『love(愛)』







 ――そこには、はじめ血だまりしかなかった。


 空が開いた。それがはじめ。始め。原初。
 ひかりが、暗闇を侵した。
 
 ――そのはじめに、そこにはただの血だまりと、それから肉の欠片しかなかった。
 
 もしかしたら、あるいは別のものもあったかもしれない。
 けれど、空を開いたひとりのヒトが、その血だまりに駆け寄る頃には、そこには血だまりすらなくなっていた。
 さながら、それは風化の如く。
 血は消え、肉片もなくなっていた。そこには、黒ずんだ床の汚れだけが残った。
 冷たい床に手を伸ばしても、ヒトは何一つ得ることができなかった。その、ひとりのヒトは、それに絶望して、ただ呻いた。
 咆哮する強さもない。
 彼もまた、傷だらけだった。

 ――そして、血だまりしかなかったそこには、何一つ、いきものの痕跡すら残らなかった。
 ――何かが生きていたという痕跡すら、残らなかった。

 しかし、だからこそ。
 …全くなかったからこそ、そこから、大分離れた空の真下で。
 開かれた、空の真下で。


 ただの血だまりで、肉片でしかなかったそれらは、ゆっくりと再生を始めていた。
 
 
 誰も知ることのない、静かな森の片隅で。
 ……そこで、虫が静かに繭をかたづくるように。
 それらは、じわじわと、再生を始めていた。


 はじけた指。腕。てのひら。
 飛び散った脳。心臓の欠片。血液の一滴から。
 じわじわとより、かたまり、それらは再生を行っていく。
 そこには、何一つ、意志などというものは存在しない。心などというものも、存在しない。
 ただの本能。
 存在しなければならないという、絶対的な本能。
 あるいはプログラムと呼ばれるかもしれないそれが、それらには働いていた。
 何故再生しなければならないのか。
 何故再生する必要があるのか。
 そんな幾つもの何故すらも、それらは知らなかった。
 大樹の根本で、ただそれは黙々と再生と、再生による錯誤とを繰り返した。
 母体が生命を育むには、羊水と養分が不可欠だ。しかし、それらはそんな不可欠のものを何一つ得ることは出来ず。
 ただ、降りる光と、降り注ぐ水とだけで、再生を続けた。
 肉の欠片は、いつしか肉の塊となった。
 飛び散った血液は、しかし地面に吸い込まれることもなく、肉の塊に吸い込まれた。
 意志などない。意志などあれば、狂ってしまいそうな、その過程。
 本能という、プログラム。
 どんな状況下でも、最低の状況下でも、再生を余儀なくされた、その肉体のプログラム。
 足りないものばかりの再生は、昼夜が幾度繰り返されたか分からぬほど、続いた。
 再生してはまた崩れ、けれどまた再生をはじめ。
 出来損ないの儀式のようなそれは、けれど確かに続いていたのだった。




*****




 憎しみと愛は、実に似ている。

 …そんな戯言を口にしたのは、誰だっただろう? 
 その瞬間、彼の脳にぽっかりと浮かんだのは、そんなつまらない疑問だった。
「……」
 がさりと、指先が何かに触れる。
 彼はその感触に眉を寄せ、触れたものを強く握った。…それは、呆気なく千切れた。
 これは、なんだ。
 二つ目の、つまらない疑問。
 彼はそれを抱きながら、千切れたものを自分の顔に近づけた。……鼻に近づけた。
(…そうだ。俺のこれは、顔と言った。鼻と言った)
 ふん、と小さく息をするように、緑色のちっぽけなものの匂いを嗅ぐ。それは、嗅いだことのない、奇妙な匂いがした。

《――草の匂いだ》

 その匂いに反応したのだろうか。
 …彼の脳裏で、何かが声を発した。
 己が体内で、何かがぞろりとうごめくようなおぞましい感触。
 彼は顔をしかめて、むくりと半身を起こす。
「…クサ?」
 手にした、ちっぽけなそれは――そう、植物だ。
 昔、……とても昔、どこかでそんなことを学んだ。…いや違う。これは、俺の記憶じゃ、ない?
 綺麗だね、と緑色のものを、画面を指差して笑った誰か。
 薄汚いだけだと吐き捨てた、誰か。
 ぼやけた記憶が、ぐるりと回る。……吐き気がする。
 いとおしいと、緑色のものや茶色のものを感動して見つめた誰か。
 次第に赤いものに包まれ、消えていく緑色のものに怒りをおぼえた誰か。
 ――お前たちは、一体誰だ?
 三つ目に浮かんだ疑問は、それだ。
 頭の中で先ほど呻いた声は、けれど、もう一言も喋ろうとしない。
「…俺は、」
 彼はよろりと立ち上がり、萎えた足に顔をしかめ、苛立って、間近の茶色い棒を拳で叩いた。
 棒が僅かにたわんで、はらり、緑色のものが頭上から降りてくる。
 …棒じゃない。木だ。
 緑色のものは、葉だ。
 誰かが頭の中で解説しているかのように、ひらひらと言葉が脳裏を踊る。……ああ誰だ。お前は誰だ!
 呪うように葉が降りてきた頭上見上げると、そこには。

 眩しいほどの――鮮烈な、あお。

 それから、恐ろしいほどの白。……光と、あお。
 空だ。
 心が叫ぶ。
 彼の中にいる、彼が知らない幾人もの誰かが叫ぶ。
「……そらだ……! そらだそらだそらだ……地上だッ…!」
 叫んで、そして彼はうずくまった。
 眩しかった。
 とてもではないが、そのまま、見つめていられなかった。
 目から溢れた水が、視界を覆う。水分が、頬を伝う。……確か涙というものだ。つまり、俺は泣いているのだ。
 戻ってきた、と何かが咆哮する。
 やってきた、と誰かが涙する。
「畜生……、チクショウ…ッ!」
 何故こんなにも泣けるのか分からなかった。ひどいことだと思ったし、悔しいことだとも思った。けれど涙が止まらなかった。
 世界の全てが眩しく、またいとおしかった。
 俺はなんだ? なんなんだ?
 どうしてこんなところで一人で泣いている?
 どうしてこんなところで一人で叫んでいる?
 疑問ばかりが渦巻く中、彼はようやく自分の名前を思い出す。
 けれど、それでも疑問は消えない。どうして俺はここにいる? どうして俺はここに一人でいる?
 俺は一体なんだ? どういう存在だった?
 頭の中に何もないような、自分の背後に何もないような、頼りない心地。
 ひどいような、心を無理やり揺さぶる、感動。
 彼はうずくまったまま、チクショウ、ともう一度叫んだ。
 誰もその声に、答えを返しはしなかった。……何となく、誰かが返事を返してくれるような気がしていたのに。
 こんなとき、誰かが必ず「どうしたの」とこちらを見やったような、そんな気がしていたのに。
(俺はボッシュだ)
 彼はぐちゃぐちゃになる頭で、ようやく初めて発見したその事実に縋るように、それだけを考えるように努めた。
 俺はボッシュだ。ボッシュという名前だ。ボッシュという存在だ。……それから? それから、それからそれから?
「……何歳だった…? 何をしていた? なんだった…? 俺はボッシュだ。……それから、なんだったんだ…?」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を擦って、ボッシュは途方に暮れて、空を見た。
 さっきから、何を口にしても、何をわめいても、誰も何も答えてくれない。
 だから、今度もそうだろう。ボッシュはそう諦めじみた心境で結論付けて、チクショウ、ともう一度低く呻いてから、のろのろと動き始めた。
 自分の身体を見下ろしてみると、彼は見覚えのある服を身に纏っていた。
 緑色のジャケット。ズボン。ベルト。……所々ひどく汚れて、破れてはいたものの、けれどそれは見慣れた彼の衣服だった。
 見れば思い出すのだ。
 彼はそう思った。しかし、今はもう何一つ見る気がしなかった。
 周囲は、緑と茶色のものばかりだ。……つまり、木や葉ばかりだ。地面ばかりだ。
 それから、ひどく眩しくて、ひどく明るい空。……いとおしくて憎らしい、空ばかりだ。
 ボッシュは疲れきって、近くの大樹に身をもたれさせた。
 それは、とても安心することだった。
 彼はそこで小さくため息をついて、それから目を閉じることにした。
 回復が必要だ。
 目覚めたばかりの彼は、もっともっと眠らなくてはいけない。
 そう、思ったのだ。
(……誰が?)
 ボッシュには、休息が必要だ。
(……だから、誰がそんなことを思っているんだ?)
 問う声に、しかし返答は帰らない。
 木を木だと言ったもの。葉を葉だと言ったもの。空を見て、かえってきたと泣いたもの。
 ボッシュではない、ボッシュに混じりきらない何かが、……ボッシュの中に存在している。それは、たぶん間違いないのだ。
(――お前は、誰だ?)
 問う声は、沈みこむ意識に溶けていった。

《おまえには、まず回復が必要だ》

 その声に答えが返ってきた頃には、ボッシュの意識は深い闇の底に沈みこんでいた。




*****




 そこは多分、夢の中なのだろう。

 …ボッシュはふわふわと、不安定な闇の中を一人で歩いていた。
 ……そこにはいくつもの冷たいものや痛いものが浮かんでいた。
 冷たいものや痛いものが具体的に何なのかは、よくわからなかった。夢の中らしく、それらはひどく漠然としている。
 ただ、冷たいものだった。
 痛いものだった。
 それらは、ボッシュにも言う。
 おまえもまた冷たいものだと。
 痛いものなのだと。
(…知ったことか)
 ボッシュは低く吐き捨てて、暗い闇の淵を歩いていく。
 沈み込む。深い深い、水溜りのような。
 ピチャンと、どこかで水滴の落ちる音。……深い、とにかく暗い、闇の底。
 …ひとつ、目前に、唐突に扉が現れた。――これはなんだ?
 訝しんでそれを開くと、そこには巨大な化け物。
 ウワアと叫んでのけぞりかけるが、しかし身体が勝手に動いてそれを深く――手にした細い剣で、深く貫いていた。
 狙うなら、喉元だ。柔らかい場所の中でも特に柔らかいそこを、深く深く、喉裏から刃の先がきらめくほどに貫いた。
 口元に歪んだ笑み。
 ――そうだ、俺は力を持っていた。

「よくやった」

 背後から、唐突にかけられた声。
 けれどボッシュは、それを疑問に思うこともできず、振り返る。
 そこに立っているのは、眼帯をした男。……ひどい圧力を感じる、一人の男。
 彼は言う。
 冷たい目で、ボッシュの手にした冷たい剣を見下ろして。
 痛いと嘆くこともできないけだもの――いや、これはディクだ――をも見下ろして、それ以降、何も言わずにかき消える。
 とうさま!
 叫んだ筈の声は、しかし喉に張り付いたように出てこない。
 かき消えたそこには、ただ闇が広がるばかり。
 ボッシュはどうすることもできず、また歩き出した。地面もない場所。なのに、音ばかりは奇妙に反響するのだ。
 ここはどこだ。…夢の中だ。それは間違いない。……だというのに、何故俺はこんなに疑問を? 不安を感じるのだろう?
 探るように、手にした剣を先に向かって振るった。
 一突き、二突き――三突き!
 手ごたえを感じて、ボッシュは立ち止まった。
 闇が、じわじわと晴れていく。………そこに浮かび上がったのは、彼の剣先に貫かれ、……呆然と目を見開く、一人の子ども。
 いや、年かさはボッシュと同じくらいだろう。黒い、青い髪を頭上でまとめた彼は、口の端から血を流し、ボッシュを見つめている。
 ボッシュはそんな彼に向けて、笑うこともせずに呟く。
 ――俺の道をはばむな。
 呟いて、剣を抜こうとする――が、しかし。
 子どもの手が、不意にそれを止める。目が、力を取り戻す。……真紅に染まる。
 ボッシュが叫ぶ。恐怖に駆られて、叫ぶ。
 子どもの手が、顔が、……ヒトではないものにかわるのだ。
 そして、異形のものとなったそれは、ボッシュに向かって牙を向ける。爪を向ける。痛いものを、彼につきたてようとする。
 恐ろしいと、ボッシュはそれから身を引こうとする。
 けれど、それを潔しとしないボッシュは、それをむしろ歓喜をもって受け入れるべきだと笑う。
 弱いヤツだった。
 弱い子どもだった。この子どもは。……名前をまだ思い出せない。けれど、彼は弱く、ボッシュに守られている子どもだった。
 それが、今、ボッシュに牙をむいた。
 生意気にも、ボッシュに剣を向けた。
 殺すべきだ! 歓喜をもって、ボッシュの中の何かが叫ぶ。
 憎むべきだ。憎しみでもって迎えるべきだ!
 別のものは、いいや違うと歌うように笑う。
 愛するべきだと。いとおしむべきだと。いとおしんで――そして、殺すべきだ。
 それはボッシュに向かってくる。真っ直ぐ真っ直ぐ…、まるでボッシュの感情を、そのままうつしとったかのような歓喜と、憎悪と、それから愛情にも似た何かを眸に宿して、そして。




*****



「――リュウ」

 起きたそこも、暗闇だった。
 冷たい露が、ボッシュの腕に降りている。
 しかし彼はそんなことには構わず、リュウ、ともう一度名前を呼ぶ。
 彼はボッシュだ。
 ……そして、ボッシュはただひとつ、リュウを求めていたのだ。
 ボッシュはその事実を反芻するように繰り返して、リュウ、ともう一度呟いて、低く笑い、それから、また少しだけ涙をこぼした。
 理由はわからなかった。
 ただ、彼の中には、今や、「リュウ」への憎悪と、執着と――それから、失いかけた強さと。
 それから。
「…チェトレ。いるな」
 低い声で、名前を呼ぶ。
 ……彼を復活させ、再生させた、プログラム。ドラゴンと呼ばれるそれ。
 それしか、なかった。

《記憶したか。おまえは、憎んでいた。それを、脳内に再生させた》
 
 ドラゴンは淡々と呟き、それから、それ以外のものはない、とだけ断言する。
 は、とボッシュは涙を流したまま笑った。
 上等だ、と笑った。
「俺はボッシュだ。…ボッシュ=1/64だ! そして、リュウを憎んでいた。殺してやりたいと、そのためにお前の力を欲した。バケモノを倒すために、バケモノに成り下がった…! それだけ分かれば、十分だろう。…なあ?」
 頬を伝った水滴。
 それを乱暴に拭い、ボッシュは低く笑う。
「あとは、アイツを殺してから思い出すさ。……思い出さなかったら、それまでだ」

《憎悪がお前の行動理念だった。私はそれしか知らぬ。ゆえに、それしか再生させなかった》

「…あっそ。クク、お笑いだ。憎しみひとつあったから、俺はここまで再生できた。……憎しみひとつしかなかったから、俺はここまでしか再生できなかった!」
 いいや、憎しみひとつだけではない。
 ボッシュは自分で口にした言葉を否定するように、すぐ言って、それから腰にさした剣をすらり抜いて、空に輝く月に向けて構えた。
 月は、半分ほどまで再生していた。……いや、半月だと、そう呼ぶべきなのだろうか?
 俺に似ているな、とボッシュはまた考えた。そして、憎しみ一つだけじゃないさ、と低く呟く。
 この胸に渦巻く感情。
 空に対する、眩しさと憎らしさ。
 リュウといういきものに対する、執着と、憎悪。
 色々なものがないまぜになったこの感情は、多分、愛というものにとても似ているのだ。
 不恰好な形をした、――まるでバケモノじみた、愛。

《殺すのか。憎むのか。憎めるか? それが、変わらぬお前の行動原理か?》

「…今日はよく喋るな。チェトレ。――ああ、そうだ。それが俺だ。…俺は殺す。アイツを殺す。それだけが、俺に残された目的だ」


 歪んだ、いびつな愛情。
 いびつな、憎悪。形を曖昧にまぜこんだ、感情。


 愛情と執着によく似たそれは、憎悪という、ボッシュの根源だ。






























はい、復活してしまいました…!
ボッシュさんです。生まれたてです。
なんていうか、この辺りから大分自分設定に走りそうな感じです。相変わらず見切り発車なのですが…。
とりあえず今週も難航したとだけ……お伝えしておきます……。難しい…難しい…。
そしてチェトレの口調を綺麗に忘れてしまいました。あれ。そんなに喋ってなかったっけ……。







/愛についての説明(蛇足的説明なので、必要という方だけ反転させてくださいませ)/

質問があったので、解説させていただきます。
作中、ボッシュが「愛」と口にしているのに、リュウを殺す、という結論しか見出せなかったのかの理由ですが、それは彼の感情の形に起因しています。
ここでは「愛」はプラス的な、「よいもの」としてではなく、マイナス的な「わるいもの」、執着として描かれているからです。
彼が口にしている「愛」は、相手を慈しみ、心を預けるといった根源的な「愛」とは違うものなのです。
今、彼の中にあるのは「リュウを殺す」ということへの執着であり、「リュウへの執着」とは少しずれたところにあるのです。
そのため、彼は「リュウを殺す」ことに執着し、その執着が、どこか(歪んではいるものの)「愛」というものに似ているといっているのです。

……ということを描きたかったのですが、この説明で伝わりましたでしょうか…?
言葉足らずで申し訳ありません…。