【 つきのひかりにもにて 】
――眠る兄さんの手に触れる。
感触なんて、分からない。分かるはずもない、冷たいボクの篭手で、兄さんの手に触れる。
人の手で考えたら、甲、のあたり。そっと、触っている。それはいつも、兄さんが寝静まって、街も寝静まって、ひどく静かになった夜更けのこと。
それは、たぶんボクの癖みたいなものなんだろう。
思えば、子どものときからそうだった。
今では遠く、感触だとか、感覚だとか、忘れそうになってしまったくらいに遠く。
だけどまだ思い出すとかなしくて、空っぽの鎧の奥が痛み出すくらいには近い。
兄さんとふたり、二段ベッドで眠っていた頃。
トイレに行きたくておきだした夜。ベッドからぬいぐるみをけりだしてしまい、その感触で目覚めてしまった夜。
もしくは、兄さんの歯軋りがうるさくて、がばっとシーツをはねのけてしまった夜だとか。
そんな夜、ボクは何故だか、兄さんの頬に、あるいは布団から飛び出してしまった手だとかに触れると、ひどく安心するのだ。
くかくかと暢気に眠っていた子どもの頃の兄さん。昔から健康的で、布団に入ったらすぐさま眠りにつけてしまう兄さんは、そんなときいつもすやすや寝息を立てていたものだった。
最近も、その寝付きのよさはかわらない。だけれど、時々怖い夢を見るらしい。押し殺した声で、夢の中、兄さんはもがいている。
夢の中までは助けに行けないから、ボクはそんなとき、できるだけ何気ないきっかけを作って起こしてやる。
散歩から戻ってきたフリをして、がちゃんと大きな音を立てて扉を開けてみたり。うっかり、本を床に落としてみたり。
うなされている兄さんに気づいていないフリをする。……兄さんは大雑把なくせに、変なところでひどくナイーブで、ひどく優しいから。
ボクが兄さんの悪夢に気がついて、それを哀しく思っていると知ったら、きっとボク以上に悲しんで、悔しがって、悪夢すら、押し殺そうとするだろう。
どうしてそんなに無理をするのか。どうしてボクにそれを隠そうとするのか。
理由なんて、ないんだろう。きっと。兄さんは兄さんだから、無理をしてまで、弟のボクに全てを隠そうとする。
辛いこと、苦しいこと、兄さんにとって、とても哀しいこと。
雑多な苦しみや、兄さんが憎んでやまない牛乳だとか、そういう弱みならボクに平気で見せるくせに、このひとは肝心なところでいつもそうなんだ。
(でも、きっとそれも兄さんの癖なんだろうな)
ボクがこうして、夜中兄さんに触れるのと同じ。
兄さんのくせ。ボクがこうして触れるのをやめられないように、癖だから、きっとだめなんだ。兄さんは。
そんなことをつらつら考えながら、ボクはそっとさわる。兄さんの頬に触れる。
癖だから。意味なんてない。
(ボクら錬金術師は、全てのことに意味を見出さずにはいられない、傲慢ないきものだけれど)
時にはこんな、意味のないことがあってもいいだろう。他愛無い、ボクの癖も。……直しようのない、兄さんの悲しい癖も。
冷たいボクの手に触れられている、兄さんの掌。生身の左手のほうだから、きっと冷たい感触が伝わっていることだろう。
寝穢い兄さんだけど、いくらなんでもこんな冷たい手に触られてて、いつもいつも目を覚まさないなんてこと、ほんとにあるんだろうか?
ボクは時々考える。
兄さんはもしかして、気づいていて、寝ているフリをしているんじゃないかしら?
相変わらず激しい兄さんの寝相。おなか出して寝てるから、しょうがないなってあいた手で布団を直してあげる。
にいさん。
そして心の中で小さく呼んでみた。
口に出して言ったら、普通に「なんだ」って返されそうだから、こっそり心の中で。
にいさん。にいさん。にいさん。
小さく、心の中ですら小さく、兄さんを呼ぶ。にいさんにいさん。兄さんというその響きが、心の中に降り積もって、ゆるやかにつもる雪みたいにボクの心をしんしん、落ち着かせていく。
その間にも、夜は静かに、淡々と更けていく。
長い夜。短い夜。――もう、幾度過ごしたか分からない夜。ボクはずっと起きている。昼も夜も、ずっと起きている。
そういう意味では、ボクにとって、あまり昼と夜の区別は関係ないのかもしれない。昼は兄さんが起きている。夜は兄さんが眠っている。そのくらいだ。
かしゃん。
小さく鎧の頭を傾げたせいか、音が鳴ってしまった。けれど、相変わらず兄さんはすうすうと寝息を立てている。
そう。夜は兄さんが眠る時間。……時々起きていることもあるけれど。
そして、昼は兄さんが起きている時間。きらきらとした金髪を太陽の下で輝かせ、俯くことないつよい眼差しで辺りを睥睨して、歩く時間。
ボクの冷たい手は、夜の兄さんを起こすことはない。
昼の兄さんは、時々ボクの手を握る。
でけー手。でけー指。
そう言って、ちょっと難しい顔をして笑う。
にいさん。
また、心の中で呼んでみる。兄さんは返事をしない。安心する。心の中で呼ぶ。にいさん。にいさんにいさん。
……このひとの手を握って、どれだけ時間が経ったのだろう?
いつもなら、そろそろ手を離して、夜の散歩に向かう時間だ。なのに、今夜のボクはなかなかこの手を離さない。しまった。癖だというのに、いろいろくだらないことを考えてしまったせいだろうか?
にいさん。にいさん。
心の中でよびつづける。名前がつもる。しんしんつもる。
――そのとき、ふわり、窓からひかりがさしこんだ。
薄く開いたカーテンから、さしこんだのは月の光。あれ。今日は満月だったかな。……だって、ひかりがあんなにあかるい。
うすくさしこむひかりが、床の木目をてらしだす。昼間の太陽とは違う、優しい、柔らかいひかり。
ボクはうっとりとそれを見つめる。ひかりはするする、音もなくボクと兄さんをも照らす。
優しいひかり。やわらかい、月の織物。
『月にはね、それは美しい女神様が住んでいるのだそうよ』
ボクと兄さんを膝に抱えて、優しく話してくれた母さんの言葉をふと思い出した。
『女神様は夜になると、美しい織物をたくさん織るの。そして、それを街に、村に、海に、森に、砂漠に降ろして、人々の心を慰めてくださるの』
美しい白い指。母さんこそが女神様のようだと思いながら、その指の先を見つめると、窓から美しい月のひかりが、ひとすじ。
『今夜も、女神様は織物を織っているのね』
優しい母さんの声。兄さんもボクも、それを夢中で聞いていた。
月には女神様が住んでる。そして、うつくしい織物をつくっているのだ。
けしてふれることのできない、うつくしい月のひかりを織っているのだ。
ボクは、触れたままだった兄さんの手をそっと握り、額に当ててみた。……触れられないつきのひかり。
やわらかなひかりに照らされながら、ボクは兄さんの手の感触を思い出すように、額にあてる。
考えてみれば、ボクにとっては、今や兄さんの掌も、月の光も、同じようなものなのかもしれない。だって、どちらもボクには触れられない。
触ることができない、遠いものだから。
そう考えると、なんだか可笑しかった。ぎりぎりと歯軋りたてて眠る兄さんと、こんな綺麗な月の光を同列に並べてしまったことが、なんだかひどく可笑しい。
……だけど、同じなんだ。
くすくす笑いながら、ボクは小さく囁いた。
「にいさん」
心の中に降り積もった、にいさんのかけら。それがぽろりと零れ落ちてきたような響き。
「……なんだ」
兄さんは案の定、そう返事して目を開けた。
闇の中、きらり輝くふたつのきんいろ。
触れられない月のひかり。触れられない兄さんのてのひら。
どちらも同じ。……触りたいけれど触れない、遠い存在ということは同じなんだ。
ボクは、兄さんに「ごめんね起こしちゃった」と囁いて、かしゃん、さっきとは違う方向に首を傾げた。
「……いま何時だ」
兄さんは、まだ少しねぼけているみたい。ぱち、ぱちと瞬きして、困ったような顔をしている。
ボクが掌を握ったまま、離さないせいかもしれない。兄さんは困りながら、怒ったような顔もしている。
「まだ夜中。……寝てていいよ? ごめんねにいさん」
ボクの言葉に、あやまんなよと呟いて、兄さんはボクをじっとみる。
……そういえば、前にもこんなことがあったな。
あれはまだ、ボクも兄さんも五体満足で、師匠に弟子入りする前だった気がする。やっぱりこんな風に、兄さんの手に触ってたら、不意に兄さんが目を覚まして。
眠れないのか、アルフォンスって、ぶっきらぼうに聞いたんだ。
「……」
兄さんの口が、ぱかっと開いた。そして、閉じた。
……もしかしたら、あのときと同じことを言おうとしたのかもしれない。――眠れないのかアルフォンスって。
そして、やめたのかもしれない。だって、兄さんはとても悲しそうな顔をしている。悔しそうな顔をしている。困ったような顔をしている。
「なんでもねえなら起こすなよな。……明日も早いんだ。寝るぞ」
結局、兄さんはそう言って、また目を閉じた。
ボクに手を握られたままのことは何にも言わないで、目を閉じた。
だからボクは小首を傾げたまま、寝にくくないの、と尋ねたら、兄さんは呆れたように目を閉じたまま。
「むちゃくちゃ寝づらい」
そう答えた。
……だったら、ボクに手を離せって言えばいいのに。言わなきゃ離さないよ、ボク。
心の中でそう呟いたのが聞こえたのかもしれない。兄さんはまたぱちっと目を開けて、口をあけた。
「寝づらいから、お前もっと近くにこい」
そう、なんでもないことみたいに言って、にやっと笑った。
「……ボク、重いからベッドに入れないよ」
今だって、ベッドぎりぎりに座ってる状態なのに、とボクが呟けば、兄さんは「じゃあこうするか」とボクと手をつないだまま起き上がって、毛布にくるまったまま、ボクの膝に腰掛けた。
がしゃん。がしゃん。
音を立てながら、兄さんは座ったボクの足の間に、……こんなこと言ったら絶対怒るだろうから言わないけど……、まるで小動物が巣を作るみたいにして、寝床を作った。
「んじゃ、おやすみ」
そして、目を閉じた。何事もなかったみたいに、また寝息を立て始める。
ボクはそれをどこか呆然と見て、ちょっとだけ、笑ってしまった。
……そういえば、昔、目を覚ました兄さんも、眠れないのかと言ってから、しょーがねえなこっちこい、とボクを手招きしたのだった。
その夜は、兄さんベッド狭いよ、我慢しろよアルとか、そんなことをごちゃごちゃ言いながら、いつの間にか眠ってしまったっけ。
そうして、今兄さんは、ボクの身体にもたれるみたいにして、すうすう寝息を立てている。
月の光が、柔らかく兄さんを照らす。ボクの体を照らす。
さらさらとこぼれるみたいな月の織物は、やがて月が雲に隠れるか何かしたせいだろう、ふっと消えてしまった。
きらきら。けれど、闇の中でうっすら輝く兄さんの髪の毛は、まだそこで僅かに光っていて。
ボクは、その髪にそっと触れて、梳くみたいに、さらさら、手の中でこぼした。
触れたままの掌も、そっと手の甲を撫でてみた。
まるでそれは、子どもの頃、触れないと分かっていて、月の光に手を伸ばした。あの行為に似ている、気がして。
ボクは、今度こそ苦笑した。
兄さんは、つきのひかりみたいだ。
そう言ったら、きっと兄さんはとびきり顔をゆがめて、お前アタマだいじょーぶかと尋ねてくるだろう。
だから、早く元に戻って、兄さんに触れたいと、そう思った。
手書きで書いてた時点では、もう少し違う内容だったのが、なんだかどんどんかわってってしまいました。
何年もずっと眠れないっていう設定は、いつも思うんですがすごく重いです。
アルも辛いけど、兄さんもすごいしんどいと思います。
弟をそんな目にあわせてしまったということが、すごく重いんじゃないかと。