「mirror(鏡)」



 がらり。
 光子郎がパソコン室の扉を開けると、既に子どもたちは何人か、集合していた。
 まだここに来ていないのは、掃除当番になってしまっているタケルと、宿題を忘れたため、教師より居残り命令を受けた大輔だろうか。
 伊織はウパモンに何事かを一生懸命に言い聞かせており、ヒカリと京は女子同士、顔を寄せ合って楽しげに語らっているようだった。
「あっ、こんにちはー泉先輩! 今日も来て下さったんですね!」
 光子郎の来訪に気付いて、京が嬉しげな様子でその場に立ち上がった。その拍子に、その手の中で何かが光った。
 きらり、蛍光灯の光を弾いて反射させる、それ。
 猫の形をしたそれは、どうやら小さな手鏡のようだった。
 あ、これヒカリちゃんのなんですよ、可愛いですよねえ! とはしゃぐ京に、光子郎はそうですかとだけ答え、鏡を眺めた。 
 でたらめに光を反射させるそれは、今度は天井に向けて、ぼんやりと白い光を返していた。



*****



 ――モニター上には、ダークタワーを示す光点が二つ。
 お台場小学校のパソコン室。既にこの学校を卒業した筈の光子郎は、しかし当然のような顔で腕組みをし、椅子の背を軋ませた。
(…大輔君たちは、今……この辺りか)
 慣れた手つきでキーボードに指を走らせれば、ダークタワーを示す赤い光点に対し、青い光点が一つ、モニター上に表示された。
 それはジワジワと、赤い光点に向かって進んでいるようだ。…光子郎が表示させた青い光点は、正確に大輔たちの位置を示しているようである。
 今日中に二本がいいところかな。
 彼はそう呟いて、片手で鞄を開けた。そして、中から、教科書とノートを取り出す。
 ……デジタルワールドの危機に対し、最も頻繁に、そして最も的確に対応できる光子郎は、(中学生組の中では)最も頻繁にこの部屋を訪れて、大輔らのフォローに務めている。しかし、だからといって学校から出される宿題を提出しないわけにはいかず、予習、復習を怠るわけにもいかない。
 主な作業が待機や、大輔たちのフォローが中心である光子郎は、この部屋で待機している間、こうして教科書を読んだりすることにしている。
 しんと静まり返ったパソコン室。…時折、グラウンドから、子どもたちの歓声が聞こえてくる。
(集中して勉強するには、うってつけだな…)
 ぱらり、授業の要点をノートにまとめながら、光子郎は僅かに苦笑した。
 …三年前。
 自分たちが、デジタルワールドで冒険していた頃は、「待機している間に勉強をする」なんてこと、丈くらいしか思いつかなかったのではないだろうかと思ったのだ。
(まあ、太一さんとかに関して言えば、今も大して変わらないかもしれませんが)
 たとえば、彼がこの場に一人で待機していたとしても、決して勉強を始めたりはしないだろう。
 そもそも、太一に「待機」などという単語はひどく不似合いだ。ありえないと言ってもいい。
(…そういえば、時間があれば顔を出すって言っていたけれど)
 来られるのかな。太一さん。
 シャープペンのヘッドをカチカチと何度かノックして、芯を押し出しながら、光子郎は小さく呟いた。
 …しかし、途中まで顔を出した芯は、半端な長さだったらしい。
 途中で、ぽろりと抜けて、落ちてしまった。
「……」
 しょうがないな、と光子郎はペンケースから芯を取り出し、新しい芯を補充する。
 カチカチ。カチ。
 それから、また何度かヘッドをノックして。
 ……光子郎は、何となく手を止めた。
 抜け落ちた、ちっぽけな芯の先。それがくろぐろと、キーボードの前で蛍光灯の光を吸い込んで。
 …それが、まるで自分のようだと思った。 
 三年前からずっと太一のことが好きなくせに、何一つ行動も起こさず。
 ただ、どうすることもしないで、けれど未練ばかりは人一倍で、シャープペンの奥にひっそりと隠れているような。
 …光子郎は自分の後ろ向きな思考にため息をつき、押し出された芯を指先で弾いた。
 ちっぽけな黒い欠片は、呆気なく弾き飛ばされ、たちまち見えなくなる。
(これくらい簡単に、僕の気持ちも消えてしまえばいいのに)
 ぼんやりとそれを眺め、光子郎は口の中で独り言を呟いた。
 所詮、叶う筈はない、どこにもいきようのない恋なのだ。
 何の役にも立てないのなら、早く消えてしまえばいいのに。……このどうしようない恋は、胸のうちに棲みついて、次第にその領域を広げるばかりで。

 ――ガラリ。

 出し抜けに、パソコン室の扉が開いた。
 光子郎は慌てて扉の方に向き直り、(学校関係者だったなら、ごまかさなければならないからだ)「あ」と小さく呟いた。
「よー、光子郎」
 開いた扉からひょこり、顔を出したのが、たった今顔を思い浮かべていた太一そのひとだったからだ。
 太一は、軽く手を挙げて挨拶してから、スタスタ室内に入ってきた。
「部活、早く終わったんですね」
「おう。顧問が、病欠でさ。筋トレだけだったんだ」
 状況は? と太一がモニターを覗き込む。その拍子に、無造作に羽織った彼の制服が、ぱさり、腕に当たった。
 ガタン、手は机に置かれ、光子郎の肩近くには太一の顎がある。
 そんなものにいちいちざわつく心を無理やり押さえて、光子郎は「ココが大輔君たちの現在地です」とモニターを指差す。
「ふーん。…結構、近いな。……アグモンのエリアは、こっからだと?」
「ここより、何エリアか離れてますね。…今からだと、今日の戦いには間に合わないでしょう」
「…そっか」
 もとより、太一たちは現在デジモンを進化させることはできない。たとえ戦いに間に合ったとしても、足手まといにならないようにするのが関の山だろう。
 太一もそれは十分承知しているようで、小さく相槌を打った以降、特に何を言うでもなく、そのまま空いた椅子に腰掛けた。
「……」
「………」
 そのまま、何となく気詰まりな沈黙が流れた。
 少なくとも、三年以上は友人付き合いをしている筈の光子郎だったが、最近太一との上手な間合いをはかれなくなってきている。
 太一が中学にあがり、一年の隔たりをまざまざと目にしたせいかも、しれない。
 ……以前なら気にならなかった筈の、こんな半端な距離が、今はひどくもどかしい。
 本当はもっと、近づきたいのかもしれない。
 …いっそのこと、遠ざかりたいのかもしれない。
 疲れたように椅子に背を預け、黙っている太一。
 緩められた襟元。僅か、覗く鎖骨。
 そんなものが見えない距離にいたい。
 そんなものに触ることができる距離にいたい。
 ――相反する、曖昧かつ極端な感情。
(……もっと、分かりやすいものなら、いいのに)
 好きなら好き。嫌いなら嫌い。
 1か0の、真か偽しかない世界なら、もっとわかりやすいのだろうに。
 …そんなことをぼんやり考えていたせいだろうか。
 なあ光子郎、と呼びかけた太一に、光子郎は、…はい、と反射的に答えてから、何ですか、と応じた。
「……お前さ」
 太一は気だるげに椅子の背を軋ませる。
(…何だか今日の太一さんは、元気がないな)
 全体的に、気の抜けたような動きをする太一に、光子郎はぼんやりそんなことを考えた。
 視界の端できらり、光るものがあったので何となく視線を移せば、そこには猫の形をした小さな手鏡が光っている。
 ヒカリさん、置いていったんだな、とそれを眺めてから、光子郎は太一の方へ視線を移した。
 しかし、太一もまた光子郎を見ていたわけでもなく。
 ……ただ黙ってグラウンドを見つめながら、行儀悪く机に足をかけて、ぎい、とキャスターつきの椅子を動かして。
「お前ってさ。……好きなやつとか、いんの?」
 ――出し抜けに、そんなことを問いかけてきた。
「……」
 光子郎はその問いかけに一瞬――いや、一分ほどたっぷり沈黙した。
 好きなやつ。
 ……好きなやつ?
 その情報がようやく脳に行き着いたとき、光子郎はがたんっと、思わず立ち上がっていた。
 椅子のキャスターがきゅるるると音を立て、後ろの方へ滑っていく。
 そして、さすがに吃驚したのだろう。ぼんやりしていた太一も、さすがにぎょっとしたように光子郎を見ている。
「……あ。…いえ、すみません。ちょっと、驚いて」
「そ、そうか? そんなに驚くこと、言ったか…?」
 とても驚くことでした、と、そんな太一に内心苛つきながら、すみません、と光子郎は口先だけで謝った。
「…好きなひと、でしたっけ」
 どうして太一が、そんなことを聞くのか。
 推測するだけで、色々といやな気持ちになる。
 光子郎は、どくどくと鼓動を早め始めた心臓を無理やり押さえつけ、すきなひとすきなひと、と口の中で意味もなく言葉を反芻する。
 それは勿論、考えるまでもない。
 目の前にいる太一だ。八神太一だ。それしかいない。
(けれど、そんなことを言えるはず、ない)
 光子郎は、少し迷ってから、「いますよ」とだけ素っ気無く答えた。
 …そっか。
 光子郎の答えに、太一はまた驚いたように目を見張って、「……そっか」と、もう一度呟く。
「……何なんですか、一体。…そんなこと突然聞いて。太一さんこそ、」
 …ああ、以前はどんな風に間合いをとっていただろう?
 太一との間合い。太一との距離。
 確か、小学生の頃の自分は、もっと上手に太一と距離をとれていたように思ったのに。
「…太一さんこそ、誰か、好きな人ができたっていうんですか?」
 ……そう。もっと上手に間合いをとれていた筈だった。……のだが。
(って、何聞いてるんだ。……何きいてんだ僕は!)
 …間合いを模索しているうちに、つい口からするりと出てきてしまった問いかけ。
 自らを自分で追いこむような問いかけに、光子郎は自分で自分を殴ってやりたくなる。
「…えーと」
 光子郎の自爆技ともいえる問いかけに、太一は言葉を濁すように鼻の頭をかいた。
「……」
「………」
 気詰まりな沈黙。もはや、既に間合いどころではない。
 そうして沈黙の挙句。
 太一が存外あっさりと「いるよ」と答えたことに、喉の奥が、更に詰まった。
「…そうですか」
「………、誰ですかとか、きかねえの?」
「……太一さんこそ、僕の好きな人は気にならないんですか」
「………別に」
「…………僕も、別に気になりません、から」
 ああ、心臓が痛い。
 どくどくと、震え、騒ぎ続けるこの鼓動。それが、ひどく胸を叩いて。……このまま、蹴破ってしまいそうで。
 光子郎は、心臓を鎮めるため、椅子に座らないまま、逃げ出すことにした。
 そうだ。逃げ出してしまえ。

(――僕はあなたが好きなんです)
(――僕が好きなのは、あなたなんです)
 
 そう、胸のうちで叫ぶことしか出来ない自分。
 現実はただ、張り付いたような愛想笑いを浮かべ、ちょっとトイレにいってきますなんて言い訳して。
 がらり、パソコン室を飛び出すことしか、できやしないのだ。
 追いかけてきてくれたらいい、とどこかで思う。
 光子郎どうしたんだよ、様子が変だぞと、自分が原因とも知らないその鈍感さで、光子郎を心配してくれたらいいのに。
 …けれど、今日に限って太一はやけに素直で。
「おう。…その間、こいつらの様子、見てるから。なるべく早く帰ってこいよ」
 …なんて。
 きゅるる、キャスターを転がして、光子郎が陣取っていた席の前に移動なんてしている。
 …じゃ、いってきます。
 だから光子郎は結局、それだけを口にして教室を飛び出した。
 震える心臓。うるさい心臓。ああ、いっそのこと止まってしまったらいい。
 好きな人に好きだともいえない意気地なしの自分など、消えてしまったらいいのに。
 ……ふらふらとトイレに逃げ込んで、ぼんやり鏡を見つめれば、そこにはすっかり憔悴した顔つきの自分がいた。
 ああ、好きと嫌いも、こんなに簡単だったらいいのに。
 ………あのひとが自分に見せる感情が、ただの友達で、ただの後輩に対するそれだったら、自分もそっくり同じ感情を返せたらいいのに。
 そして、光子郎が鏡の前で引きつった苦笑を見せると、鏡の中の光子郎も、少し歪んだ笑みを返してきた。



*****


「……これ、ヒカリのか」
 …グラウンドから聞こえる声。
 だんだんと西日もきつくなってきて、ああ、そろそろ夕方じゃないかなと考えたりしながら、太一は無気力にキャスターを転がす。
「………」
 いますよ。
 ……そう、ひとことだけ返してきた光子郎。
 彼は、どんな顔をしてそう言ったのだろうか。立ち上がったくせに、目線は伏せられていたし。…何だか、素っ気無い口調だったから、茶化して覗き込むこともできなかった。
「……なんだよー。…好きなやつ、いんのかよー」
 椅子の背を思い切り軋ませて、太一は誰もいないパソコン室で盛大に呻いた。
 ぎいい、と椅子を軋ませて天井を見上げれば、蛍光灯が目を刺して、ひどく痛い。
 だから、ヒカリのか、と呟いて拾い上げた手鏡。それで目の上をガードするように、守って。
 なんだよー、ともう一度、呟く。
「……。………」
 きらり、光を反射して、天井に白いわっかを作った手鏡。
 こんな風に。
 自分の返す感情に、相手がそっくり同じ気持ちを返してくれたらいいのに。
 そう考えて手鏡を覗き込んでも、そこにはひどく情けない顔をしている自分がひとり。
 鏡いっぱいに、映し出されている。


 ただ、それだけなのだ。

























さりげなく両思い、という話です。
なんか物凄く久しぶりにウェブ用のデジアド話を書いたせいなのか、時間がないーとあせっていたせいなのか、まとまらない話に…。
お待たせした挙句、こんなんでスミマセン……。

そして、大輔君たち。
君たちが頑張ってる間、二人は色恋沙汰に夢中で、スミマセン。

うーうー、しかし全然まとまんなかっ…た……! 実力不足。

基本的に太一はノンケだと思っているので、この話はある意味パラレルかもしれません。