『mint(ミント・薄荷)』






 苦しい、と思う。
 今すぐここから逃げ出したい、と思う。
 だって、ここじゃあ息が出来ない。
 口を大きく開けても、酸素が口の中まで入ってこない。喉の奥まで到達しない。

 苦しい苦しい苦しい。

 今すぐ呼吸したくて、酸素を求めて口を開けても、それでもそこには何も入ってこない。
 …どうして皆こんな苦しいところで生きていられるのだろう?
 僕は、満足に呼吸一つできないっていうのに。



*****



 さようならとか、ばいばいとか、またねとか。
 そういう言葉が朗らかに行きかう中、光子郎はさっさとランドセルを掴んで、足早に廊下へ出た。
 時々、こういう日がある。
 誰が悪いというわけでもない。ただ、苛々してどうしようもなくなるというだけの日。
 今すぐ走って、どこかへ逃げ出したくなるような。ただそれだけしか考えられなくなるような日。
 こんな日は、真っ直ぐ家にも帰りたくないし、だからといって教室にもいたくない。
 光子郎は、ただ引っつかんで出てきたのでまだ背負っていなかったランドセルを、よいしょ、と背中に背負った。
 片手に抱えていたもう一つのリュックには、大切なノートパソコン。
 ――いっそ、本当にどこか遠くに行ってしまおうかと思う。
 誰も光子郎を知らない場所。もっと上手に呼吸が出来る場所。
 苦しくない場所。……誰にとって誰が必要かとか、そんなことを気にせずに生きていられる場所。
(…そんなのが、僕にとってのユートピアなんだろうか?)
 色彩でイメージするなら、きっとそこは灰色。
 世にもつまらない場所だ。
 誰も彼も感情をなくしたような場所。……ああ、そしてきっと僕は、そこでもうまく呼吸ができない日があるに違いない。
 結局光子郎は、真っ直ぐ家に帰らず……黙って、校舎裏に向かった。
 ひんやりとした風が吹くそこは、薄暗く、人気もない。
 グラウンドから少し離れただけのそこは、喧騒からも遠く、教室や家の中ほどにひとの気配を感じないで済む。
 ひゅ、と喉奥に空気を吸い込んでみたら、少しだけ、さっきよりは楽に呼吸ができた気がした。
 けれど、まだ少し息苦しい。
 まだ少し、酸素が足りない気がする。
(分かってる。本当は、ちゃんと酸素だって足りてるし、僕はちゃんと呼吸しているんだ)
 ――足りてないのは、きっと光子郎の心。
 呼吸できずに、酸素を摂取できずに喘いでいるのは、光子郎の心だ。
 くるしい。
 眉をしかめてそう考えながら、光子郎はノートパソコンのスイッチを入れた。
 うぃいん、と音を立てて起動するパソコン。
 その画面を見ていると、また、少しだけ楽になった気がした。
 このパソコンの前になら、まだいていいような気がするからかもしれない。
 ……ここになら、まだ居場所があるような気がしたからかもしれない。
 誰にもさよならも、ばいばいも、またねも言いたくなくなる日。
 うちに帰って、ただいまもおかえりも聞きたくない日。
 そんな日、光子郎はいつでもひとりぼっちだ。
 本当にはひとりぼっちではないのかもしれないけど。
 ……けれど、ひとりぼっちだと思う。
 もしくは、迷子になった宇宙人かもしれない。
 同じ生き物がいない。どこを探してもいない。
 光子郎は一人きり、周囲とは違う呼吸法で酸素を摂取するから、だからこうして時々辛くなってしまうのだとも。
 くるしい。
 小さく呟いて、光子郎はたちあがったパソコンのキーボードに、意味もなく指をおろした。
 ……ああ、僕は何をしたいっていうんだろう?
 残りバッテリーを示す、画面の中の表示。
 今はまだ満タンのそれが、そのうちジワジワと減っていくのだろうと、そう想像するだけでもまた呼吸が出来なくなって。
 光子郎は、がちゃん! 乱暴にパソコンを閉じて、口元を押さえた。
(苦しい……)
 それから思う。
(僕はひとりだ。……ううん、僕だけじゃない、他の人たちも、本当はひとりなんだ…)
 気鬱になったときほど、気鬱になることしか考えてしまうのは何故だろう?
 光子郎は舌打ちをしたくなりながら、どんどん苦しくなっていく喉元を押さえて、眉をきつく寄せる。
 こんなとき、彼の脳裏でリフレインされるのは、決まって、あの日の夜に立ち聞きした両親の会話だ。
 光子郎は本当は知ってるんじゃないかしらと案じる母の声。
 本当の母じゃなかった、母の声。
 そんなことないさと慰める父の声。
 本当の父じゃなかった、父の声。
 ……それ以上聞いてられなくて、光子郎は足音を殺して逃げ出した。
(――…僕はひとりだ)
 それから、こんな風に呼吸が出来ない日や、わけもなく苛々して、不安になる日が増えた。
(……僕は、ひとりだ)
 不安になって、恐ろしくて、ひとりで校舎裏に座って、喉を押さえずにいられるまで待つ。
 家に帰れそうになるまで、ここで待つ。
 うちに帰って、ただいまと言えるようになるまで、ここで自分を抱きしめているしか、光子郎には出来なかった。
 この日もそうだった。
 確かにヒュウヒュウと呼吸を繰り返しているのに、どこかそれはからっぽに感じられて。
 僕はどうしたらいいんだろうと、じっと地面を見つめて、眉をきつく寄せる。
 ……僕はどうしたら、もっと上手に生きていられるのだろうと、手にした棒で意味もなく地面を引っかく。
 がりがりと何度もそこを擦って、がりがりとそこを掘って。……半端に穴を広げて。
 夕陽が、じわじわと、光子郎が寄りかかった校舎の壁の向こうを、照らしていく。
 グラウンドも赤く染めて、遠くの喧騒が一際大きくなる。
 紅白試合でもしているのだろうか? よくわからないまま、光子郎はごろんと無気力に地面に転がった。
 そこへ、ふところころとボールが転がってきた。
 グラウンドの方から転がってきたのだろう。……ころころころ。さしてスピードもなく転がってきたそれは、サッカーボールだった。
「………」
 光子郎はそれを無気力に眺めて、ひゅ、と喉奥から息を吐き出した。
 誰かがボールを蹴り間違えてしまったのだろう。こんなはずれのほうまで蹴飛ばすなんて、とんだノーコンだ。
「……っと、よーしボール発見!」
 …その、「とんだノーコン」がボールを発見したらしい。
 弾んだ声がごく間近からしたかと思ったら、明るい顔をした五年生が――正課のサッカークラブで、光子郎の先輩に当たる太一が、ニコニコしながらボールを拾って。
 ………ごろり、転がっている光子郎に気付いて、ちょっと変な顔をした。
「…光子郎? 何してんだ? お前」
 ……ああ、厄介なひとに見つかったなあと思う。
 けれど、そこで起き上がる気力もないまま、光子郎は適当に「ちょっと疲れたので」と答えておいた。
「…うち、帰ればいいじゃんか」
「………うちまで帰る元気がなかったんです」
「…センセ、呼ぶか?」
「いえ。――結構です」
「ふーん…」
 まだうるさく聞かれたらどうしようとか、本当に先生を呼んでこられたらどうしようとか、色々考えた光子郎だったが、結局太一はそれ以上何も言わず、「そっか」と言って、そこから立ち去った。
 それから、風邪ひかないようにしろよー、と、振り返り際に一言だけ言って。
 彼はたたたっと、また部活に戻る。
 光子郎は、それをぼんやり聞きながら、結構薄情だな太一さん、などと考えて、自分の身勝手さにちょっと笑った。
 笑った拍子に、また酸素が口から出て行く。……いや、口から出るのなら、二酸化炭素だろうか?
 とにかく、光子郎はそのときまた呼吸のコツを取り戻して、ホッと吐息した。
 まだ少し喉が詰まっている気がしたけれど、それは仕方ない。
 光子郎はもぞもぞ身じろいで、傍に置いていたランドセルに顎を乗せるようにしてもたれ、ふうーと息を吐き出した。
 それから、ちょっと吸って、ちょっとだけ吐いた。
(…やっぱり、僕は一人だ)
 そう考えると、また少し、苦しくなったりもしたけれど。
 けれど、もうさっきよりは大丈夫そうだった。
 光子郎はちょっとホッとして、ランドセルに頭を乗せたまま目を閉じた。
 頬を撫でる風は冷たいし、グラウンドに満ちる夕暮れの陽射しは光子郎の元まで届かない。
 それでも、彼はそのまま、本当にうとうとしてしまったらしい。
 ……気付けば、辺りは真っ暗で、光子郎ひとりがランドセルにもたれて寝転んでいた。
 光子郎は吃驚して、そのままランドセルを持って立ち上がった。
 喉はまだ、少し詰まっている気がした。
 呼吸もまだ、うまくできないような気がした。
 けれど、光子郎はそれ以上どうすることもできなくて、ぱたぱたと校門まで走っていく。
 真っ暗……と言ったけれど、まだ時間は五時過ぎくらいだろう。
 冬の日が暮れるのは早い。
 光子郎はそのまま校門をくぐって、ふうとため息をついて、また歩き出そうとして……「よう、」と声をかけられて、立ち止まった。
 そこには、何人かの友人と連れ立った太一が立っていた。
 ちょっと先いってて、とだけ友達に言ってから、彼は迷いのない足取りで光子郎の傍まで近づいてくる。
 そして、彼は呆れたように笑って、光子郎の頬を指差した。
「砂利ついてるぜ」
「…えっ。…本当ですか」
「ホント。……お前、あのまま寝ちゃったんだ? 風邪ひかないようにしろって言ったのに」
「……はあ。つい、うとうとしてしまって」
 それより、何か用ですか、と光子郎は太一を見上げた。
 少し光子郎より背の高い上級生は、ああ、そうだと首を傾げてから、ランドセルを開けて、中をごそごそあさってから。
「光子郎、ハッカ平気?」
 そう聞きながら、光子郎の手の上にばらばらとドロップを落とした。
 三つほど落とされたそれは、全部が全部ハッカばかり。
 光子郎は「平気ですけど…」と眉をしかめるが、太一は言葉だけをとらえて単純に笑うばかり。「そっか、平気ならいいよな!」なんて。
 そんな太一に、光子郎は(別に平気っていうのは、好きってことじゃないと思うんですが…)と思うが、何も言わない。
 そして、ちょっと迷ってから太一に渡された紙包みの一つをあけて、中の飴を口に含んだ。
 口の中に放り込んだハッカの飴は、少しだけスウッとした。
(……あ)
 そして、スウッとした喉奥で、何となく。
 ……何となく、だが、最後のつかえが、ストンと落ちた気がした。
 何てことないのだ。
 ただ、余りモノのハッカ飴をもらっただけなのだ。
 ……光子郎は、相変わらず世界でひとりだ。
 目の前に立つ太一だって、そうだ。
 彼らは、ずっとひとりなのだ。
(……だけど、太一さんは笑ってる)
 そして、笑ってハッカの飴をくれる。
 なんだかそれがとても不思議な気がして、光子郎は口に含んだ飴をがりりと噛んだ。
「……じゃーなー」
 本当に、それだけの用だったのだろう。
 太一はそれだけ渡すと、またぱたぱた走って友人たちのもとまで行ってしまった。
「………」
 へんなひとだ。
 光子郎はその背中を見送りながら呟いて、噛み砕いたハッカ飴をごくん、飲み込んだ。
 一気に食べたせいか、喉奥も口の中も、やけにすうすうした。
 けれど、光子郎はもう一つ紙包みを開けて……それもまた、口の中に放り込んだ。
 そして、また歩き出した。
 多分、三つ目のハッカ飴を噛み砕く頃には、家に着くだろう。
 その頃には、多分、「ただいま」と言えそうな気がした。




























ほんとにただそれだけの話です。
切羽詰ってかいた話なので、読み返したくない気が満々。
ちょっと変な人太一さんと、大分鬱病な光子郎さんでした。


……これって光太?(聞くなよう)