『雨話』


 …光子郎はぼんやりと窓の外を眺めやった。
 しとしとしとと降る雨音は先ほどからひどく一定で、彼を少し落ち着かなくさせる。
(――雨の匂い)
 少しだけ湿った、木の匂い。
(――雨の音)
 規則正しい、たん、とん、たんという雫の音。

『俺、雨の匂い、何か好きなんだ』

 いつだったか、二人で学校で帰っているときに太一がそんなことを言っていたことを思い出す。

『何だか、少し懐かしい匂いって感じがしてさ』

 太一は僅かに微笑んで、そう話してくれた。

 天空から降りる雨粒は、まるであの雲の上にいる誰かが涙を流しているよう。
 光子郎は幼い頃に考えたことを思い返して、ふうと息をついた。
(あの雲の上にいる誰かって誰のことだったんだろう)
 ふとしたときに思い出す幼いときの思考は、今からでは信じられないくらいに論理性にかけている。
 そこにはあるのは頼りない感覚のみの世界で、光子郎は今とはあまりにも違う幼い自分に戸惑いを隠せない。
(漠然とした思考)
 光子郎は席を立って、つい先ほど発見された幼稚園の頃のスケッチブックを手に取った。
 その内容は、幼稚園のお絵かきの時間……つまり人に何か言われてからでないと描かなかったのがよく分かるような、テーマの良く定まった絵が殆どだったが。
(……)
 光子郎は一枚だけ、拙い、クレヨンの匂いがする一枚に目を留めた。
 青い線だけが、天に地に、何本も走っているその絵。
 青い線、水色の線……その縦線だけで構成された絵は、母親の綺麗な字で「あめ」とタイトルされている。
(あめ)
 光子郎はその言葉を胸のうちで復唱してみた。
 ……匂いが好きだと笑う太一。
 ……規則正しいその音に集中を乱される自分。
 幼いあの日の、雲の上には誰かがいるのだとてらいもなく信じていた頃の自分。
 ―――奇妙に入り混ざった感情が、絵の具をぐしゃくしゃに混ぜたときのようなマーブル模様でぐるぐる回る。
 どこにもとりとめのない思考はどこか不思議と心地よく、光子郎はふうとため息をついた。
 そして、ゆっくりとパソコンの電源を落として、適当に荷物をまとめる。
 財布をポケットに押し込んで、少し考えてから太一に貸す予定だった音楽CDを手に取った。
「あら、どこか行くの光子郎」
「はい、太一さんの家までちょっと」
「そうなの。それじゃ太一くんと太一くんのお宅の人によろしくね。…傘、ちゃんと忘れずに持っていくのよ?」
「はい、お母さん」
 光子郎はにこっと笑って「行ってきます」と家を出た。
 母は「行ってらっしゃい」と微笑んだ。

 とんとんたん、たんとんとん。
 しとしとしと、しとしとしと。
 傘に触れる雨音。
 しゃらしゃらと空から水が降りてくる音。
 光子郎はそんなものにまた少しだけぼんやりとする自分を感じて、薄く目を細める。
 マンションの入り口に置かれている紫陽花の葉がきらきら濡れていて、綺麗だなとふと思った。
「あら、光子郎くんいらっしゃい」
「どうも…。あの、太一さんいますか?」
「ええ、いるわよ。…ただ、あの子さっき帰ってきたかと思ったらぐーぐー眠り始めちゃって。今起こすから待っててね?」
「あ、いいです。疲れてるんでしょうし」
「大丈夫大丈夫、あの子のはただの不精よ。あがってちょうだい光子郎くん」
 小学生の頃から見知っている太一の母は明るく笑って光子郎を手招きする。光子郎は彼女の後についていきながら、ぐうぐうと惰眠をむさぼっている太一の元までたどり着いた。
「ほら、ほら太一! 光子郎くんが遊びに来てくれたわよ〜!」
 しかし、よっぽど眠かったのか、いくら彼の母親がゆすろうとたたこうと目を開けようとしない。
 彼女は困ったように苦笑して、光子郎にどうしようか、というような視線を送った。
 光子郎も苦笑して、太一を眺めて「差し支えなかったら、ここで太一さんが起きるのを待ってもいいですか」と尋ねる。
 太一の母は別にかまわないわよと笑って、退屈だったらたたき起こしてやって! と部屋から出て行った。
 光子郎はちょっとだけ笑って太一の寝顔を見てから、ずるずると椅子を引っ張ってきてベッドの傍に座る。
「……」
「………」
 たんとんたん。たんたんたん。
 規則正しい雨の音。
 しゃらしゃらしゃら。しゃら。
 空気に触れる、水の音。
 …光子郎は太一の滑らかな頬に軽く指先を触れさせて、つつっとなぞる。
「……」
 太一はくすぐったそうに身をよじり、もぞもぞと布団の中でうごめいた。
 光子郎はくすっと笑って「太一さん、起きてくださいよ…」と彼の唇を軽く舐める。
「……」
 軽く触れさせていた舌をそっと唇の隙間に押し入れて、ゆっくりと唇を重ねて、からかうみたいなキスを眠る太一に落とした。
「……」
 太一は僅かに頬を染め、薄目を開けながらそれでも何も言わない。
「狸寝入りもほどほどにしませんか?」
 光子郎はちょっと笑って、今度こそ深く唇を重ねた。
「……」
 太一は頬を赤らめ、薄目で光子郎を睨みつける。
「……雨の匂い、しました?」
「……しねーよ」
 雨の日の眠り姫は意地っ張りにそう言って、悪戯っぽく笑うと光子郎の腕を引っ張って寝台の中に引きずり込んだ。
「…昼間からダイタンですね、太一さん」
「おう、ダイタンだぜ」
 太一は欠伸交じりでそう言うと、光子郎にぎゅうっとしがみついて、またすうすうと寝息を立て始める。
 ……光子郎はそれにちょっとだけ目を見張って、困ったように、とても優しく微笑んだ。
「ねえ、太一さん。雨の音って不思議ですね」
「……」
「優しくて、規則正しくて……とても小さな音なのに、パソコンに黙って向かっていることがとても困難になってしまう」
「……」
「…そしたら、雨の匂いが好きだという貴方を思い出して」
 光子郎は囁きながら、太一の鼻の頭にちょんと軽く唇で触れた。
「……ここまで、来てしまいました」
「……」
 太一はぎゅっと眉を寄せて、頬を僅かに染める。
 たんとんとん。たんたんとん。
 とくんとくんとくん。とくんとくんとくん。
 抱きしめあった腕から、胸から、肌から伝わる優しい鼓動。
 それは、少しだけ規則正しい雨の音に似ていて、光子郎は微笑んだ。
(……あの雨音は、貴方の鼓動に似ていたから)
(だから、きっと僕は落ち着かなくなったんだろう)
 そんな風に思って、また軽いキスをする。
(雨の匂い)
 太一は寝起きの思考でぼんやり考え、光子郎に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
 光子郎からはいつも少し、不思議な水の匂いみたいな、優しい匂いがする。
(あめのにおい)
 ぎゅうっ、ときつくしがみついて、だきついて、……抱きしめて。
 太一は大好きな人の匂いだから心惹かれる、優しい水の匂いに口元を緩める。

 たん、とん、たん。
 たんたんたん、とんとんたん。

 規則正しい鼓動の音と、優しい雨の匂いに包まれて。

 梅雨の日の午後。
 しゃらしゃらと降りる雨の糸を思いながら、二人で目を閉じた。
 眠るわけでもなく、起きるわけでない、まどろみの中でゆったりと。

 光子郎の脳裏に、ふと「あめ」と描かれた幼い日のスケッチブックが踊った。
 何かを一心に描く自分。
『それはなあに、光子郎?』
 尋ねられて、あててみて、と笑う自分。

「あめ」

 小さく太一が呟いた。
 ……それはまるで、思考の中の幼い自分に太一が応えてくれたかのようなタイミングで。
「…その通りです」
 光子郎は小さく笑って、太一を抱く腕の力を強めた。

 天から降りてくる青い線。
 それはまるで、あの雲の上にいる誰かが涙を流しているよう。
 太一と光子郎は、そんな誰かの涙に包まれて抱きしめあって、目を閉じた。
 優しくて、規則正しい涙は、水の匂いと鼓動の音を響かせて。

 ――――ゆったりと、彼らの裡へと、吸い込まれていくようだった。

END.


あめばなしでも、あめはなしでも、うわでも、どうぞお好きにお読みください(笑)
何となく梅雨話です。
あくまでも何となく。

……雨の日って何となく眠くなりませんか?(ていうか私年中眠いんですが)
さらさら降る雨の日は家でごろねが一番です。(んなこと断言されてもねえ)