【しあわせの形容詞】




「――あんま騒がしいところじゃない方がいいよな。そう、田舎! 田舎がいい。リゼンブールみたいな、そんなとこがいいよなあ。列車が一日に何本も来ないような、そんなところ!」

 ひらひらと、白い素足と機械鎧を交互に揺らめかせながら、兄が弾んだ声で語る。
 ばたんばたん。
 ベッドの上で、バタ足しているような、幼い仕草。……機械鎧の足でそんなことしたら、スプリングが傷むんじゃないかなあと思ったけれど、ボクは黙っていた。
だって、どうせ言ったって聞きやしないんだもの。このひと。
 ボクは兄の言葉に、ぼんやりとリゼンブールの駅を思い出していた。
 ボクらの故郷、リゼンブールは、まさしく田舎の名に相応しい場所で、一日に数回しか列車が来ない。しかも、リゼンブールから何回も列車を乗り継がなければ、大きな都市には行くことができない。
 そんなことを思い出しながら、ボクは明日この宿を発つための準備を進めている。
 兄の身体の半分はありそうな大きなトランクは、いつも兄がボクに持たせようとしない、ボクらの旅支度が詰め込まれたものだ。
 中身は兄の着替えだとか、ボクの身体に使うオイルだとか、機械鎧の整備用の道具だとか。
 そんなものが入っているせいもあって、このトランクはきっとかなり重いはずだ。(ボクは、重いとか軽いとか、そんな感覚を忘れてしまって久しいので、正直よく分からないのだけど)
 けれど、兄は普段、決してそれをボクに持たせようとしない。
 兄ちゃんつーのは、弟に重いもんを持たせねえもんなんだなんてよく分からない理屈を口にして、兄はいつもそれを持って歩く。
 そのくせ、いつも兄はベッドでないところで寝こけては(しかもおなかを出した状態で)ボクに運ばれるのが常だ。
 ねえ、兄さん。あなたはボクに重いものを持たせたりしないんじゃなかったの? ……いくらトランクが重いといっても、きっと兄さん一人分よりは軽いのではないかと思うボクだ。
 その兄は、前述したように、今は……そう、今日は珍しくちゃんとベッドにいて、珍しく、もうシャワーも浴びた後だ。これもまた珍しく、今日は分厚い文献を何冊も握り締めて、いいかげんに寝なよと忠告するボクに生返事を返しているわけでもない。
 むしろ、生返事を返しているのはボクのほうだ。
 ベッドで足をばたつかせ、何やら機嫌よく語っている兄の話。それを半分以上聞き流しながら、ボクは考える。――一体何の話をしてたんだっけ?
 ボクはあらかた荷物をつめ終わったトランクをぱちんと閉めて、聞いてんのかアル、という兄に、聞いてるよと答えた。
ホントはあまり聞いてなかったけど、そんなことを言うと、折角機嫌よく寝ようとしてくれてる兄の機嫌を損ねることは明白だ。
 ボクは話題を変えようと、未だにきちんとした寝巻きも着ないで、上半身は殆ど裸(タオルを首からかけているけど)下半身はパンツ一丁という兄を見て、溜め息をついてみせる。

「兄さん、どーでもいいけど、いいかげん寝巻きくらい着たらどう? ここは南部のあったかい地方とは違うんだから、お風呂上りにいつまでもそんな格好してたら、絶対風邪ひくよ」

「わーかってるよ」

 兄はボクの言葉に少し不機嫌な目をしたが、すぐに気を取り直したみたいで、どこまで話したかなあと呟く。……話題のすり替えには失敗したらしい。
 ボクはそんなことを思いつつ、続く兄の言葉を待つ。……待ってるうちに、ボクはようやく思い出した。

「近所とは距離があったほうがいいよなあ。なんたって人体練成だ。迂闊なことしてバレねえように、ぽつーんと広い野原に、どでかい家建ててさあ」

「……二人しか住まないのにどでかいの? 掃除の手間とか考えなよ。ほんと兄さんって大きいもの好きだよね」

「悪いか!」

「兄さんが掃除してくれるんなら、別にボクは文句言わないけど」

 至極まっとうなボクの意見に、兄さんは可愛くないと眉を寄せる。

「何だよ。……つーか、もしかしたら、二人じゃなくなるかもしんないだろ」

 かわいくないと言った口で、兄は少し言いにくそうな口調でもごもご呟いている。
 え? 二人じゃなくなる?
 ボクは、兄が言っている意味を理解できずに首を傾げ、思いついた可能性をそのまま口にする。

「ウィンリィ?」

「ばっ……、何でウィンリィだよ! お前、散々彼女ほしいーって言ってたじゃねえか!」

 兄は顔を真っ赤にして否定し、そのままぼふんと枕に顔を埋め、「彼女っていったらさあ……、ことによると、ゆくゆくは結婚、とか、さあ……」とか何とか呟いている。
 ……ええと、その場合ボクはその仮定上の奥さんと新居に越すとかじゃなくて、そのまま兄さんと同居になるんですか?
 ボクは色々突っ込みたいことがあったけど、兄さんがベッドの上でばたつかせている足の動きが一層ひどくなったことの方が気になって、言うのをやめた。

「行儀が悪いよ。スプリングが傷むでしょ」

 がしゃん。
 鎧の手で足を押さえる。
 ……そう。何がきっかけでかは忘れてしまったけど、ボクたちは、「もし身体が元に戻ったらどうするか」なんていう夢みたいな話をしていたのだった。
 それは、もしも、で、いつか、な幸せな未来の話だ。
 未だ来ないと記す、見えない明日の話だ。
 兄の語る幸せな未来の構図は、けれど、どこかまだぎこちない。
 ……きっと、兄にとっての幸せのかたちが、全て幼い頃を過ごしたリゼンブールの風景に直結しているからだろう。
 母さんと、ボクと、兄の三人で暮らしていた、あの幸せな家から離れられないでいるからだろう。
 自ら焼いてしまった、あの懐かしい家。――思えば、ボクらが知っている幸せだとか、安らぎだとかは、あの場所しか、ない。
 ばっちゃんやウィンリィの家も、大好きだけど。……とてもとても怖いけど、師匠の家だって、居心地のいい暖かな場所だったけど。
 そうじゃない。ボクたちの家だと、ボクたちがいていい場所だと心から安らげるところは、あの家しか知らないんだ。
 それをもう一度手にしたい、あの幸せをもう一度なぞりたいと願っているような兄の言葉は、だから、どこか胸に痛い。
 兄の幼い幸福概念。母さんがいてボクがいて兄さんがいて。……家族がいる、穏やかな暮らし。
 兄は、きっとそれしか幸福のかたちを知らないんだ。

「なあ、アル。お前は? やっぱり猫とか飼いたいか? ……ちゃんと家があって、責任もって飼えるんなら、オレは怒らねーよ」

「うん。……そうだね、猫、飼いたいなあ」

 ボクはどこか上の空で返事しながら、用意した寝巻きを兄に渡した。

「もう寝なよ。明日も早いんだから」

「……ああ。――そうだな」

 ボクに渡された寝巻きに、……言葉に、兄は急に我に返ったような顔つきで、そう呟くと、もそもそ寝巻きに着替える。
 未だ来ぬ明日の話。……しあわせな未来の話。

「アル。――絶対、元に戻ろうな」

 ぽつり、呟いて、おやすみと目を閉じる兄の瞼。
 白い、瞼を見つめながら、ボクは思う。
 あどけない幸せを夢見る兄。
 そして、それをボクにあげたくてしょうがない兄。

「……いらないよ、兄さん」

 だから、ボクは夜に浸され始めた部屋の中、寝息を立てる兄に気づかれないよう、静かに囁く。
 静かに、静かに。けれど確かに。そっと、囁くのだ。

「いらないよ、兄さん。――ボクはもう、兄さんがいればそれでいいんだから」

 ――がらんとした空洞に響く、ボクの声。
 兄が聞いたら、嘆くだろうボクの言葉。……けれど、そうなってしまったのだから仕方ない。
 もう、仕方ないんだ。
 おやすみ兄さん、よい夢を。


 幸せな遠い未来なんていらない。
 ボクは目の前の兄さんだけで、もう十分なんだから。
















ありがち。
なんか、この兄弟って、ときどき兄のほうが夢見ている気がします。弟はリアリスト。
いや、逆転することもありますが。(どっちだ)

アルエドというか、アル→エドです。二人だけで世界が完結する勢い。