『ちぎれた翅で飛んでみせて』





 ―――子どもとは、ひどく残酷なもので。

「なにしてんだ、お前ら」
 あれはいつだったか。
 確か、屋外で行われた、そう退屈な写生大会だったかもしれない。
 太一は退屈だなと思いながら、どこか写生できそうな…というよりも、昼寝できそうな場所を探していたような気がする。
「へへ、散歩〜」
 声をかけたクラスメートたちは、そう言って笑った。
 手にしているのは細い糸。その先には小さな蝶々。
「散歩って…」
「ほら、見ろよ太一。こいつ、ペットにしたんだ」
 蝶の翅。うっすらとはばたく美しいそれ。その片方にくくりつけられているのは、粗末な木綿の糸。
 鞄か、それともスケッチブックについていた紐から引き抜いたものだろうか。
 それから逃れんとして、蝶々は懸命にその身をばたつかせる。
 太一は見ている内に胸が悪くなって、やめろよと呟いた。
 殊更に命の大切さを説く気はないが、こんな光景をいつまでも見せられているのは嫌だった。
 …だったら、その場から立ち去ればよかったのだろうけど、足はしかし大地にへばりついたように動かなくて。
「え、なに? なんか言った?」
 クラスメートは、課題であるはずの写生もほったらかしで、目前で揺らめく玩具に夢中だ。
 太一の声も届いていない。いや、届いたとしても無視したのかもしれない。
 燦々と降り注ぐ光のもと、蝶々の翅が揺らめくさまは、太一の目に黒い残像を残し。
「あ」
 あっけない声とともに、彼は糸を手放した。驚いたからだ。
 蝶々の翅が、糸ごともがれてしまったからだ。
「…」
 太一は眉を寄せて、それを睨む。
 蝶々は片方の翅と、ちぎれて半端になった翅でもって、しばし宙を羽ばたいた。
 そして落ちた。
「ちぇ」
 彼らは残念そうに舌打ちする。
 しかし太一は彼に全く見向きもせず、大地に落ちてもがく昆虫を見ていた。
 はたはたと、力なく動かされるつばさ。
 やがてそれは、ひたりと止まって。
 静かになった。

 それは、とても静かになったのだ。




「…太一さん?」

 よく晴れた、気持ちよく整えられた空調の下。
 ああ、何だろ今の。
 太一はぼんやり、そう考えた。
 考えるのと同時に、ああ、夢だ、と思う。
 写生大会は、確か小学生の頃。今の彼は高校生で、ここは光子郎の部屋だと思い出す。
 今まで太一が見ていたものは、昔の夢で、今ここで心配そうに声をかける光子郎の声で眼を覚ましたのだ。
 そこまで思い出して、理解して、太一はゆるゆると瞬きした。
「どうしました。…何か、悪い夢でも?」
 キイと回転椅子を軋ませて、光子郎が振り返ったようだ。
 光子郎のベッドに横になっていた太一には、けれど彼の姿は見えない。 
 不意に太一は「もし俺が」と呟く。
 光子郎はいぶかしげな顔をしながらも「…なんですか?」と続きを促した。
 何言いたいんだろう、俺、と思いながら、太一は「もし俺が、さ」ともう一度言った。
「腕がなくなったら。おまえ、どうする」
「………」
 なんだそれ。
 太一は自分で言いながら、笑ってしまった。
 強張った頬が、緩んで、笑顔を作る。
「わり、今のナシ、なんでもない。ちょっとさ、ヘンな夢見て」
 彼はそう言いながら、むくっと半身を起こした。そして、光子郎の方を向いて笑顔を共有しようとする。
 けれど、光子郎の顔は、当たり前のように真剣で。
「つなげて、再生させます」
 淡々と、そう呟いた。
 その声は、ひどく思いつめたような返答だったから、太一は慌ててしまう。
「あ、あー、そ、そうか! 光子郎すげえな。え、ええと。…あ、あのさ、ごめん今のホント冗談で」
「つなげて再生させて」
 光子郎はしかし、太一の言葉を遮るようにそう言ってから。
「…ついでに、羽でもつけましょうか? それとも、どんなテストでも全問正解できるような魔法の指をつけましょうか」
 ようやく、笑ってみせた。
 太一は呆気にとられて眼を見張ってから、あー、それいいかもと、笑った。
 現に、彼は先日、前期のテストの結果を母親に責められたばかりだったので、大真面目にそんな指がつけられるなら欲しい。
「頼むよ光子郎。もしそうなったら、マジでそれつけてくんねえ?」
「そうですね。できればそうしたいんですけど、まだちょっと僕では荷が重いかもしれません」
 だから太一さん、今のところは自力で頑張ってくださいねと光子郎は続けた。
 続けてから、ああでもやっぱり羽はやめましょうと呟く。
「飛んでいかれては困ります。…太一さん、そんなものついたらどこにでも行ってしまいそうだから」
 妙に真実味のこもった、それ。
 太一はそれに苦笑して、そんなことしないよと光子郎の椅子に手を伸ばした。
 背もたれに指をかけ、きいと軋ませれば、振り返った光子郎の眼差しが「いいえ信用できません」と言うみたいに細められていた。
「…太一さん。あなたに羽がついてなくてよかった、と今僕はしみじみ痛感しているところですよ。もしも羽がついていたら、やれサッカーの試合だの、やれ後輩の面倒をみなくちゃだの、あちらこちらに飛んでいってしまう。そうして、僕のところには殆ど戻ってこないか、たまに訪れてもベランダに数分くらいになるんです」
「……。…いや、いくらなんでもそうはならないと思うんだけど」
 太一は、何とも複雑な表情になりながら、そう呟いた。
 こうやって、光子郎は時折拗ねることがある。
 子どものやきもちみたいで微笑ましいよなあと思ってられる内は、まだ平和なのだ。
 しかし、これをそのまま放置しておけば、後で必ず恐ろしい報復処置がとられる。そしてそれは主に夜の出来事で。
 太一は以前行われた「仕置き」に眉を寄せかけて、慌てて笑いかけた。
「大丈夫だって! 俺が一番好きなのは光子郎だし、一番そばにいたいのは光子郎だよ。だから今日だって、バイトもない、部活もない休日だけど、こうやっておまえのとこにいるじゃん?」
「……」
 光子郎の眼差しが、その言葉に少しだけやわらげられた。
「…そうですね」
「だろ?」
 太一は光子郎の態度が軟化したことに安堵し、ちゅっと音を立てて恋人の頬にキスをした。
 深いスキンシップはまだ照れることが多いけれど、こんな些細な触れ合いならば、太一のほうが得意だ。
「だから早くそれ、終わらせろよー? パソコン部の発表だかなんだかしらねえけど、せっかく俺がここにいるんだからさあ」
「……。…はい」
 不意打ちされた光子郎は、嬉しそうで、けれど悔しそうな複雑な表情で太一をじっと見つめてから、またパソコンの前に向きなおる。
 太一はそれに満足げに笑ってから、ごろんとベッドに転がった。
 そして、見上げた天井に隅に、蝶に似た黒いシミを見つける。
 あんなもの見てうとうとしてたから、妙な夢を見ちまったのかな。
 彼は顔をしかめ、眼を閉じるとまだまざまざと浮かび上がる蝶のもがくさまを振り払うように、眼差しをパソコンに向かう光子郎に移した。
「太一さん」
 その視線移動に気づいたのかどうか。
 光子郎が、不意に太一の名前を呼んだ。
「ん?」
 瞬きして返事をすれば、光子郎はにっこり笑って。
 椅子を軋ませて立ち上がり、横になっている太一の側まで歩み寄った。
 そして、きょとんとしている太一の顔をつかまえて、口付けると。
「本当に、あなたに羽がついていなくてよかったです」
 そう、確認するように呟く。
「…光子郎ー?」
 そうはねはね連呼されると、あの妙な夢を思い出してしまう。
 光子郎にそういう意図はないのだろうが、太一はちょっとだけ責めるような眼で「その話題、しつこいぞ」と呟いた。
 けれど光子郎は、太一の言葉を気にした様子もなく。
「もしついていたら、僕はきっとそれをちぎってしまっていた」
 まるで独白のように、そう続けるのだ。
「………」
 太一はげんなりした顔で、今度こそ脳裏に蘇ってきた蝶の姿にうんざりと息をはく。
「おまえって、時々猟奇的」
「あなたが、そうするんですよ。太一さん」
 続けて、あいしてます、と呟く光子郎の言葉は、太一が「すき」と呟く言葉よりもずっと重い。
 それでも太一は、その言葉を両手で受け止めて、困ったように見てから「俺も好きだぞ」と返すしかない。
 はねをちぎるとか、再生するとか、そんな物騒なことばかり言う光子郎。
 そういう言葉で、太一をがんじがらめにしてしまうつもりなのだろうか。
 太一は困惑して、けれど困惑しても、光子郎の掌を離せず、光子郎の口付けを拒めず。
 ちぎれた翅で、なお羽ばたこうとしていた蝶のことを、また思い出した。
「光子郎、パソコンは」
「後にします。…少しだけ、こうしていさせてください」
 手を取って、抱きしめるというよりも縋るみたいに。
 俺よりも背が伸びたくせにと呟く太一を、抱き寄せて、しがみついて。
 子どもみたいにしがみつく光子郎は、子どもよりも我侭で、子どもよりも貪欲なのかもしれない。
 太一は天井を見上げて、先ほどのシミを探した。
 蝶にも見えるそれは、けれど本当に蝶だとしたら、片翅の位置がひどく遠い。
 ちぎれてるんだ、と思う。
 そして、口付けてきた光子郎に眼を瞑り、俺の羽ももしかしたらちぎれているのかも、と思った。
 ちぎれて、もがれたそれは光子郎の手元にあるのかもしれない。
 これでもう羽ばたかないと安堵する光子郎のそばに、あるのかもしれない。
 太一はぼんやりと天井を見上げ、くるりと反転した視界に、笑った。
 どさりと背中が柔らかい寝台に触れる。寝るのかよと問えば、眠いのかもしれませんと光子郎が笑い混じりに言った。
 不恰好な、ちぎれた翅。
(本当は、それを持っているのは俺じゃなくて)
 太一は唐突に思って、光子郎の肩を強く掴んだ。
 光子郎が痛いですよと笑うのに、苦笑を返した。

 ちぎれていても、飛べそうになくても。
 それでも空に焦がれて、太陽を求めて羽ばたくのは。
 無謀なほどにあがいて、飛び立たんとしているのは。

(…本当は、俺じゃなくて?)

 太一はそう思いかけて、けれどやめて、笑った。
 笑って、口付けた。

「俺とお前って、結構似たもの同士なのかもな」
 そう呟いた言葉に、光子郎は何とも複雑そうな顔をして笑うのだろう。
 一緒にしないでくださいよとかなんとか、そんな生意気を言って。















ちょっと痛い話…でもないでしょうか。(どっちだ)
子どもの遊びは残酷ですよね。
久々の光太で、話の感覚がつかめないでいました。手探りで書いた感じです。

ちぎれた翅でも飛ぼうとするのは、彼か我か。

ちょっとだけ暗い感じの話になってしまいました。