『黒と赤』


 ―――冷たい水を浴びせかけられ。

「……目的は、出身国は、侵入手段は?」
 立て続けに様々なことを問われ、おれは、小さく苦笑した。
(……任務、失敗)
 ぱん、と頬を張られ、じんじんとそこが熱を持つ。
「……いいだろう。じっくり、体に聞いてやる」
 ぴし、と冷たい革の音が響いた。
 ああ鞭だ、と思う間もなく、体に熱い痛みをおぼえる。 
 おれは苦痛に低く呻いて、不自由な体躯を反らした。
 両腕はきつく縛り上げられているようで、天井から吊るされているような状態だ。
 ここに潜入するために調達した服も、水に濡れて、銃で撃たれて、ぼろぼろになっている。
 腰からいつもつるしていた剣も、当たり前だが没収されてしまったらしい。その軽さが、おれをひどく不安にさせた。
(もっとも、不安になってるどころの)
 ぴしり、とまた鞭が唸った。
 ……激痛。
(…状況じゃ、ないんだけど……)
 おれは、次々走る激痛に、いつしか意識を失いつつあった。


*     *     *     *      *

 ―――何が原因で、現在の戦争が始まったのか。
 誰一人、覚えていないくらい。それくらい、遠い遠い昔から国々は争いあっていた。
 何百年か前には土地を。何十年か前には燃料を。今では水と空気すら、互いに奪い合うようにして。

 ……おれの国は、国の中でも争いがあった。
 争い、というよりも。強いものが弱いものを喰らうという、ごく自然な行為でしかなかったのかもしれないけれど。
(1/8192)
 国の統治者の命令で配布された、ナンバー。
 おれが、確かにおれであるという証明を記したタグカード。
 渡されたタグは、ちっぽけで安っぽかった。
 けれど、このタグ一つで。この、ちっぽけなプラスチックの板一つで。
 おれの命、おれの空気、おれの食糧。全てが保証される。
 家柄もない孤児のおれが生きていくには、どうにか働く場所を見つけて滑り込むしかない。
 その日その日で生きていくしかない。……けれど、痩せっぽっちで何一つ取り柄を持たない子どもが、そう簡単に仕事をもらえるはずもなく。
 剣の腕と、はしっこさ。それだけを武器に、おれはレンジャーたちの中に潜り込んだ。
 国のために戦うレンジャーたちなら、上から優先的に配給ももらえる。
 これでどうにか生きていける。そう思った矢先に。

「……おい。……おい、起きろ」

 そう。……早速与えられた任務は。

「起きろって言ってんだろ! いつまで寝てる気だ!?」

 びしぃ、と唸る鞭の音に思わず顎を反らし、苦痛に喉が詰まる。
 重い瞼を開けて、ぼんやりと前を見れば、苛立ったような目つきでおれを見据える軍人風の男が一人。
「……」
 ああ、また拷問だろうか。
 おれは体中に当てられた鞭の痛みを思い、眉を寄せた。
(無茶というよりも、無謀な任務だったってわけだ)
 ……隣国の事情を探ってこいと。
 偽造IDと衣服を与えられ、放り込まれた貨物列車。
(行き先は、あの世?)
 直通電車。戻りはなし。
 おれは虚ろな冗談に口元を歪める。
 あっさり捕獲され、散々殴られ蹴られした体のあちこちが痛い。
 鞭で打たれた首筋や足、そこここの部位がジンジンと痺れている。
「IDナンバー1/8192。……だったか。もう一度聞くぞ。目的は? 何処の国から来た? 誰の指示だ」 
 聞いてくる男の対応は、ひどく面倒そうでおざなりだった。
 それもそうか、とおれは引きつった顔を僅かに歪める。
 おれはどう考えても、下っ端中の下っ端。何一つ、重要な機密は預けられていない。
 運良く何かしら情報を得て、生きて戻ってこられたならよし。
 戻ってこられないとしても、特に不都合はない。
 実際、間者は掃いて捨てるほどいる。
 わざわざこんな、何も知らないおれを尋問しても何も得られはしないと、目の前の男はよく知っているらしい。
(……たぶん、そろそろ)
 おれは血の気の通わない指先を思って、重い瞼を下ろす。
 何一つ知らない、役立たずのスパイは。
(ボロキレみたいに、捨てられるのだろう) 
 ……それならば、もう少しだけ目を閉じていようと思う。
 起きていても、目に映るものは何一つ変わらないのだから。
 ……どこまでもどこまでも、冷たい闇であるということは、いつまでも変わりはしないのだから。
「おい! 貴様、寝るなと言っているだろうが!」
 怒鳴りつける声と、乱暴な鞭が伸びる。
 意地でも目を開けるものかと歯を食いしばり、呻く声を押し殺した。
 もういいだろう。
 死ぬ瞬間の自由くらい、与えてくれても。
 ……散々体に鞭を当ててから、男はようやく戻っていった。
 そろそろ始末人でもつれて、戻ってくるのではないだろうか。それとも、生きたままダストシュートにでも放り込まれるのか。
 打ち身や内出血はひどいようだし、手足の感覚も殆どない。けれど、どうやらどこも骨は折れていないようだったし、五体も揃っているようだ。
(……面倒だな)
 これじゃあ、一思いに死ねそうにもない、とおれは小さく嘆息する。
 ……もう少しだけ、目を閉じていようと思う。
(もしも死ぬのだったら、目を閉じたまま、眠るように死にたいな)
 頭に「もしも」なんてつける辺り、我ながら生き汚さを感じて、皮肉に思った。


*     *     *     *      *

 冷たい闇の中。
 時間は緩慢に過ぎていった。
 今が朝なのか、夜なのか。それすら、判断できない。
 痺れて、感覚のない腕。
 この腕がちぎれる前に殺されるか、それともこのままほったらかしにされて餓死するのが先か。
 ……そんなことを、静かに考え始めた頃。
 久しぶりに、牢の扉がかしゅ、と開いた。
「……」
 ぱちりと薄く灯された明かりに、照らし出される皮肉げな笑み。
 黒の軍服に、帽子を目深にかぶった男は、つかつかとおれの傍まで近寄ってくる。
「…何日放置されてたんだっけ、コイツ」
 唐突な明かりに、視界が重くなった。
 おれは狭まる視界にうっすらと目を細め、乾ききった唇を軽く開く。
「捕獲されてからですと、二日間です」 
 男の声に、明かりの背後―――牢の入り口付近から、返事が返ってきた。
(…なんだ。まだふつか、なのか…)
 もう、何年も経ったような気がしていたけど。
「ふーん」
 男は軍帽の下から、ちらりとおれを眺め、にやり笑った。そのまま、「席外せ」と後ろの男に声をかける。
「は。…いや、しかし、少佐殿」
「いーから。面倒だろ。こんな能無しのスパイに、いつまでもへばりついてるの」
 男はくつくつと笑って「俺にまかしとけよ、軍曹」と手を振った。
 それから、また二言三言会話が行われて。
 ……いつの間にか、牢の中は。少佐と呼ばれていた男と、おれの二人きりになっていた。
「虚ろだね。おまえ」
 くく、と男は小さく笑って軍帽をとる。
 さらりと綺麗に揃った金髪が零れて、僅かな明かりを反射してきらめいた。
 金色の髪に、碧色の眼差し。
 ……整った容姿と、つまらなそうに、歪められる口元。
 それらにおれは奇妙な既視感をおぼえて、重い瞼をこらえて目を細めた。
「やっぱり。…俺に、見覚えあるんだな」
 少佐はそんなおれの仕草に苦笑じみた笑みを見せて、おれの顎に指先を伸ばす。そして、冷たい爪で軽くそこを引っかいた。
「……1/64」
 それから、低く呟かれたナンバー。
 おれはその数値をのろのろと心中で反芻して、虚ろに瞬く。
(……ろくじゅうよんぶんの)
 番号が若ければ、若いほど。
 比例して、繰り上げられていく優先順位。

『…あのひとたちと、同じになれば』

 まだレンジャーでもなかった頃に、彷徨った街角。
 見回りでか、それともどこだかのデモを抑えるためにか、何名か隊列を組んで歩く中にいた。
 冷たい眼差しで辺りを睥睨して、さもつまらなそうにタグナンバーを指先を弄ぶ、おれと同じくらいの子ども。
 …かつんところがったナンバーは『1/64』。
 見たこともない数値に目を丸くすれば、金髪の子どもはそれを見下すように眺め「欲しければ、やるよ」と嬲るように笑った。

『……同じに、なれば』

 おれは虚ろな視界と虚ろな記憶の中、次第に目の前の男へと、焦点をあわせていく。
 見下すような、冷たい目。
 くつくつと嬲るように笑みをたたえている口元。
(……あのときの、子ども…?)
 ピント外れの視界が、ようやく定まると同時に。
 ぎり、と顎に伸ばされた爪が、おれの肌を抉った。
「……つ…」
 緩慢な痛みに、おれは思わず小さく声を漏らす。
 名前も知らない、恐らく同郷である筈の……しかも、優先順位の高い家柄だった筈の男は、それを見て肩をすくめた。
「なあ、おまえさ。…どこで俺見たの?」
「……なに…いって……」
 あのとき与えられた屈辱と、惨めさ。
 そうだ。確か、あれもレンジャーになろうと思ったきっかけの一つ。
 レンジャーになって、同じになれば、あのとき見下された子どもとも並ぶことが出来るかもしれない。
 あの冷ややかな眼差しを、まともに見返すことが出来るかもしれないと。
 ぎりぎりと痛みすら麻痺して、なくなってしまったのではないかというくらい感覚のない腕。ここに剣があればいいとぼんやり思う。
 世界の全てが敵で。
 勿論、目の前の子どもだった男も敵で。
 ただ剣を振るえばいいと思ったあのときのことを、ふと思い出してしまったからかもしれない。
「ま、大したことじゃないんだけどさ」
 男はおれのおぼろげな問いに、小さく笑う。
 やや苦笑じみた。そんな表情で。
「要するに、記憶喪失ってヤツさ」
 ……そのセリフと同時にヒュン、と軽い音が響いた。
 どさ、という重い、他人事のような音を立てて、おれはその場に膝をつく。
 冷たい指先、冷たい腕。……感覚のない手首の先。
 それを思いながら、おれはようやく目の前の男が、天井と繋がっていた縄を手にした剣で切り裂いたのだということに気づいた。
「目が覚めたら一人きり。剣とちっぽけなナンバー持って立ちっぱなしでさ。…特に記憶が必要だとは思わなかったけど、市民権得るのには実際苦労したぜ」
 まるでつまらない冗談を言って苦笑するように、男はくつくつ笑って、座り込むおれの鼻先に剣を突きつける。
「狭苦しい世界。国民一人一人がナンバーで管理されてて、そのタグをいちいち持ち歩いてる国調べたら、すぐ分かった」
 冷たい刃先が、きらりと光る。
 おれは男の言っていることがよく理解できずに眉を寄せながら、跪くようにして、男を睨み上げていた。
「名前はボッシュ。登録ナンバーは1/64。職種はセカンドレンジャー。強制侵入して調べれば、どうにかこれくらいは分かったんだけど」
 嬲るように、剣先がおれの頬に触れた。
 男の目がすうと細められ、また口元を歪めて笑う。
「残念ながら、俺、国元ではお亡くなりになったことになってるみたいで」
「……」
「…今更そこへのこのこ戻るのも面倒じゃん? 特に執着があったわけでもなし」
 元々饒舌な性質なのか、それとも何か他に目的があるのか。
 男はそんな奇妙な遍歴を語って、くくと笑い声を漏らした。
「そう思って」
 ちき、と剣先が、おれの頬をなぞる。……その冷たい感触は、僅かな痛みと鉄の匂いをもたらした。
「適当に軍隊潜り込んで、適当に毎日暮らしてたんだけどさあ」
 言葉は平坦で、目元は微塵も笑っていない。
 その様子に、ああ、おれはこの男に殺されるのだと思う。確信する。
 何故だろう。死ぬとか、絶望とかいう感情よりも先に、ああおれはこの男に殺されるのだと思ったのだ。
 当たり前の、事実のように。

「なあ、おまえ誰」

 男は小さく笑って、顔を歪める。
「段違いのナンバー。段違いの立場。…どうやら性格も合わないみたいだし」
 剣先が、じわりと首筋に移った。
 つ、と細く線を描くように、彼の剣先がおれの首筋に跡を残していく。
「……それなのに、俺、おまえ知ってるんだよ」
 その笑みは、苦笑か自嘲か、それとも単なる嘲笑なのか。
「侵入者のナンバー見て、同じ国だって気づいて。何となく、覗きに来ただけなのにな」
 び、と剣先が、襟元を裂いた。
 おれは小さく息を呑む。
(このまま、貫かれてしまうのか)
 ……おれはこの男に殺されてしまうのだろうかと。
 息を呑んで、おわりのときを待ったのだが。
「名前は?」
 せめて最期まで目を開けていようと、きつく男を睨みつけるおれを笑うように、彼は不意に剣を腰のベルトに戻し、かがみこんだ。
 そして、おれと目を合わせるようにして、くっと小さく笑う。
「……なんで、おれの名前なんか、きくんだ」
 掠れた声で問い返せば、冷たい笑顔のまま頬を張られた。
「質問するのは俺。答えるのはおまえ。……ナンバー1/8192? おまえの名前は」
「……」
 じんじんと熱い頬に目を眇め、おれは小さく口元を歪める。
 殴られた拍子に口の中を切ったようだ。じわりと鉄の味が、口内に広がる。
「……しらない」
 挑発するように首を傾げて笑ってみせる。
「どうでもいいだろ。おれの名前、なんてさ」
「……」
 おれの言葉に、男は不快そうに眉を寄せた。
 ……優秀な家系には、優秀な遺伝子が配合され。優秀な子どもが、生まれる。
 きっとこの男も、そういった配合をされて出来た子どもの筈だ。
 隙のない立ち姿や、ただ一人、異国で少佐にまで上り詰めた実力も、確かにそれを証明している。
 けれど今、その男が。
 ……たかだか、同じ出身国のちっぽけなスパイ一人に、不愉快にさせられているのだ。
 何故この男の中に、ただ一度すれ違ったきりのおれの記憶が残っているのかは分からない。
 けれど、確かに彼はおれに拘っている。
 ……取るに足らないナンバーしか持っていない筈のおれに、拘っているのだ。
 その事実は、おれにささやかな満足と自嘲をもたらした。
 文字通り、こんな土壇場になって、下らない自尊心を前面に出してどうするというのか。
 何故、今まで生きてきたように、何とか立ち回ろうとしないのか。
(でも)
 おれは緩慢な脳内で色々なことを考えて、くすりと自嘲した。
(今、上手く立ち回ったところで、何が変わるっていうんだ? …せいぜい、死に方が楽になるか、ならないかくらいじゃないか……)
 そう。確かに、分かっている筈なのに。
「あんたに、言う必要なんてない」
 おれの唇は、なおも挑発的な言葉を紡いで、冷ややかに笑う。
 目の前の男のように、上手くはいかないかもしれないけれど。…精一杯の侮蔑と、哀れみを含んで笑ってやった。
「だっておれの名前なんて、あんたには関係ないだろ? …ナンバー1/64のボッシュには」 
「……」
 その言葉に、目の前の男の目がすううと細められ。
 ああ、殺されたな、と思う間もなく。
 だんっ! と、肩を思い切り冷たい床に打ちつけられて、息を呑む。
「…強情。挙句に生意気」
 救いようがないねおまえ、と男は冷たく告げた。
「……ツッ……」
 そのまま肩にぎりぎりと爪を立てられ、おれは小さく声を漏らす。その声に、男はぴくと睫毛を揺らした。
 そして、とても愉しいことを思いついたように、やおらくつくつと笑い出す。
「……色っぽい声、出すじゃん」
 そのまま、ぞろりと男の指先が、先ほど傷をつけられた首筋を這うように彷徨いだすのに。
 おれは、ぞっとして声を殺した。
「…ッ……ァ…ッ」
 傷口を抉るように爪を立てられ、体が強張る。
 力任せに殴られるよりも堪えるような、じわじわした痛み。
 それを味あわされながら、おれは顎をそらした。
「…なにッ……する…きだよッ…」
 嬲るくらいならいっそ殺せと、おれの中に残された自尊心が吠える。これ以上逆らって、酷い死に方をしたくはないとおれの中の理性が嘆く。
 男はそらされたおれの顎をくいと指で押さえて、しげしげと顔を覗き込んだ。
「及第点」
 そうして、愉しそうに告げられた言葉に、眉を寄せるおれを。
 男はしっかりと押さえつけて。
「……ん、ンンッ…!」

 ―――唇を、重ねた。

「ンッ……ん、んッンンッ……ン!」
 感覚のない手足を動かして、おれはどうにかこの暴挙から逃れようと試みる。
 いっそ舌に噛み付いてやればよかったのだろうが、想像もしなかった行動に、そこまで頭が回らない。
 はっと気づいて、出て行く舌を追うように歯を噛み締めたが、男の冷笑と共に告げられた「遅い」の一言にカッと顔が熱くなる。
「……こんな……嬲り者にするくらいなら、いっそのこと……ッ……ンッ…ァッ…」
 上衣をビッと引き裂かれ、散々鞭打たれた素肌を晒され、おれは更に狼狽した。
 …女の少ない軍隊で、こういった嗜好を持つ者が多く出るのだという話は、聞いたことがあったけれど。
「貧相な体」
 男はクッと笑って、その指先をおれの肌の上でいやらしく彷徨わせる。おれは唇を噛むようにして声を堪えるが、そのおぞましい感触にどうしても僅かに声が漏れてしまう。
「ンッ……フッ…」
 つう、と爪を立てるようにして、むき出しにされた上半身を嬲られる。
 引っかくように乳首に指を絡められ、上ずった声が漏れた。……むずがゆい感覚と、おれの体を震わせる何かに、じわじわと追い詰められていく。
「そういえば、最近女抱いてないしな」
 男が思い出したように呟いて、身を捩るおれを見やった。
 その値踏みするような眼差しに屈辱がこみあげ、おれはぎりぎりと歯を食いしばる。
 縛られた手首。ままならない体。押さえつけられた手足。
 それさえなければ、今すぐにでも。……今すぐにでも、この男を押しのけて逃げ出してやるのに。
(……いや、無理だな)
 おれは即座にそれを、自分で否定する。
 せいぜい、これ以上嬲られないために自分で止めを刺すのが関の山だろう。…目前の男は、それだけの隙のなさを備えている。
(………いっそのこと)
 おれは自分の口の中、落ち着かなく彷徨う舌に軽く歯を当てて考えた。
(……この舌を、噛み切ってしまえば)
 きっととてつもなく苦しいだろう。痛いだろう。おれはぞくと震える背筋に眉を寄せつつも、体中を這い回る男の指先に、それを決意して歯に力を込める。
「…おっと」
「……!」
 しかし、それは呆気なく封じられた。
 男の指が、ぐい、とおれの顎を掴んでこじ開けたのだ。
「さすがに、死体は抱く気にならない」
 くくと冷たく笑って、男はおれの唇を親指でこじ開け、おれにのしかかったままハンカチを取り出し、口の中に押し込む。
「んぐっ…ん、ンンッ……!」
 おれは口の中にぎゅうと押し込まれた布に、喘いで身を捩った。必死に鼻で呼吸をしようとしながら、また己の生き汚さに吐き気をおぼえる。
 男の指先が、アバラの浮いたわき腹をいやらしく辿った。
 おれはそれにくぐもった悲鳴をあげ、身を捩る。
 こんな男の手で体を弄り回され、吐き気を覚えてもいいはずなのに。……それでも、おれの体は着実に熱さを増していく。
 それが嫌で嫌でたまらなくて、おれは首を振った。
 ぐっ、と男の手がおれのベルトにかけられる。
 おれはハッと顔を上げ、せめて身を捩って抵抗しようとするが「おとなしくしてな」の一言と押さえつける腕の強さに、あえなく遮られた。
「……へえ。もう勃ってんじゃん」
 男の声が、愉しげにおれの耳元で響く。
(いやだ……!)
 恐ろしく異常な状況に、おれは吐き気と困惑とを噛み締めながら、男の指先が性器に這わされるのを呆然と見守った。
 幹を上から下までなぞるようにしてから、睾丸をもみしだき、先端をくじる。
「ンッ……ん、んん、グ、ゥッ……」
 くぐもった声に混じるものが何かなんて、考えたくもない。
 ただおれは、ひたすら現実から目をそらすように、もしくはしっかと見据えるように目を彷徨わせ、きつく掌に爪を立てていた。
 ぐちゃ、と先端からいやらしく濡れた音が響く。
 絡むような熱さと、屈辱。そして、困惑。
「…おまえの」
 男は首をふるふる振って喘ぐおれを見下ろしながら、何か言おうとして。
 ふつ、と言葉を途切れさせる。 
 綺麗に整えられた軍服の黒が、おれの目に映った。
 それと、どこか冷ややかな印象を与える金髪と――…碧色の眼差し。
 男の指が後孔に伸びるのをどこか他人事のように思いながら、おれはその眼差しを眺めていた。
(名前はなに、とでも)
 …聞こうとしたのだろうか。
 おれの孔を広げるように、男の人差し指と中指が押し入られる。
 痛みのあまりまた激しく身を捩るおれに構わず、男は淡々と秘部を馴らし続けた。
 そして、僅かに眉を寄せて、唇を噛む。
 それから浮かべられた笑顔は。……どこか、苦笑じみていて。
「グッ……ァ……ゥウウッン…ングゥッ……!」
 唐突に突き上げられ、引き裂かれ、おれは背中を大きくそらせた。
 激痛。…激痛に次ぐ、激痛だ。
 鞭をあてられ、殴られ蹴られ、これ以上の痛みはあるまいと油断していたところに、これだ。
 おれはぼんやりとそんなことを考えながら、どこか生々しい鉄の匂いが増したことに気づき、ああ切れたなと思う。
 男の性器が、ずん、と最奥まで達するまで、さほど時間はかからなかった。
 血で濡れていたからか、多少なりとも馴らしたからなのか。
 男の体が、こんな風に他の男を受け入れられることが出来るなんて、知りたくもなかった。
 おれは情けなくも、ただただ喉も枯れよとばかりに悲鳴をあげつづけていた。
 男が無造作に突き上げるたびに、口の中に含んだハンカチを吐き出すようにして。
 ずっと、ずっと、叫び続けていた。
「…ンッグ、ゥウッ……ンッ……ウウッ…!」
「……ふうん…ッ」
 男の切っ先がおれの中のどこかを擦るたびに走る違和感も、見ないフリ。
「……大分、柔らかく、なってきたんだけどッ……、……おまえさ。…もしかして、向こうでも、男に飼われてたクチ?」
「……ッ……ゥウッ…ィッ……ンウゥッ…」
 …獣じみた声が、布を通して漏れる。
 男のからかうような言葉も、聞かないフリ。
 一瞬でも早く、この責め苦が終わってくれればいいと祈るようにずっと。
 ずっと、ずっと、願い続けていた。
「……ッ…!」
「! ……ンッ……ゥンンーーッ……!!」
 ―――そして、待ちわびた最期の瞬間。
 男がおれの肩に爪を立てて。……おれも自分の肌に爪を立てて。
 おれの中に、熱い飛沫を叩きつけるのを。
 ……ぼんやりと、感じていた。


*     *     *     *      *

 ……冷たい床。錆びたような、空気。
「――…いっそ」
 口から布を取り去られ、無造作に床に倒れこむおれを見下ろす男に聞こえるよう。
 おれは、掠れた声で呟く。
「……いっそ、殺せばいい。一思いに」
 じりじりと痺れるように痛む下腹。じわ、と股間に伝うものは果たして血か、精液か。
「なんで、俺がおまえの言うこときかなきゃなんないの」
 男は冷ややかに断じ、おれの頬に指を伸ばす。

「…おまえが、誰かとか」

 冷たい声は、そのとき、どこか躊躇っているようにすら聞こえた。
 まるで凍り付いているかのように冷ややかで、鋭いような男。
 まだ記憶に拘る自分を嘲るように、どこか戯れめいた口調でおれに話しかける。
「おまえの名前とか。……もう、どうでもいいんだけど」
 優しく愛撫するように、おれの首筋をそっとなぞって。
 男は。
 ……ボッシュは、おれの唇に指先を押し入れた。
 おれはその指に、躊躇うことなく噛み付く。歯を立てる。
 ボッシュは愉しげに笑って、おれの頬を張った。
「生意気で、頭悪くて。そのくせカラダの具合だけは、随分素直で」
 爪を立てるようにして顎を撫でて、ボッシュは小さく哂う。
 気に入ったよおまえ、と。

「……俺が飽きるまで、こうしててやるよ」

 毎日な。
 歌うように、ボッシュの声が、暗い牢屋に響いた。


「……殺せば、いい」
「飽きたら、な」

 
 冷たく響く、おれとボッシュの言葉たち。
 名前とナンバーしか知らない、記憶喪失の軍人と。
 名前とナンバーしかない、役立たずの囚人。

 おれはそのまま、ゆるく瞼を下ろした。
 目の奥に焼きつく黒と赤が、おれに破滅の印象を想起させる。


 次に目を開けたら、世界が終わっているといい。


 ―――そう考えるおれを邪魔するように、ボッシュがまた、おれの肌に爪を立てた。


END.














パラレル大好きでまこと申し訳ない…。

こちらは私が一方的にラブっているとあるお方のイラストに、触発されました。(勝手に)

どうでもいいんですが「俺が飽きるまでこうしてて…」って別の小説でも使ってましたね。
ボキャブラリーが貧困すぎるんだよ…私は……。



モドル