「昨日と今日と、明日の僕らに」
――ひらりひらり、と蝶々みたいにスカートをなびかせて。
「光子郎!」
明るく笑って、当たり前のように目の前で告げる。
「いいかげんに起きろってーの! …また夜更かししてたんだろお前ー?」
そのままくるくると部屋の中を動き回って、しゃあっと音を立ててカーテンを開けた。
ああ眩しい。
光子郎はまだ半分以上眠気でとろけた頭でそう思い、淡く微笑む。
……そう。うとうとしたまま、淡く微笑んで……。
――がばっ!
「な、な、な、なにしてるんですか太一さんッッ!?」
まだ寝ぼけようとする体を叱咤して勢いよく起き上がり、「ん?」と首を傾げて自分を見つめる太一に怒鳴った。
「何してるも何も…。折角迎えにきてやってるのに、いつまでもぐーたら寝こけてるのはお前だろ?」
だから起こしにきてやったんだぞ、と太一は腰に手を当てて胸をはる。
お台場中学校制服のスカートからすらりと伸びる生足も眩しく「目ぇ覚めた?」なんて太一はきひひと笑った。
「め、…目が覚めるとかっ! そういう問題じゃないでしょう!」
光子郎はどもりながら太一に向かって怒鳴りかけ…自分がまだパジャマ姿であることに気づき(先ほどまで寝ていたのだから当然なのだが)かああと顔を赤く染める。
太一はそんな光子郎にニヤニヤ笑った。
「なーに赤くなってんだよ、光子郎? 一緒に風呂にまで入った仲だっていうのに」
「子どもの頃の話でしょう! 大体今はそんなこと関係ないです! さあ、早く出て行ってください! 着替えたら下に降りますからっ」
「関係ない? 光子郎ってつれないな〜。そーいうコト言うんだ」
太一はわざとらしく落ち込んだように眉を寄せるが、光子郎にギッと激しく睨まれて苦笑する。
「下で待ってるからなー」
結局それ以上からかうこともなく、太一はあっさりと部屋から出て行った。…しかし、出て行く間際「あ、そうだ」と足を止め、まだ布団の中にいる光子郎に声をかける。
「何でもいいんだけどさ、お前何か変な寝言言ってたぜ。悪い夢でも見たのか?」
そして純粋に不思議そうな、そんな顔で言われて。
……光子郎はわけもなくムッとし「関係ないでしょう」とだけ吐き捨てた。
「…低血圧が夜更かしするなよ」
太一は肩をすくめてそうぼやき、今度こそドアを閉めた。
――八神太一と泉光子郎は、生まれる前から幼馴染だった。
光子郎よりも一年早くこの世に生まれてきた太一と、その一年後に生まれてきた光子郎。
光子郎の母親と良好なご近所付き合いがあった太一の母は、母親の一年先輩として赤ん坊の太一を連れて頻繁に泉家を訪れた。
実際に光子郎が生まれてからも、ご近所同士の仲良しな母親二人はいつも太一と光子郎を遊ばせ、ご近所に年の近い子どもがいなかった太一と光子郎もお互いと遊ぶしかなかった。
(でもまさか、あのガキ大将を女の子だって気づく人はいないでしょう)
中学一年生。
しゅしゅっ、と、ようやく慣れてきた手つきでネクタイを巻きながら、光子郎は渋面を作る。
確かに女の子なのに『太一』なんて完全に男の子の名前をつけられた光子郎のガキ大将は、やれサッカーだやれ鬼ごっこだと、毎日のように子分を引きずりまわした。
……『彼』が『彼女』だったということをまざまざと認識したのは、太一が七歳、光子郎が六歳の頃だ。
少し照れたような、きまりの悪そうな顔で。
綺麗にお化粧されて、ひらひらした立派な着物を着て。
『よう、光子郎』
千歳飴、食べるか?
硬い飴の分け前をくれにわざわざ訪れたガキ大将は、全然いつもの『太一』じゃなかった。
『あら、太一ちゃん! 今日は随分と可愛い格好してるのねえ。まるで時代劇のお姫様みたいよ?』
『こんにちは、おばさん。…こんなのがお姫様なの? じゃあおれお姫様なんてやだなあ。だってこんなけしょーなんてしてるから、アメもちゃんとなめられないんだぜ!』
はしゃいだ声をあげる光子郎の母親に少し照れたような顔をして、だから光子郎、アメ食べるか、と差し出された袋。
――ぱしん。
「……」
光子郎はきつくきつく眉を寄せて、回想を断ち切った。
「…光子郎?」
まだ支度かかるのかよ、と覗きにきた太一が、洗面所の鏡に映る。
「……お待たせしました、太一さん。…学校、行きましょうか?」
光子郎はそんな太一にちょっとだけ笑って、…鞄を手に取ったのだった。
「…それで、そんときヤマトがさ……」
太一は中学二年生。
去年はずっと曲がっていた胸のリボンも、今年は随分見られるようになってきている。
光子郎はそんな彼女と並んで歩きながら、相槌を打った。
……光子郎の、無敵のガキ大将は、いつの間にかちゃんと女の子になっている。
まだ色恋沙汰がどうの、という話は聞かないが、そのうち、この単純構造の元気少女も恋の話題を出したりするんだろうか。
光子郎は太一に気づかれないよう深い溜め息をついて、話題を切り替えた。
「それにしても…太一さん、今朝みたいなことはもうやめてくださいね?」
「んー? 今朝みたいなことって?」
その言葉に、太一は無邪気なそぶりで首を傾げ、小さく笑う。
しかし、そんな仕草でいちいち挑発されていては太一の幼馴染は務まらない。
光子郎は、頭も覚めて大分冷静になった態度で、太一に再度注意を促した。
「僕は仮にも男で、貴方は女の子です。それはまさか分かってるんでしょうね?」
「まあ、そりゃあ、ね」
セーラー服着て学校に通ってるしなあ、と太一は笑う。
「だったら、今日みたいにずかずか男の部屋にあがりこんでくることはしないでください。…起きてる状態ならまだいいものの、寝込みを襲うなんて恥知らずにもほどがありますよ太一さん」
光子郎は腕組みをして、太一に何度目かのお説教を語った。
…しかし太一は何ら反省した様子はなく。
「なんだよー、その言い方!」
げらげらとお腹を抱えて笑いころげている。
「な…、太一さんこそ何なんですか!」
「こ、光子郎ってさ、外見はなんていうか滅茶苦茶インテリってカンジなのに、何か言うこと古臭いよなあ〜!」
「古臭いって何ですか! いいですか、太一さん。僕は世間一般の常識をですね!」
「お前が起きてこないのが悪いの! …偉そうに語る前に、まずはきちんと約束の時間に起きてくれよな光子郎クン?」
太一のその言葉に、光子郎はむっと眉を寄せる。
確かに正論だ。
太一を、朝部屋に入れさせないためには、単純に光子郎が正しく定刻に起きればいいのだ。
「ええ、分かってますよ。…明日からはそうします」
「…明日から明日からって。もう何回聞いたっけそのセリフ」
わざとらしく明後日の方向なんて見て、太一はちくりと刺すような呟きを漏らした。
光子郎が更にぐぐっ、とつまる。
「……」
太一はそんな幼馴染を楽しげに眺め…、くすりと笑った。
――少しだけ、目線が光子郎よりも高い太一。
それが悔しくて、…少しだけ切なくて、光子郎は、ふん、と鼻を鳴らした。
「あ、おはよー、太一〜」
「おう、おはよー」
「おっす、八神」
「おう」
そうこうしている内に、もう学校に到着である。
光子郎は次から次と挨拶の声がかかる太一に嘆息して「それじゃ、僕はここで」と生徒玄関で別れた。
「それじゃ、また帰りになー」
太一はそんな光子郎にぶんぶん手を振り、明るく笑う。
「…はい」
当たり前のように、繰り返されていく習慣。
朝は二人で仲良く登校して、帰りもちゃんと待ち合わせして一緒に帰る。
「仲いいよねー、光子郎くんと太一さんって」
廊下で会ったクラスメイトの太刀川ミミが、おはようの挨拶もなしに話しかけてきた。
「まあ、…幼馴染ですし」
彼女が唐突なのはいつものことなので、光子郎も別に気にせずに会話を展開させる。
「ふーん。……私が言ったのは、そーいうイミじゃないんだけどなあ」
ミミはくすっと笑って、光子郎を意味ありげに見た。
「それじゃあ、どういう意味だって言うんですか」
光子郎は眉を寄せて、尋ね返す。まともに相手をする必要はないとも思うが、会話の内容が太一についてなのでやめるわけにもいかないのだ。
「だからあ、二人は恋人同士みたいって言ってるの! カレシとカノジョ。…わかるー?」
「……そこまで馬鹿じゃないつもりですけど」
ようやくミミの話は結論に行き着いたようだ。光子郎はどうでもよさそうに窓の方を向いて、軽く欠伸をかみ殺す。
「…かっわいくない言い方!」
ミミはその態度にか、口調にか、とにかく光子郎に対して憤慨したらしく、肩をいからせてそっぽを向いた。
「もー、太一さんの趣味ってわかんない! こんなヒトのどこがいいって言うのかしら。一度聞いてみたいもんだわー」
しかし「光子郎+太一=恋人同士」という図式からは離れられないらしく、ぶつぶつとぼやく声は光子郎のもとまで聞こえてくる。
「………」
光子郎はそれに何の反応も返さず、今度こそ小さく欠伸をした。
(僕の方こそ、それを聞きたいですよ)
浮かんだ言葉は、勿論、顔にも出さず唇にものせない。
それは、光子郎がおよそ六年前から抱き続けている大きな疑問だった。
* * * * *
――ぱしりと。
差し出された千歳飴を勢いよく振り払うと、太一はとても不思議そうな顔をした。
紅を引かれた唇が、こうしろうと声に出されずに動く。
それがとても綺麗で、愛らしくて、殊更癪にさわった。
『光子郎、何するの!』
実に珍しい息子の暴挙に母親は目を見張ったが、太一はそれ以上にぽかんとしていて。そんな顔をしていると、白粉で綺麗に飾られた顔が余計に人形めいて見えて、光子郎は彼らしくもなく、…癇癪を起こした。
『ぜんぜん、にあいませんよ。そんなかっこう…!』
光子郎は頭がカッカとなってよく回らない舌を何とか動かしながら、太一を傷つけるのに一番効果的な悪口を懸命に探した。
『まるで、女の子みたいだ!』
しかし、やっと見つかった言葉は、そんな意味の通らない一言。
『……なんだよ…』
太一は怒るというよりは戸惑ったような、そんな不安定な表情で光子郎を睨む。
その睨む目よりも、声よりも、態度よりも、光子郎は太一の姿そのものが気に食わなくて、手に持っていたジュースを思い切り太一にぶちまけた。
綺麗な着物が濡れていくつもしみができ、整えられていた髪の毛も濡れ、ぽたぽたと垂れてきた雫が太一の顔の化粧を剥ぐ。
『…!』
『光子郎ッ!?』
太一はどこまでも不思議そうな顔で光子郎を見て、自分を見て、……ぎゅっと唇を引き結んだ。
光子郎は、とてもいけないことをしてしまったような、けれどとても安心したような、そんな気分になりながら太一を見ていた。
『…女の子みたいでわるかったな』
やがて太一がぽつりと呟いた。
…その声が僅かに震えていたことが、今でも忘れられない。
* * * * *
朝一緒に学校に行って。帰りは一緒に帰って。
休日は大概一緒に遊んで。戯れに手をつないでみたりして。
(こんなものが恋愛ってものなんだろうか)
光子郎はぼんやりと疑問視し、窓の下、グラウンドを走っている太一の姿に目を留めた。
半袖のシャツに、下はジャージのズボンだ。
最近少しだけ出てきた胸のふくらみが、あんな薄着だとはっきり分かってしまう。
光子郎は僅かに眉を寄せて、黒板に目を移す。
……七五三でそんな気まずい事件が起こって以来(勿論光子郎は両親からこっぴどく叱られた)太一は今まで以上に少年らしく振舞うようになった。
太一のスカート姿なんて、中学二年生になった今でも制服でしか見たことがない。…実際、あのセーラー服だって、太一は何ともいえない複雑そうな顔をして泉家に見せに来たのだ。……光子郎に、ではなく、彼の母親に。
そのときは偶然居合わせてしまった光子郎だったが、さすがにもうそこまで子どもではない。
『よくお似合いですね』
それでも、その声には少しだけ棘が混じってしまったかもしれない。
太一は少し困ったような顔をしていたから、きっとそれは鈍い太一にもはっきり分かってしまうような棘だったんだろう。
……どうして、そこまで太一の「女性」としての姿を認識することが嫌なのか。
『彼』は『彼女』だ。それくらい、今はちゃんと知っている。
木登りが誰よりも上手で、サッカーだって誰にも負けなかった。
それでも『彼』は『彼女』だ。
(認められなかったんだろうな)
ひらひらしたスカートを見ると、今でも何だかひどく苛々する。
――彼女の性別を今でも認められなかった幼い自分。
あの頃の太一は、いつも光子郎を引きずりまわす、明るい無敵のヒーローだったから。
光子郎の大切なヒーローだったから。
……あんな少女みたいな姿が認められなかったのだ。
(今でも、認められないのかな)
毎朝。
無邪気に部屋のドアを開けて、制服で入ってくる太一。
光子郎が望んだガキ大将のまま、心は相変わらずそのままであるかのように振舞う太一。
どこまでもわがままな光子郎のココロは、何故かそんな無邪気さにも苛立ちを隠せない。
化粧なんかしなくても、太一の唇は綺麗だ。
少し日焼けはしていても、太一の肌はさらさらで手触りがいい。
ぱちりとした瞳は、ほんのりつり目で愛らしい。
そんな姿で、しかもスカートで。ふらふら男の部屋に入ってこないでほしい。……そう思い始めたのは、ここ数年のこと。
(僕以外の人の前でも、あの人はあんな風に振舞っているんだろうか?)
そう考えると、苛々してくる。
いっそガキ大将のまま、あの姿のまま学校に通ってくれればよかったのに。
あんな姿では、あの人の隠されていた少女の面が明らかになるばかりで全くもっと腹立たしい。
太一は極めて理不尽で、不条理な悪戯小僧だったのだ。
それを何も知らない他の連中が、太一のことを可愛いなんて思うことは許しがたい。
(……)
光子郎は自分で自分に呆れ果て、机にうずくまって小さく頭を抱えた。
(この感情は…何なんだろう…)
自問自答してみても、答は出ない。
今まで経験したこともない状況で、答が出るはずもないのだ。
もしくは、…安っぽい、光子郎のなけなしのプライドが邪魔しているのかもしれない。その結論を、出すことを。
―――それでも、相変わらず年相応の少女らしく着飾った太一は嫌いだった。
―――しかし、その一方で男女の差などないかのように、ずかずかと光子郎の部屋に入ってくる太一も嫌いだった。
―――…光子郎の気持ちになど頓着せず、相変わらず近所の男友達な態度を貫く太一も、嫌いだった。
(どうしろっていうんだ…。僕はあの人にどうしてほしいって言うんだ…?)
光子郎は、今度こそはっきりと頭を抱えた。
思わず閉じた瞼の奥で、あの日汚してしまった太一の着物姿が浮かび上がった。
記憶の中で。
太一はひどく困惑したような、そんな顔でいつまでも立ち尽くしていた。
「太一。お前って、あの幼馴染の…泉って奴と付き合ってるのか?」
午前の授業も終わって、めでたく昼休み。
太一は紙パックのコーヒー牛乳を啜りながら、ぴたりと動きを止めた。
「直球でいきましたね」
「直球じゃないと太一には分からないって悟ったのかなあ」
それを見るともなしに眺めていた太一の親友の空と、彼女に借りていた英和辞典を返しに来ていた三年生の丈はそんな会話を漏らす。
ちなみに質問者は石田ヤマト。
小学校高学年で知り合って以来、まるで男同士のような気安い友情を築いてきた太一の友人である。
「いや…付き合ってるっていうか……?」
太一はようやく硬直から復活し、箸をかちゃかちゃと無意味に動かした。
「な、なあ、付き合ってるのかってコトは、つまりあれか? 俺は、光子郎と恋人同士なのかってことを聞かれてるのか?」
「そうに決まってるだろ」
ヤマトは綺麗な箸遣いでおかずをつまみ、口へと運ぶ。その眉はきつく寄せられ、とっとと質問に答えろよと言外に訴えているかのようだ。
「いやでも。…付き合うってさあ、あれだろ? 貴方が好きです付き合ってくださいって言われなきゃ駄目なんだろ?」
それとも俺が言わなきゃ駄目なんだっけ、それ。
太一は「ん」と軽く首を傾げて逆にヤマトに問いかけた。
「…。いや、それは…言わなきゃ駄目というか…」
その問いかけは根本からズレている気がする。
ヤマトは頭ががんがんしてくるのを覚え、こめかみを押さえた。
「…つまりまあ、その…泉のことをお前はスキだってコトか…?」
――――その問いかけは絶望と紙一重であった。
誰よりも男らしくて、そのくせ誰よりも可愛い太一に、ヤマトはいつの間にか恋をしていた。
小学校のとき、男だと信じ込んで喧嘩をすること数十回。その戦歴は常に五分五分で、ヤマトは次第に太一に対して熱い友情を覚え始めていたのだったが…それが太一が少女であると分かってからは、信じられないほど急速に、恋愛の方へヤマトの心のベクトルは傾いていったのだが。
「スキに決まってるじゃん?」
太一はにこりと笑って、ヤマトを絶望の淵へ叩き落とした。
「……あちゃー」
「ご愁傷様ね」
それをぼんやり見物していた丈と空が、それぞれ感想を呟く。
「す、スキって…そ、それは確かに恋愛のスキなのか、太一!」
しかしヤマトはめげなかった。
太一の鈍さと幼さをそれなりに知っていたヤマトは、どうにか復活を遂げすぐさま問いかけた。
すなわち、その「スキ」は親愛のソレか、恋愛のソレかと。
「…んー、まあそれを言われるとな」
太一はちょっと苦笑して、箸を置く。
「俺も他に経験があるわけじゃないし。これが確かに恋愛のスキなのか、それとも子どもの執着の延長線上なのかはわかんねーよ」
たださ。
太一はふう、と息をついて、…いつの間にかすぐ後ろまで来ていた空に笑いかけ、ヤマトを見た。
「今日も光子郎と一緒に帰れたらなあって思うな」
呟くように、そう言葉を紡ぐ太一の声音はひどく優しい。
「昨日もそうだったみたいに、今日もあいつと一緒に帰れたらいいなあって、思うな」
……ぱしんと振り払われた手のひらの強張りとか。
……そっとつないでくれる、優しい手の仕草とか。
本当は毎日毎日、少しずつ変わっていく。
一緒に帰って、一緒に出かけて。
その繰り返しだけじゃない。
昨日も、今日も、そしてきっと明日も、毎日毎日、少しずつ変化していくものなのだろうけど。
「…そうか」
ヤマトは何となく溜め息をついて、頬杖をついた。その顔は何とも苦い笑いで縁取られている。
空がくすりと笑って「男なら簡単に諦めるもんじゃないわよ」と太一を後ろから抱きすくめるみたいにしてけしかけた。
「ん?」
太一はいまいちつかめていない様子できょとんとしたが、やはりにっこり笑うと。
「そうだぜ、ヤマト。男ならそう簡単に物事諦めちゃいけねーんだぞ」
……なんて、ひどくあっさりと告げた。
「……そうかもな」
ヤマトは今度こそはっきりと苦笑する。空もさすがに、困ったように笑った。
「青春ってやつだよね、これって」
そして丈が「うんうん」と頷きながらしみじみとそんなことを言うから。
ヤマトは一瞬目を見開いて。…空も一瞬きょとんとして。
太一は、ふわっと目元を和ませてから。
――三人で、こらえきれないように大きく吹き出した。
「え? え? なに? 僕、今、何かおかしなこと言ったか?」
丈はわたわたと首を振って三人に尋ねるが、三人は可笑しそうに笑っているだけ。
ああ、確かに青春だなあ。
げらげら笑いながら、太一はつくづく思う。
恋も愛もまだ知らない。
好きと嫌いと、優しいと冷たいと。
まだそんな単純な感情しか知らない。
僕らは、まだまだ子どものままで、笑ったり、泣いたりする。
(ここに光子郎がいたらどうしたかな)
一緒に笑ったかな。
馬鹿にするみたいにして、ふんと鼻を鳴らしたかな。
それとも笑いをこらえて、そっぽを向いてしまっただろうか。
今日の帰り道は、この話をしようと思う。
丈がこんなことを言って、ヤマトがこんなことを聞いて、空がこう言ったんだ。
光子郎にその話をしながら、一緒に手をつないで帰ろう。
かつて、一度だけぱしりと振り払われた手のひら。
だけど今はしっかりとつないで、少し照れたように頬を染めてくれる。
それならいいんだと太一は思う。
昔のことよりも、今のこと。
太一は小さく微笑んで、光子郎を思った。
光子郎は今、何を考えているのかなと思いながら。
* * * * *
「今日は楽しかったか光子郎」
「別に…いつもと同じでしたが」
夕焼けの中。
太一はとても嬉しそうな弾んだ足取りで歩き、光子郎はそんな太一と並んでゆっくりと歩く。
ひらひらと踊るスカート。
光子郎の視線がそれに向けられたことに気づき、太一は苦笑してスカートをつまんだ。
「相変わらず嫌か? …こういう格好」
「……嫌というか」
光子郎は困惑と罪悪感にうたれ、スカートから目をそらす。
「嫌じゃ、ないんです…。嫌なんですけど…昔みたいには嫌じゃないんです」
「ふうん…」
太一は目をぱちりと瞬かせ、ふっと笑った。
「じゃあ今度、こういう格好でお前んち行ってもいい?」
「えっ」
それを聞いた光子郎の頭に瞬時に浮かんだのは、ほんのり可愛らしいデートスタイルで自宅の前に立つ太一の姿だ。
うれしはずかし初デート。
そんな文字すら頭に踊り、光子郎は自分がやたらと恥ずかしくなって「…それは勘弁してください…」と顔を真っ赤にして俯く。
「……ふーん?」
太一は首を傾げて、じゃあしょうがないかなと呟いた。
光子郎はその姿に、今更のような激しい自己嫌悪に襲われた。
偉そうに女性としての自覚を、なんて言っている一方で、太一を『女性』として確立させないよう必死に無駄な努力を繰り返しているのは、他の誰でもない。…光子郎自身だ。
子どもじみた、過去への執着。…太一への、執着。
目をそらしていても変わらない。
(このひとが好きだ。…もうずっと、僕はこの人が好きなんだ)
光子郎は静かに確信して、太一の手のひらをぎゅっと握った。
「光子郎?」
太一が不思議そうに名前を呼ぶ。
いつも手をつなごうと言い出すのは太一からだった。
そして、スキンシップが苦手な光子郎は、いつもそれをしぶしぶ了承するというスタイルを貫いていた。
「手をつなぎたいんです。…悪いですか」
……馬鹿みたいな幼いプライドが邪魔をして。
夕陽に染まる太一の横顔を、はっきり見ることが出来ない。
「…まあ、悪くないんだけどさ」
太一は笑いの混じった声で応じる。…少し、嬉しそうに。
いつだってお見通し。
そんな声音が不愉快で、でも少しくすぐったい。
―――ぱしりと振り払った手のひらと、振り払われた手のひら。
どちらも同じくらい痛くて。…そして、ごめんなさいと言えなかった子どもの光子郎は、今でも過去の袋小路を迷い続けている。
その中で、こっちだよ、と太一は何のてらいもなく光子郎を呼ぶのだ。
一緒に歩こうと手を伸べて、無邪気に先にたって歩き出すのだ。
自分も痛かったはずの手のひらを隠しもせず、無邪気に伸べて歩き出すのだ。
「…太一さん」
思い切り振り払ったあの日。
きっとあの手は赤くなってしまったことだろうとぼんやり思いながら、太一の手を片手で優しく握りなおす。
「なんだ?」
相変わらずそっぽを向いたままだから、顔が見えない。
「……太一さんは、怖いものってありますか」
光子郎はそっぽを向いたまま、呟くように疑問を押し出した。
傷つけないように、そっと握った手のひらが熱い。
(僕の怖いもの。……それは太一さんが僕を置いてどこかに行ってしまうこと)
可愛い着物と、綺麗な化粧。
光子郎を置いて変化していく太一が嫌で、不愉快だ。それは光子郎の中の気持ちの根っこで、何年経っても変わらないもの。
「俺が怖いのは」
太一は一瞬言葉を止めてから…そっと息を吐き出すように呟く。
「光子郎に、嫌われること」
……少しだけ、苦笑じみたその声。
え、と呟いて太一を見ると、太一は……夕焼けだけじゃなく、顔を真っ赤に染めていて。
光子郎はそのカオに思わず目を見開いて――太一を凝視する。
今までずっと一緒にいて、こんな顔一度も見たことない。いつも、…そっぽを向いていたから。
「知らなかっただろ。……喧嘩しても、何しても。…お前にだけは嫌われたくなくて、いつも意地だって張り切れない。馬鹿みたいだ」
太一は苦笑まじりのまま、けれど相変わらず顔を赤くして。
少しだけ自嘲まじりに、呟いた。
てらいもなく差し伸べられる手のひら。
……すごく大人みたいに見える、本当はたった一つだけしか違わない太一の小さな手のひら。
「お前こそ怖いものなんてあるのかよ。…いつだってボージャクブジンでさ、俺には言いたい放題言いやがってさ…!」
太一は照れ隠しのように声を少し荒らげて、幼馴染を睨んだ。
光子郎はぽかんとその顔を見つめ…思わず、小さく笑う。
紅なんかひかなくても、その唇は十分綺麗だ。
あとでそれを教えてあげようと思いながら、光子郎は太一の肩を引き寄せた。
少しだけ背伸びして、目線を同じにして。
そっと唇を重ねて、にこりと、また意図せずに笑う。
「………こ、……光子郎ッッ!?…」
太一は、顔を真っ赤にしたまま。
呆然としたように、言葉を押し出した。
『――貴方が好きです付き合ってくださいって』
それは、太一がひそかに、確かに夢見ていたはずのお約束。
「順番が、違うだろうが…!」
……光子郎はその言葉にきょとんとして、眉を寄せる。
「どういう意味ですか、太一さん」
「どっ、どういう意味もこういう意味もっ!」
太一は上ずった声のまま、つないだままの手を激しく振り、光子郎を睨んだ。
「まずは俺がスキだとかどうだとか、言ってからにしろよ!」
そしてそのままの勢いでそう怒鳴り、はたと唇を押さえて、また顔を赤くする。
光子郎はその言葉に対し、赤くなった顔をごまかすみたいに眉を寄せる。
「言わなきゃ駄目ですか」
「……だ、駄目だ! 駄目に決まってるだろ!?」
「じゃあ言いますけど」
「…けど、なんだよ!」
こんなに声を上ずらせる太一なんて、滅多に見たことがない。
光子郎は緩みそうになる口元を懸命に抑え、おもむろに応えた。
「きちんと言ったら、もう一回キスしていいですか」
「……!」
……みるみるうちに太一の顔に血がのぼった。
それを見つめて、光子郎は同じく顔を染めたまま……、優しく笑う。
――彼女がその後、なんて応えたのか。
…それはひとまず、二人だけの秘め事としておこう。
ただ、太一はこの日話そうとしていた、丈の「青春宣言」について全然語れなかったらしい。…その代わりに何を話したのか。
それもまた二人だけの秘め事だ。
――――昨日の君と、昨日の僕と。
――――今日の君と、今日の僕。
毎日少しずつ変わっていく僕ら。
昨日の僕に贈りたい言葉とか、明日の僕に話したいこととか。
……今日の君に、話しておきたいこととか。
そんなものを抱きしめて、今日もまた一緒に帰ろうか。
振り払われた手のひらも、痛かった手のひらも。
初めて重ねた唇も、相変わらずの苛々も。
全部全部、心の奥に抱きしめて。
きっと明日は、また少しだけ違う今日になる。
恋も愛も知らなかった今日とは違う。
好きと嫌いしか知らなかった昨日とも違う。
――明日も一緒に帰ろうと呟く太一に微笑んで。
――分かってますよと、光子郎は手を強く握った。
END
女の子太一さんです。
女の子太一さん同盟に加入しているというのに、一本もそういう小説がないのは…ないのはどうなのよ! と思って一つ。
アクセス解析見てると、結構…同盟からいらしてる方が…。なので…。
申し訳なくなってしまって…。ハイ…。
実のところ、このお話は以前発行した「からふる・はぴねす」という同人誌に掲載したものです。(※現在は通販停止しています)
基本的に、同人誌に掲載したお話はサイト掲載しないでおこうと思ってたのですが…。
短編集なので、これ以外にも割りとレアというか、奇妙なパラレル小説が二本掲載されてるので、まあ。
これ一本だけだったら勘弁していただけないかなーという独断で、掲載させていただきました。
殆ど手直しは加えてないんですが、やっぱり二年位前の小説なので色々しょっぱいです…。