひどく愉しげな笑みを浮かべて。
 リュウはそれをどこか呆然と眺めながら、反射的に剣を構える。
 ボッシュが、悠然と剣を抜く。
(絶命剣は、一撃必殺の剣)
 あれほど訓練で習った型が、頭からすっ飛んでしまった。
 ただ相手に隙を作るために、まずはバランスを崩させなければいけない。
 冷静に、剣を突き立てなければいけない。
 ……リュウはそんな言葉の羅列が、頭につらつらと並んでは消えていくのを感じながら。
 ……呆然と、無我夢中で、敵を屠った。
 ボッシュの剣が、冷徹に敵を仕留め、確実に屍の数を増やしていくのも、ろくに気づくこともできない。
 けれども、きっと彼がそれなりにフォローしてくれていたのだろう。
 そうでなければ、こんな滅茶苦茶な戦い方で……勝利をおさめることなど、出来る筈はない。


 ―――水は大地の癒し。大地の潤い。天から降りてくるその雫たちは、人々を潤し、癒し、濡らしていく。


(濡らして、いく)


「――…もう終わったよ、相棒」

 ボッシュが、からかうようにリュウに声をかけた。
 リュウがぼんやりとそれを見返し「……うん」と緩慢な動作で頷く。
「初陣にしては、そこそこの出来だろ」
 ボッシュは肩をすくめてそう告げると、くるりと身を翻した。
 リュウはそれを、慌てて追いかけようとする。

(濡らして、いく、……水)

 べっとりと赤く濡れた掌を見つめて、頬にそっと手を伸ばした。
 噴き出した体液は、リュウの全身を、まるで水に浸したように染め上げていて。
「……雨に、降られたみたいだな」
 ボッシュがそれを見て笑った。
 リュウも、わけがわからないままに笑った。


 冷たい地下に降らせる、歪んだ雨。


 ……リュウはシャワーのコックを捻って、体にこびりついた体液を落とした。
 ざあざあと音を立てて、人口の雨が、リュウの穢れを押し流していく。
 その中で、リュウはわけもわからず、その両眼から、熱い水を一筋、二筋、流していた。
 とろり、たらり、ほろりと、自覚もなく、雨を流していた。

 きゅ、とコックを捻って水を止める頃には、もう涙は止まっていた。

 リュウはタオルを手にとって、綺麗に水滴を拭った。

 綺麗に、綺麗に、水滴を拭った。


(おれは、これからこうして生きていくんだな)


 そして、ぼんやりとそう思った。


*     *     *     *      *

 ―――それはまだ、レンジャーとして働き始めたばかりの頃の話。

 遠くて近い。誰も知らない昔の話。
 
 皮肉げに笑う相棒と、出会ったばかりの頃の。

(おれの、雨降りの話)


END.












血の雨が降るよ。
そしてそれはわたしたちを濡らしていくことでしょう。