【まるで世界に二人きり】




 冷たい雪の感触も分からないオレの弟は、今日もがしゃがしゃと無機物の音を立てて歩いています。
 それを悲しいと思っても、口に出すことは許されません。
 本当に悲しいのは弟です。
 本当に悲しいのは、既にその悲しさにも虚しさにも慣れてしまったオレの弟なのです。
 だから、オレは何も言いません。
 もう少しだからがんばろうな、とけして疲れることのない弟に声をかけて、うん、兄さんもねと返す声変わりもしない幼い声に微笑み返します。

 
 かみさまはいません。

 
 オレは、オレたちは、それをとうの昔から知っていました。
 だから神に祈るひとたちを馬鹿にし、哀れと思っています。
 けれども、もしかしたらどこかで羨ましいと思っているのでしょう。
 なぜなら、彼らは祈ることで心の安寧を得ることができるからです。
 オレたちもそのようにして、祈ることによって全ての痛みを忘れることができたら、どんなにか楽なことでしょう。
 途方も無い遠大なのぞみを胸に抱き、希望だけを頼りに西へ東へ北へ南へ弟を連れまわすことの愚かしさは、誰よりもオレが知っているのです。
 いっそ、神様に縋ることで楽になれるならと、そう思ったことがないとは言いません。
 けれども、泣くこともできない、眠ることもできないのは、オレではないのです。
 いつ消滅するかもわからない、存在すら不確かなのはオレではないのです。
 そして、弟の体をそんな状態にしたのは、全てこのオレの罪なのです。
 そんな罪びとのオレが、どうして今更神に縋れることでしょう。
 ぬけぬけと、祈りによって罪を拭うことができることでしょう。
 けれど、オレがそう言うと、やさしくてつよい弟はとても怒ります。
 オレがオレの罪を口にすることを嫌がります。
 オレだけの罪とすることを嫌がります。
 兄さんそれは違うよ。それは兄さんだけの罪じゃない、ボクらの罪なんだと。
 あなただけが罪びとじゃない。ボクもまた、罪びとだ。
 ああ、いとしい弟よ。
 彼がそのように怒るたび、オレのこころは如何様にも表現しがたいさまで震えるのです。
 嬉しくて、悲しくて、いとおしくて、にくらしい。
 ひどく切ないさまに、揺れ動くのです。
 オレは、傲慢な、科学者という生き物でしたので、そのような不可解な心の動きが、正直あまり好きではありません。
 オレに知覚できぬこと、不可思議なこと、うまく説明できぬことが苛々して仕方ないのです。
 だから、オレはあまり弟にそのようなことを言わせぬようにしています。
 つまり、オレは、オレの罪について、あまり自嘲せぬようにしています。



********



 ざくざくと雪を踏みしめ、かきわけつつ進むと、ようやく目的の宿屋が見えてきました。
 小さな街です。
 普通宿屋といえば、市街地の中心にあるものですが、ここは街の入り口に、オレたちからすると街のはしっこにあったため、随分歩くことになってしまいました。

 兄さん、やっと着いたね。

 弟がホッとしたような声で言いました。
 オレもがちがちに強張った口を動かして、ああ、やっとだなと答えました。
 宿は小さいものでしたが、壁も厚く、何よりも暖房がしっかりしていました。
 部屋には小さいながらも暖炉があったので、オレは安堵して上着を脱ぎ、肩やフードに積もっていた雪をばさばさと払います。
 赤いコートを椅子にかけて火をくべた暖炉の前に置けば、たちまち雪は雫に変わり、ぽたぽたと床に落ちました。
 雪が水に変わるさまをついじつと眺め、そこにすらも等価交換の原則を見出してしまう。
 これはもう錬金術師のばかばかしくも愚かしい性としか言い様がありません。
 ぽたりと木目に吸い込まれて色を変える雫を見つめるオレに、弟はどう思ったのでしょう。
 もしかしたら、幼い子どものころのように微笑んでいたかもしれません。
 兄さんの頭の中は、全く錬金術でいっぱいだねと。
 オレがそのことを口にする前から、すぐにオレの考えを悟ってしまう、あの全てを見透かしたような生意気な目で。
 そのくせ、ひどく優しい笑顔で。

 …アル、おまえも身体拭けよ。

 ふと思い出したそんな記憶が、眩しいようで、いとおしいようで、オレはそれをごまかすように、弟へ布を放りました。
 うん、と弟は素直に頷き、鎧の身体を拭い始めます。
 よく身体を拭うのよ、そうじゃないと風邪をひいてしまうから、と優しく微笑んだ母さんを、そのときふと思い出しました。
 それを思い出したからというわけではありませんが、オレはなんとなく弟の手から布を奪い、困ったように、にいさん? と名を呼ぶ弟の身体を拭い始めました。
 冷たい鎧の身体。
 無機質のそれは、冷ややかな雪を受けて、全く冷え切っていました。

 にいさん、どうしたの。今日はなんだかやさしいねえ。

 弟には身体を拭かれているという感触もないでしょう。
 ですが、オレが黙々と身体を拭く様子に何かを感じてか、わざとのように明るい声でそう言い、くすくす笑い声をもらしました。

 ばあか。オレはいつだって優しいんだよ。

 弟がそんな具合に振舞ってくれるので、オレもわざと明るい調子で返しました。
 そして、切ない想いでつぶやきました。
 よく身体拭かないと、風邪ひいちゃうだろうと。
 まるでなんでもないことのように、冗談の延長のように、つぶやきました。
 弟はその言葉に、口をつぐみました。
 ふっと降りた沈黙は、オレたちの間に水のようにじわじわと流れ、部屋中を覆ってしまいました。
 残るのは、弟の身体を拭く布と、鎧のこすれる音。それから、火の弾ける音ばかりです。
 弟は、やがて何でもないことのようにまた言葉を返しました。

 うん、そうだね。兄さん、優しいもんね。

 そう。本当に何でもないことのように言って、布で弟の身体を拭きつづけるオレの手を握り締めました。

 …アル、これじゃあおまえの身体が拭けないだろう。

 オレが戸惑って呟けば、アルはがしゃんと鎧の首を振りました。

 にいさん。

 そして、その幼いままの声でオレを呼びました。
 オレはその声に泣きたいようなまぶしさと、いとおしさを感じながら、ある、と弟の名前を呼びました。
 鎧の奥、がらんどうのまなざしは、赤くひかってオレを見つめています。
 そうして、弟はやさしい、泣きたくなるようなやさしい声で言うのです。

 
「ありがとう、兄さん」

 
 そうして、ボク、兄さん大好き、とどこか幼い口調で言ってから、照れたように黙りました。
 オレはその幼い声に笑って。
 とても、とても泣きたいような、叫びたいような思いで笑って。
 ばかだな、そんなこととっくに知ってるよと、オレの左手を握る冷たい鎧の手を、機械鎧の右手で包みました。
 まるで子どものころ、手が冷たいという弟の手をそうしてあたためてやったときのようにそうして、そうされて、オレたちは暫く動かないでいました。
 窓の外では相変わらず、冷たい吹雪がやみません。
 弟の身体も、オレの右手と左足も、相変わらず冷たい無機質のままです。



 オレは、オレたちは相変わらず罪びとのまま、まるで世界中で、二人きりのように、そうして両手を握り締めあっていました。
 
 














おおむねそれだけの話です。
無宗教の殉教者っぽい兄さんを書いてみたかっただけです。(意味わかんない)