『boy(少年)』
昔、男の子になりたかった。
もっと手が大きければいいと思ったし、足のサイズだってもっと大きくなればいいのにと思った。
足だってもっと速ければいい。
背も、もっと高くなったらいい。
(そう。おにいちゃんより、ずっと大きくなりたかったの)
すぐ風邪をひいてしまう小さな妹よりも、元気で、おにいちゃんと一緒に駆け回ることができる弟になりたかった。
おにいちゃんに守ってもらわければいけない妹よりも、おにいちゃんを守れる弟になりたかった。
それは、少しだけ昔の話。
願えば、もしかしたら叶うかもしれないと、そう信じていた頃の話。
********
「ヒカリちゃん、その本なあに?」
学校図書館の片隅で、熱心に一冊の本に読みふけっていたヒカリは、突然かけられた声に、しかし落ち着いた様子で顔を上げた。
そして、声をかけた相手が最近転校してきた「幼馴染」のタケルだと知って、にこり、笑う。
「カフカの、変身っていう本」
「…変身?」
小学五年生の少女が手にするにはおよそふさわしくない分厚い本に、タケルはきょとんと首を傾げる。
「そう。変身」
ヒカリはタケルが復唱したタイトルを更に復唱してみせて、にこり、愛らしく笑った。
クラスメートの大輔あたりならば、一発で「ヒカリちゃんかわいい!」とめろめろになってしまいそうな笑み。
しかし、そんな笑みを浮かべながらも、ヒカリの態度はどこかうつろに思えた。
きっとここが薄暗いからだめなんだ、とタケルはその理由を分析する。
ヒカリは、明るい少女だ。
まだ知り合ったばかりの頃から、屈託なく、愛らしく笑う少女だった。
ころころと笑うその声に、一緒に冒険していた幼い頃から胸をときめかせていた。
(…だけど、ヒカリちゃんは明るいけど――同時に、すごく危なっかしいところがあるんだ)
それは、特にこんな――薄暗い、図書館の片隅などにいるときなどに際立つ危うさ。
結局彼女は、誰にも心を開いていないのではないかと思わせる、暗い眼差し。
――そう。結局彼女は、太一と、それからテイルモンにしか心を開いていないのではないかと。
そう思わせてしまうような一面が、こういった暗い場所に、薄明るく浮かび上がるのだ。
「…やだ、なあに? タケルくん、凄く深刻な顔しちゃって」
「え?」
しかし、タケルはクスクスと笑うヒカリの声でようやく我に返った。
気がつけば、ヒカリはいつものように屈託なく、可愛らしい少女のままだった。
タケルはそのことに安堵して、ううん何でもないよ、とヒカリに笑い返す。
「そう? そうだったらいいんだけど」
もうお昼休み終わっちゃうよね、と立ち上がりかけたヒカリは、その本を手にしたまま書棚に向かった。
「借りるの?」
「ううん。大体読んだから、もういいの」
まだ昼休みが終わるまではもう少し時間があった。
タケルは図書館を出るヒカリの少し後に立ち、彼女に続いて歩く。
「ね、ヒカリちゃん。変身って、どんな話?」
「…うーん」
振り返らないヒカリに尋ねた言葉。
その言葉に、ヒカリはどうしようかな、というように返事を躊躇ってから、端的に一つだけ回答を返した。
「男の人が芋虫になっちゃう話」
「……は?」
その答えはかなり端的過ぎて、タケルはきょとんとしたようだった。
しかしヒカリが説明を続ける間もなく、すぐに予鈴が鳴ってしまった。
「あ、大変。…早く、教室に帰らなくちゃ」
「え。うん…、」
タケルは困惑したまま、ヒカリの声に頷いた。
「そうだね」
********
「ただいまー」
がちゃり、とドアを開けて帰宅すると、母親が「おかえりー」と声を返した。
足元にいるテイルモンはするり、素早い動きでヒカリの部屋に入っていく。
ヒカリはそれを小さな笑顔とともに見送って、どうしたの最近遅いのねえ、と声をかけてくる母親にうん、と頷いた。
「おにいちゃんは?」
「今日もサッカー部の練習で遅くなるみたいよー。毎日毎日どろだらけで帰ってくるんだから…」
小学校のときと何にも変わらないわ、と、それでも楽しそうに夕飯の支度をする母の姿。
それを見ながら、ヒカリは何気ない声で尋ねてみる。
「…ね。私も男の子だったら、毎日サッカーばかりしてたかな?」
「ええ?」
「私が妹じゃなくて、弟だったらって意味だよ。…やっぱりおにいちゃんの弟だもの。きっと、毎日おにいちゃんと一緒に駆け回ってたかなあ」
「うーん、そうねえ…」
母親は突然の娘の問いに困惑したようだったが、そうかもしれないわねえ、と鍋の中、おたまをまわしながら答えた。
「……」
ヒカリはその答えに、そっかあ、と答えて、部屋にいるね、と母親に背を向けた。
「……? どうしたのかしら。ヒカリ」
その背中を見送りながら、母親は困惑したように呟いたが――きっと、聞いても素直に答えてくれないのだろう、と考えて、苦笑して鍋に向き直った。
あの子が弟になりたいなんて言い出すの、久しぶりね、と考えながら。
男の子になりたかった。
たくさん走っても息が切れたりしないの。
おにいちゃんと一緒に走っても平気なの。
キャンプの前に夏風邪をひいたりしない。
身体の丈夫な弟になって、おにいちゃんと一緒にサッカーするの。
女の子より、男の子がよかった。
学校も早退したりしないの。
おにいちゃんを心配させて、ヒカリ大丈夫かって言わせたりしない。
いつも背中を気にするみたいに、ヒカリって振り返らせたりしない。
おにいちゃんのすぐ後に、くっついて走っていくの。
……ああ。私は今でも男の子になりたいの。
妹じゃないの。
弟になりたいの。
…そんなことばかり考えているうちに、気がつけば転寝してしまっていたようだ。
ヒカリはぱちりと、暗い部屋の中で目を覚ます。
すぐ間近では、テイルモンがすうすうと寝息を立てて眠っていた。
「…ヒカリ。起きたのか」
すうっと掌。
突然額に当てられた掌に、けれどヒカリは安心して身を預ける。
「……おにいちゃん、帰ってたの」
「ああ。母さんに、夕飯だからお前呼んでこいって言われたんだけど」
冷たいぞ、ほっぺ。
心配そうに呟く兄は、きっと呼びにきたところで妹が熟睡していたので、吃驚したのだろう。
「…うなされてたからさ。起こそうかと思ったんだけど」
「うなされてた?」
「ああ。…こわい夢、みたか?」
「……ううん、こわくないよ」
すり、と子猫のように兄の掌に額を擦り寄せ、ヒカリは呟く。こわくないよ。
「おにいちゃん、今日は誰と一緒に帰ってきたの? 部活の人?」
「あ、いや。光子郎が丁度部活終わったとこだっていうから…、一緒に帰ってきたんだ」
さら、と前髪を直すように撫でられて、ヒカリは気持ちよさそうに吐息する。
吐息して。――悔しそうに、眉を寄せる。
「…いいな、光子郎さん。ヒカリも、おにいちゃんと同じ学校に通いたい」
「はあ? …しょうがねえだろ。俺とお前じゃ、三つ学年が違うんだから」
「わかってるもん」
そう呟きながらも、眉間の皺は消えない。
「…いいな。……光子郎さん、いいな。……ヒカリも、男の子ならよかったのに」
「ええ?」
お前、何言ってんの、と額にデコピン一つ。
苦笑して立ち上がった兄を目で追いながら、ヒカリは恨めしげに呟く。
「だっておにいちゃん言ってたじゃない。光子郎さんのこと、自分の弟みたいなもんだって」
「弟分、だろ? 大体あいつの方がしっかりしてて、弟って感じでもねえんだよなあ。最近は」
「…でも、うらやましい。あたし、妹じゃなくて弟になりたかったから」
「はあ?」
太一はそこで呆れたように笑うと、お前らよく似てるよ、と肩をすくめた。
「?」
その言葉に、何で、と兄を見上げる妹に、太一は小さく笑って。
「光子郎も、そう言ってたんだよ。ヒカリさんがうらやましいって。…俺と兄弟になりたかったんだってさ。何だよ、…俺、モテモテだなあ」
早く支度して、出てこいよ。
そう言って出て行く兄の背中を、ヒカリはどこかきょとんとして眺めていた。
そして、いつの間にか目を覚ましていた傍らのテイルモンに「光子郎さんがあたしのこと、うらやましいんだって」と呟く。
テイルモンは呆れたような目で、「そう」とだけ答える。
「ヒカリも光子郎も、太一が大好きなんだね」
「……うん」
だからヒカリも、ふてくされたようにクッションを抱いて頷くしかない。
「あーあ。…あたしも朝起きたら、男の子になってたらいいのにな。芋虫になったみたいに。……突然男の子になったらいいのに」
「…きっと、皆あまり喜ばないと思うけど」
「テイルモンは? いや?」
「それがヒカリなら、関係ない」
「…そう」
ヒカリはその答えに安心したように頷いて、つい先日偶然見かけた帰り道の太一を思い出して……また眉間に皺を寄せた。
きっと、一緒に帰ってきたのだろう。
それじゃあまたなと手を振る太一に、はい、また、と頭を下げる光子郎が、歩いていく太一の背中をじっと――とても切なそうに見つめていたこと。
光子郎が背を向けて、歩き出したタイミングを見計らったように太一が足を止めて、背中を向けて歩いていく光子郎の背中をもどかしげに見ていたこと。
「……。……男の子だったら、光子郎さんのことを殴ってでも、おにいちゃんのことは渡さないって言えるのに」
「………」
唐突に物騒な呟きを漏らしたパートナーに、テイルモンは賢明にも何を言うこともなかった。
女の子でも殴れるんじゃないかとか、そんな状況になったら間に挟まれた太一があまりにも可哀想じゃないかとか。
そんなことは、決して言わなかった。
「ヒカリー、早く来いよー! 夕飯だぞ」
「はーい」
だから、ヒカリがぱたぱたと部屋を出て行くのを見送りながら、テイルモンは諦めたようにしっぽを丸めた。
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昔、男の子になりたかった。
おにいちゃんに心配かけたくないし。
病弱だからって、友達に線引きされるのも嫌だったし。
だけど、とりわけ強く男の子になりたいって思ったのは、おにいちゃんが一人の男の子をうちに呼んだそのときから。
いつものお友達みたいに、元気そうな子じゃない。
むしろ、どちらかというとあまり運動が得意じゃなさそうなタイプ。
ヒカリよりも二個上なんだぞって言って、おにいちゃんが笑った。
はじめましてとそのひとが頭を下げた。
そのときに、ヒカリは今までになく強く、強く思ったのだ。
ああ、あたしも男の子ならよかったのにって。
男の子なら、こんなに悔しい思いをすることなく、僕しか弟はいないんだぞって強く思うことができたのに。
女の子だから。
妹の席は埋まってるけど、弟の席はあいているから、だからヒカリはすごく悔しかった。
ああ、男の子だったらよかったのに!
――そう時々口にするヒカリの原点が、光子郎に対する嫉妬だということを知ってるのは、今のところテイルモンだけだ。
ヒカ→太、光→太、太→光……って感じです。
ウェブでは久々のデジ小説だったので、リハビリ気分も兼ねて一本書いてみました。
変身は昔読んだきりなので、内容はうろ覚えです。まあこの時点で芋虫モンは仲間になってないということにして下さい…。
………。しかし最初はこんな話になるはずじゃなかったのにな……。(悩)