――『月華生誕』――
――――月の綺麗な夜だった。
「―――君に、この景色を見せたかったのだよ」
彼は、いつものように、どこかとらえどころのないような穏やかさをたたえた口調で、目の前に広がる光景に目を見張っている少女の髪の毛にそっと手を伸ばした。……が、その掌が髪の毛に触れる直前で、彼は何か痛いような表情を――少女には見えないように覗かせ、ふ、と淡く苦笑してから掌を下ろす。
――――少女の眼前に広がるそれは、玲瓏たる美しき満月だった。
そして、月下に広がるのはどこか可憐な風情の小さな花々。
……まるで箱庭の情景のような、そんな美しい光景が、まるで一枚の絵のように少女―――…異世界より召還された、龍神の神子である少女……元宮あかねの前に、静かに姿を見せていた。
「………とても。……とても、…」
あかねは言葉を探すように何度も「とても」を繰り返してから、諦めたように軽く首を振る。
「…………とても、綺麗、です…」
――――魔法みたい。
あかねはそこで思い出しようにぽつりとそう囁いてから、彼女をここまで連れてきた張本人である橘友雅を振り返った。
「あの、ありがとうございますっ……こんなに綺麗な場所……見せてくださって」
にこっと全開の笑顔を見せてお礼を口にする少女に、友雅は楽しそうに軽く笑む。
「いいのだよ、神子殿。美しさというものは、他者の目に触れて初めて価値が生まれるものなのだから」
――――良いものを、見せてあげよう。
藤姫の目を盗んでこっそりと忍んできた友雅は、不意の訪いに驚くあかねにそう告げた。
まるで内緒事をするような、そんな悪戯めいた言い方で。
――――私の月の姫。どうかおいでいただけないかな?
いつもと同じように、何かをはぐらかすような恭しい口調。けれどその一方で、何か。
ゆらりとたゆたう、陽炎に似た感情の揺らぎのような…奇妙に真剣なひかりが、友雅の目の中に見えた気がして。
――――はっ、はい! ちょっと待っててくださいっ!
……つい、あかねは素直にそう応じてしまった。
そろそろ寝ようかと思って出してきていた夜着をまたしまいこんで、水干の上衣を着込んでいつもの格好になって。
……そして。
(………ここまで、ついてきちゃった……)
あかねはどこまでも美しい、まるで夢のような光景に見入りながら、心のどこかで少しだけ悔やむように考える。
(――どうして、来てしまったんだろう?)と。
友雅も友雅で、いつもならもっと美辞麗句というか……口説き文句めいた、赤面するようなセリフを言っているはずなのに……今宵に限って、彼はやけに静かだ。
その、端正な横顔を見上げてから…あかねはもう一度心のなかで呟く。
(―――…どうして、来ちゃったんだろう?)
それは、僅かに胸を締め付ける後悔。
どこか甘いような、苦いような後悔。
(………ここに、来てはいけなかったのかもしれない)
――――美しい月光に照らされた、たおやかな花々。
その可憐な花々が、ふと友雅の周囲に絶えず取り巻いている、別の「花」のことを思い出せた。
――――スキニナッテハ、イケナイ。
「……神子殿」
低く、耳朶に心地よく響く声。
はい、とあかねはその声に元気良く返した。
元気良く、明るい子供じみた声音で。
「なんですか、友雅さん?」と、何も知らない、残酷な子供の明るさで。
(……だから、いつもみたいに苦笑してください)
やはり神子殿は、私の恋のお相手には少々早すぎるようだねとか。
もう少し風情をたしなむことを覚えたまえとか。
(優しくて冷たい、遠巻きな口調で、お話を終わらせてください)
――――コイヲシテハ、イケナイ。
「……月が、美しいね?」
だが、そんな風に“何か”を恐れて身構えたあかねを拍子抜けさせるくらい、彼はあっさりとそう続けた。
「――――このように、月が大きく見える場所は、京でも存外少ないのだよ」
「……ええ。私の世界でも、きっと少ないと思います」
だから、あかねはホッとしたような、がっかりしたようなそんな気持ちで応じる。
「………」
友雅はまっすぐに月を見ながら答えた少女を静かに見つめ……、僅かに笑んで尋ねた。
「君の暮らす世界にも、美しい場所が数多くあるのだろうね」
その唐突な言葉に首を傾げつつも、あかねは「はい」と頷く。
「でも」
あかねは頷いてから、こうも続けた。―――何の、他意もなく。
「こんなに綺麗な場所を見たのは、私の世界でも、こちらの世界でも初めてです」
その言葉に。
ふつ、と、友雅の受け答える声に、やや不自然な間があいた。
「……友雅、さん?」
その間に何故か不安を覚えたあかねは、小さな声でそっと名前を呼んで、恐る恐るその横顔を見上げてみる。
――――――アイシテハ、イケナイ。
……頭の中で、繰り返される警告の声に、あかねは身をすくませながら……こちらを向いて、どこか真剣な表情をしている友雅に。
「神子殿」
…………名前を、呼ばれて。
「――――」
――――……いつからだろう。
……このひとが、どこまでも「男の人」なのだということに気づいたのは。
あかねはあくまでもゆっくり考える。
いや、あるいは一瞬なのかもしれない。だが、たとえほんの刹那の時間だろうとも、今確かに感じているあかねの時間感覚は、ひどく曖昧で緩慢だった。
――――(わたしはひとで)
……このひとも、ひと。
――――(でもわたしは女で)
……このひとは、男。
そんな当たり前のことを、まるで今更のように自覚してしまった時から。
ただただ曖昧でしかなかった認識が、確かなものに変わる。
(――――でも…)
ともまささん。
(でも)
あかねは苦しいような気持ちで友雅を見上げながら、心のなかで名前を呼ぶ。
(わたしは、なきました)
切なくて、切なくて。
苦しくて、苦しくて。
(だれにもいわずに、ひとりでなきました)
ひとしずく、ふたしずく。もうひとしずく涙をこぼして。
どうして泣いているのか分からなくて、でも、本当はどうしてなのかきちんと理解していて。
――――それに気づくと、尚いっそう苦しくて。
(……優しい人たちが、待っているんです)
それは例えば両親で。
あの世界で、あの家で、誰よりもあかねのことを慈しんでくれた家族のひとたちで。
あるいは学校の友達で。
授業中に、休み時間に、休日に笑いあった友人たちで。
(………私は、帰らなくてはいけないんです)
……なのに。……だから。
――――ウラギッテハ、イケナイ。
……警告音が、大きくなった。
あかねは、美しい月光を背後に、ゆっくりと……自分と視線を合わせようとする友雅を見上げる。
「……………。……神子殿」
彼は。そこでまた言葉を途切らせる。
「……何故、泣いているんだい?」
あかねの頬をゆっくりと伝う、水滴に気づいたから。
「…え?」
あかねは、その言葉に本当に不思議そうに目を見張った。
「………あれ? いえ、あの……私、泣いてます……よね?」
「……」
あれ。あれ? と呟きながら、頬を伝い続ける涙を自分の掌で受け止めるあかねに……友雅は静かに息をつくと。
「どうやら、私はまた…君を傷つけてしまったらしいね」
とても優しい、苦笑じみた表情のまま、軽くあかねの目元に指先を触れさせ、涙を拭った。
「―――また?」
あかねは、聞くともなしに…ぽつんと呟く。
友雅はそれに「ああ」と笑って。
「君が、気にすることではないのだよ。……ただ、そんな気がしただけなのだから」
どこか言い訳じみたような、彼らしくない言い方ではぐらかした。
「………ともまささん」
あかねは、自分の目元に触れた指先をゆっくりと目で追いかけ、ぽつんと名を呼ぶ。
――――ウラギッテハ、イケナイ。
わんわんと頭の中で反響する、警告。
それでも、それを打ち消すくらいに大きく響く……恐ろしく美しいような、一方でひどく聞き苦しいような、そんな音が聞こえた。
ひどくいびつで、歪んだ……でも、とてもとてもキレイな、音。
あかねは離れていく友雅の指先をつかんだ。
「神子殿」
驚いたように名前を呼ぶ友雅をまっすぐに見上げ、はっきりした声で告げる。
――――ウラギッテハ、イケナイ。
――――デモ。
「友雅さんも」
澄んだ声で。幼さゆえの純粋さで。
「友雅さんも傷つきましたか?」
どこまでもまっすぐに、そう尋ねた。
どこか挑むように。…あるいは、どこか確認するように。
……友雅は観念したように苦笑して。
「そうだね。………傷ついたよ」
優しく、どこか静かに。
まるで大波が来る前の波打ち際のような静けさをたたえて。
自分の指先をつかんだままのあかねの掌を包んで。
「私の………月の姫」
――――囁くような声は、ひどくはっきりとあかねの元まで届いた。
その声は、あかねの中に響いていた何もかもをまっさらにかき消した。
そう。……裏切ってはいけない。……でも?
「………はい」
あかねはゆっくりと、まるで誓いをたてるように月の前でそう告げる。
……。そう。
けれど、私には。
今日、ここでやっと生まれてきてくれた、この世に一つしかない私の「おもい」も、裏切ることは出来ない。
「……そろそろ、帰ろうか神子殿」
「………はい、友雅さん」
それから二人は、何を言うでもなく、穏やかな帰路についた。
「――――今日、私の誕生日なんです」
風がひやりと少し冷たい。身をすくめたあかねを庇うように、友雅はそっとあかねの後ろに立った。
「……誕生、日?」
あかねは「ありがとうこざいます」と微笑みながら「寒くないですか?」と付け加える。「それほど歳をとっているつもりはないのだがね」と友雅は小さく苦笑して、またあかねを慌てさせた。
「…生まれてきてくれてありがとう、おめでとうって、その人の生まれた日を、私の世界ではお祝いするんです」
「……そうか。では、私も何か祝いを贈らねばならないね」
月が綺麗、と。
そう言って、今にも「かえって」しまいそうな、夜天を見上げる少女に不安を覚えて、友雅は彼らしくもなく、やや口早に告げた。
(もしも贈り物で、本当に彼女を縛れるのなら)
(例え宝玉の枝であろうとも、手折って君のもとへ届けにいくのだろうにね)
心の声は、彼にしか聞こえない。だから彼は安心して呟ける。
けれど、唯一無二の稀なる神子は、そんな彼の思いを見抜いたかのようにこう答えた。
「いえ。……いいんです」
「……何故? 私の贈り物では、不満かな」
余裕を欠いている。
彼はそれに気づいて、淡く苦笑した。
「いえ、…そうじゃなくて」
しかし、神子は。
――――あかねは降るような星空の下、晴れやかな笑顔でこう答えた。
「………もう、受け取ってしまったんです。私」
これ以上もらっては、胸がいっぱいになりすぎてしまいますと。
あかねは困ったように笑って。
友雅もそれを受けて、やはり困ったように、あるいは戸惑ったように。……あるいは慈しむように笑った。
「そうだね。……そうかもしれないね」
……私の月の姫。
彼は心の中で再度呟いて笑った。
(………その言葉に真の響きを滲ませて、君に告げられる日が来るのだろうか)と。
そんなことを考えながら。
――――今宵「生まれた」私の「きもち」は。
――――遙か時空の彼方の今夜に「生まれた」私の中に、既に息づいていたものなのでしょうか。
「……誕生日は、きっと二度来るんですね」
あかねは不可思議な、いつもの透明な印象を与える笑顔を浮かべた。
「今夜、私の中にもう一人の“わたし”が生まれました」
その言葉と笑顔に応じて、友雅はさながら当然のように笑む。
「ならば、私も今宵が“誕生日”なのだね」と。
囁くように、誓うように告げながら。
了.