『box up(閉じ込める・取り囲む)』
――もしかしたら愛していたのかもしれないと呟いた、ジェズイットの言葉。
彼が愛していたかもしれない聖女の顔は、もうとっくに曖昧で、うっすらとぼやけかかっているようなのに、何故かその言葉ばかりは強く印象に残っている。
そして、頭の中をぐるぐるとめぐっている。
そう。奇妙なことに。……人の顔はすぐに忘れてしまうくせに。滅多に覚えられないくせに。
――自分が殺してきた人たちの顔すら、曖昧だというのに。
リュウの中には、誰かにぶつけられた言葉こそが、それぞれ一つ一つ強い残像を残しているかのように。
ぐるぐる、ぐるぐると回るのだ。
リュウを中心において、ぐるぐる、ぐるぐると。
********
「りゅう…? りゅ?」
心配そうに、名前を呼ばれた。
その声で、彼はようやく覚醒した。
「……、…」
ゆさゆさと、リュウを揺り動かす細い腕。小さな掌。
その持ち主を探して、緩慢に視線を巡らせれば、ばちり、掌よりも向こうにいて――驚いたように、嬉しそうに、そして気遣わしげにこちらを見ている背の高い女性、――リンと目が合う。
リュウがきょとんとした様子で見上げるのに、彼女は幾度か瞬きを繰り返してから、黙って顎をしゃくった。
その先には、ニーナが、細い腕、掌で、リュウに触れ、大きな目に涙をいっぱいにためてこちらを見ている。
「……、…、あ、ニーナ…? ごめん…」
今にもこぼれそうな涙に驚いて、リュウが反射的に謝ると、ニーナは気遣わしげな表情のまま首を振って、責めるようにリュウの手を強く掴む。
「うー…! ごめん、じゃ、ない…!」
まだたどたどしい少女の話し方。
ニーナは、空に出てから、格段に回復していっていた。
背中の羽根――ペンチレータから出ていた黒い汚れは消え、身体を改造されることによって出ていた弊害である声帯の異常すら、徐々に快方に向かっているらしい。
いいことだ、とリュウは舌足らずながら声を発しているニーナに微笑んだ。
しかし、その場違いな笑顔が、また少女の気に障ったのだろう。
ニーナは「ばか!」と短く叫ぶと、掴んでいたリュウの腕をぱしりと叩いた。
「いてっ!」
「ばか! りゅう、ばか!」
リュウが小さく呻くのも聞かず、ニーナはぱしぱしとリュウの腕を叩き続ける。
助けを求めるようにリンを見るが、彼女もまた険しい表情でそっぽを向くばかり。
一体何がどうなっているのかと、せめて起き上がろうとしたところで、彼はふと、自分が柔らかい布の上に寝ていることに気づいた。この一ヶ月ですっかり慣れた、洞窟の岩床の感触ではない。
リュウがきょとりと上を見上げると、そこもまた、洞窟の岩壁ではない――茶色い、柔らかな色の天井が広がっていた。
彼はそこでようやく、自分たちが小さな小屋のような場所にいることに気づいたのだ。
簡単な作りだが、しかし十分に寝心地のいい柔らかな寝台。室内を見回せば、やはり簡素な作りだったが、小さなテーブルもある。
「えっ、あ、あの……ここは…?」
「……家だよ。今は、統治者たち以外にも、トリニティの連中もここに上がってきててね。メベトの指示のもと、私たちがやってきた最初の穴を中心に、それぞれ小さな家を作ってるのさ。地上に出てきているものが、暫定的に暮らせる場所ってことでね」
ここはその一つってことだよ。
眉間に皺を寄せたままのリンの解説に、リュウは「え?」と目を見張った。
「家って…、そんなの、いつの間に作ってたんだ…? だって、おれたちが出てきた穴の周辺なんて、つい昨日まで何にもなかったじゃないか…」
「…も、きのうじゃない、のよ、りゅう」
しかし、リュウの疑問をニーナが遮った。そして涙の痕も明らかな顔を上げて、リュウを辛そうに睨む。
「りゅう、ねてたの。おきなかったのよ。だから、にーなも、りんも、こわかったの!」
「……え?」
そのたどたどしい――しかし、たどたどしいとはいえ、つい昨日会ったときよりも、ずっと話せる量が増えているニーナの言葉に、リュウはぎょっとして目を見張った。
そんなニーナの頭に優しく手を置いて、リンが呆れたような、けれど大分ホッとしたような顔でニーナの説明を補足する。
「…あんたさ、あの日クピトに会いに行って、戻ってきてから、いきなり眠り込んじまったの覚えてるかい?」
「え? あ、ああ。覚えてるよ」
そうだ。確かにそうだった。
リュウはあの日、クピトに地上の統治の話を持ちかけられ――、ジェズイットに切りかかられて、どちらの対応にも疲れ果てて二人のもとまで帰ってきた後、すぐに休んでしまったのだ。
そして、そのまま夕飯も食べずに眠り込んでしまった。
(…あれ。でも、その割に、あまりおなかがすいてないな…)
リュウはそこでふと疑問を感じ、インナーの上から腹を撫でる。
プログラムであるドラゴンたちとリンクしていたせいだろうか? リュウは並外れた回復力と同時に、人間として当然備わっている筈の食欲が希薄になった。最低限の食糧で、十分動けるようになったのである。
それは過酷な戦いを続けながら『空』を目指していたリュウにとって、有難いことであると同時、恐ろしいことでもあった。
自身がそうして、どんどん「ヒト」から遠ざかっていくような心地がしたのだ。
そんなリュウの思考を打ち切るように、リンが言葉を続けた。
「――つまりさ。あんたはそうして眠ったまま、三週間近くも起きなかったんだよ」
…と。
「――…え?」
リュウはその言葉に、…今度こそ心から困惑して、リンを眺め、…ニーナを見る。
「…そんな、馬鹿な」
思わず乾いた声で呟いた、その台詞に、リンは同じように困惑したような――複雑そうな顔で俯く。
ニーナは、ただ黙ってリュウにしがみついた。その髪の柔らかな感触を確かめるように、リュウはそれを優しくかき混ぜて。
「…それを言いたいのはこっちだよ」
そう、辛そうに眉を寄せて呟いたリンに、言葉を失ったのだ。
********
「…よ。長らくお休みだったみたいだな、ドラゴン殿?」
小屋を出て、真っ先にかけられた声はそれだった。
ごく最近聞いた覚えのあるそれは、リュウの記憶では『昨日』――ただし、リンやニーナが言うには、三週間近く前に戦った、ジェズイットのものだった。
陽気で、どこかけだるげな雰囲気を纏った男は、いつかの殺気など知らぬげにニヤニヤ笑う。
「驚いたぜ…。あの後、えらい剣幕で、あのいい尻してるトリニティがきてな。アンタ、リュウに何したんだってわめくわけさ…。もちろん、こっちとしちゃあ何が起こってるんだかもわからなかったが」
「それは…」
リュウは、ニヤニヤ笑ったままのジェズイットに渋面を作ってから、すまなかった、とぺこり頭を下げた。
ジェズイットは「まあ、いいさ」と肩をすくめる。
「――ところで、お前いくつだ? まさか二十を超えてるってことはないだろう」
「? 16だよ」
そのまま唐突に話題を変えたジェズイットに、リュウは訝しげに答える。
なるほどな…、とジェズイットは彼の答えに苦笑した。
「16かい。…なるほどねえ」
「…? だから、一体何が言いたいんだ? 子どもだって言いたいのか」
「いいや。16は十分大人さ」
ジェズイットはリュウをからかうように笑ったまま、その笑みを、分かりづらい苦笑にかえた。
眉が少しだけ寄って、口元が僅かに歪む。
「ただ、16にしちゃあ随分軽かったなと。そう思っただけさ」
「…、軽かった?」
彼はそこで更に訝しげに眉をひそめたが、ジェズイットはそれ以上何も言わず、スタスタと「じゃあな、ドラゴン君」と去っていく。
その声に、リュウは反射的に「おれはもうドラゴンじゃない」と呟くが、ジェズイットは振り返らない。
代わりに彼は「ああ、この小屋は好きに使っていいぜ」と背を向けたまま手を振った。
「………」
リュウはその声にきょとんとして、ジェズイットには聞こえないような小さな声で「…それは有難いな」と呟いた。
そうして、少しだけ笑った。
彼が、リュウの重さを知ったわけに、やっと思い当たったのだ。
「……。…おれのことを小屋まで運んでくれたってことか」
――つい少し前まで、殺そうとしていた相手を。
気づいたその事実に、リュウは小さく微笑して、そうして苦笑する。
彼は、いいひとだと苦笑する。
(三週間近く、――か)
そうして、小さな小屋を外から眺めながら、リュウは考えた。
地下で暮らしていた頃からは、考えられないような、ひどく粗い作りの居住スペースだ。
だけれど、こじんまりした、木の茶色で作られた小屋は、とても暖かく見えたことも確かだ。
小屋の前には、小さな「花」が植えられていた。
青い花弁を持った、小さな、愛らしい花。
きっと、ニーナが植えたのだろう。もしかしたら、リュウの無事を祈って植えてくれたのかもしれない。
リュウはくすぐったく感じながら、屈んで、花に触れる。
柔らかな感触は、指先に命の触感を教えるようだった。
見上げれば――ひどく空が眩しかった。
(――どうしてだろう)
リュウは空の眩しさに目を細めながら、考える。どこか泣きたいような思いで、口元を歪めて。
…考えて、目を閉じる。
相変わらず、食欲はなかった。(三週間も、ろくにものを食べていないのに)
その割りに、身体にけだるさはなく、目覚めもひどくはっきりしていた。(長い間眠っていたのなら、さぞ気だるいだろうと思うのに)
リュウは、指先に力をこめて、花びらを一枚摘み取る。そして、その花びらを口の中に放り込んでみた。
特に意味はない。この花は、食用ではないと、リュウも知っている。
口の中で花びらは特に味もないまま彷徨い、ごくりと喉奥に飲み込まれた。
小屋の――、いや、ニーナとリンが待っている家の中に入れば、もっとまともな食糧があるだろう。
リュウは、早く食事をとって、休むべきなのだ。そう分かっていても、けれど、リュウの足は重く、動かない。
自由に使っていいという家を与えられた。倒れたその身を運んでもらえた。
ニーナも、リンも、彼が愛しいと思うひとたちも、すぐ傍にいる。
リュウが倒れたことを心配して、涙を流してくれるひとたちがいる。
彼の周りには、こんなにも優しいものがたくさんある。…優しい人がいる。
リュウはそのことに、喉元を押さえて、笑った。
ひどく苦しげに、笑った。
(どうしておれは目覚めてしまったんだろう)
そう思って、笑った。
――三週間も眠っていたというのなら、いっそそのまま目覚めなければよかったのに?
耳元で、そう囁いて曖昧に笑うのは、リュウだ。
かつてリンクしていたドラゴンではない。アジーンではない、ただのリュウの声。
(ニーナが泣くから、まだだめだよ)
リュウはその声に心の中で、そうこたえる。
――そう。ニーナが泣くから。
リンも、泣いてしまうかもしれないから。
まるでお互いが、それぞれ身体の一部のように、寄り添いあってここまで来た三人だから。
(…二人が泣いてしまうから、まだだめだよ)
だから、リュウは心の中の囁きに、そう答えて微笑む。
苦笑して、だめだよ、と扉に触れた。
その扉は地下のもののように、近づいただけで開くものではない。ノブを回して、手で押して開かなければならないそれだった。
リュウはその重みを心地よく感じながら、扉を開ける。
そして、中から心配げに顔を出したニーナに、「りゅ、だいじょぶ?」と首を傾げられ、ああ、と笑うのだ。
何か食べた方がいいよ、とリンが気遣わしげに問いかけるのに、そうだね、と答えるのだ。
心の中で響く、柔らかい「リュウ」の声。
それは次第に、冷たい、鋭い誰かの声に変わっていく。
その声が、繰り返しリュウに囁く。囁いて、笑う。――嗤う。
(いっそ、死んじまえよ。…生きてる理由もないんだろ? そこにいるのが辛いんだろ?)
それは、全く彼にそっくりな声音だった。
それはリュウの中にじわじわ響いて、広がっていく。
16だと答えた、リュウと同じ年齢だった彼。
冷たくて、子どもっぽかった、リュウが殺した彼。
その彼の声が、ぽつんと落ちた染みのように、ジワジワと広がって。
(まだだめだよ。……まだ、だめなんだ)
…自分が壊れていく音が、聞こえるようだ。
そう思いながら、リュウは、けれど自分の考えていることなんてちらとも見せず、ニーナとリンに向けていつものように笑う。
ぎしぎしと、軋む音を立てて、身体の、精神の違和を訴える自分に見ないフリをしたまま、なんでもないように振舞う。
優しいひと。優しいもの。暖かいものに取り囲まれながら、笑う。
心の奥底だけが、冷たい壁に閉じ込められたままで、頷く。
いつものように笑って、そうして呟く。…誰にも聞かれないよう、心の中で、一人ぽつりと。
(もう少しだ。……もう少ししたら)
偶然とはいえ、二人にはこれで居場所ができた。
食糧も足りているようだ。…統治者たちも、二人に気を配ってくれているようだから。
もう少し。もう少しだけ、ここにいて。
――それから。
(二人が、もう大丈夫だって。そう分かったら、おれはいなくなってしまおう)
勝手な自分に吐き気を覚えながらも、それでも、そうするしかないとリュウは思う。
冷たい言葉。
鋭い、誰かの声が、嗤うから。
柔らかい、誰かの声が詰るから。
どうして彼を殺してしまったのと詰るから。
消えない罪から逃げたいからではない。むしろ、逆だ。
――この暖かい場所にいることが、耐えられないのだ。
…許してくれなんて、そんなことは口が裂けてもいえないだろう。
「ニーナ、入り口にあった花、ニーナが植えてくれたのかい」
「んー! きれいだった、から」
「ふふ。通りに一つだけ咲いてたのを見つけて、ニーナが植え替えてきたんだよ。…あんたに似てるってさ」
「ん! りん、いっちゃだめ!」
「へえ…、そうかな? でも嬉しいよ。ニーナ、ありがとう」
「…んん。りゅ、がおきたから、いい」
それでも、リュウは彼らといられない。
……いつか、罪が優しく磨耗されて、消えてしまいそうな。
そう、錯覚してしまいそうなここにはいられないのだ。
(どこか、…遠くへ行こう。一人でいこう。……二人と一緒ではなく。おれは、一人でいこう)
もう、随分前から決めていたのだ。
暖かいものたちが、リュウの前で微笑む。
優しく包み込んで、一緒にいようと頷いてくれる。
だけれど、それ以上に。
胸のうち、暗いところで取り囲まれたリュウの心は。
――冷たいものに、閉じ込められたリュウの心には、とっくに決めてしまっていた。
久々の更新で、前の展開がよく分からなくなってます。
私の悪い癖なのですが、こう…間が空くと、前の展開を忘れた挙句、新しい展開が出てきてしまったりするんです。
おかげで、何だかボッシュは忘れられ、違う展開に、なりそうな。
とりあえず、次の話で大体折り返し地点? になりそうなので、気合入れて今後も書いていきたく思います。
………一体いつ終わることやら……。