『いと冷ややかな夜にこそ、我が痛みは甘く芽吹き』




 ――頬に、夜の冷たい感触。

 弁慶はその心地よさに目を細め、ひゅうと、喉に滑り込んでくる冷たい夜気に微笑んだ。
 夜は、嫌いではなかった。あえて難点をあげるとしたならば、書物を読むことが出来ないことくらいだろうか。
 けれど、明るい月夜なら、出来なくもない。月の光と、瞬く星の眼差し。
 それがあれば、一晩でも書物に耽っていられるだろう。
 彼はそんな益体もないことを考えながら、がさりと草の中に足を下した。
「…どこに行くんですか?」
 そこへ、ふと声がかかった。
 夜だからだろう。控えめに、抑えられた。けれど、闇をすっと貫くような、澄んだ感触をもった声。
 弁慶は「…まずいところを見つかってしまいましたね」などと言いながら振り返り、微笑んだ。
 ――そこに、どこか戸惑ったような表情で立っているのは、彼が守るべき使命を預かっている少女。
 白龍の神子に選ばれた、春日望美である。
「…こんな遅くに、陣を離れてどこに行くんですか? 明日は出立が早いから、休んでおいてくださいねって言ってたの、弁慶さんじゃないじゃないですか」
 彼女は、いささか警戒した様子で弁慶の笑顔を見ている。…それもそうだろう。
(僕は、彼女に嘘をついたのだから)
 弁慶はその警戒心を、心地よく受け止めた。そう。彼女はいささか無防備に過ぎる。
 それくらいの警戒心は必要だ。――ことに、こんな夜更けに自軍の陣を離れようとしている、怪しい男に対しては。
 福原の戦の後。
 ――勝ち戦であった。……海の上には、もう追いつけないほど遠くまで逃げ延びてしまった御座船と、それから。 残されている、海際で逃げ遅れ、散り散りになりかけている僅かな平家の船。
 大丈夫あなたの望まないことはしないと微笑んで、嘘をついた。
 少しだけ待っていてくださいすぐ行きますからと、嘘をついた。

 そうして、弁慶は残された僅かな平家の船に、追撃の火を放った。

 呆然と弁慶を見た、望美の眼差し。
 その眼差しにこめられた、悲しみと、戸惑いと、怒りと。
 色々な感情がないまぜになった眸で、彼女は真っ直ぐ弁慶を見た。…真っ直ぐ、弁慶を非難した。
 そして、その間、望美の眸はずっと叫び続けていた。うそつき。うそつき。うそつき!
 そんな嘘つきの男に、少女は今また、困惑したような眼差しと、問いかけの言葉を投げる。
(――だめですよ、望美さん)
 弁慶はその問いかけに、うっすらと笑う。 
「…さあ。僕は嘘つきですから。――どこに行くのだと思います? 君が、考えてみてください」
「……なんですか。それ」
 弁慶は笑う。
 少女の、憮然とした様子が可愛らしい。
 嘘つきだといいながら、これで戦は終わったりしないと弁慶を睨みながら、それでもまだ、どこかでこの嘘つきを信用したい思っている。
 それがひどく愚かしく、そしてひどくいとおしい。
「――まって」
 結局、望美はそのままついてきた。
 …ああ。いけないひとですね。
 弁慶は、軽い足音が後からついてくることに、微笑する。それは、あるいは微苦笑であったかもしれない。



*****



「ねえ、弁慶さん。どこいくんですか」
「ふふ。だめですよ。僕の答えは、信用するべきじゃない。…ご存知でしょう?」
「…そんなこと言われても、この状況で弁慶さん以外、誰に聞けっていうんですかっ?」
 望美は憮然としながら、空を見上げ、弁慶の向かう先に首を傾げる。
 ――大変にごたついた福原の戦。
 …それがとりあえず終わりを告げ、次に狙われる可能性の大きい京へ、一旦戻ろうとしている道中。その、真夜中。
 険しい道のりも過ぎたが、まだ先は長い。自動車も電車もないこの世界は、ただひたすら自分の足か、馬などに乗って移動するしかない。
 足が痛くなったら、すぐに言ってくださいね。
 真面目な顔で、弁慶は旅慣れぬ女子どもである望美や朔に昼間、声をかけた。
 足にできたまめは潰れやすく、すぐ血まめになる。そんな傷は、すぐにしかるべき対処をしなければ、たちまち膿んでしまう類のものだ。
 夜の間はゆっくり休んで、足を休めてください。
 …そうも、言っていた。昼間は確かに、そう話していた弁慶なのにと、望美は弁慶の背中をきつく睨みつける。
 別に、弁慶は望美に対して、一緒に来てくれとも、来てもいいですよとも言ったわけではない。彼女が勝手についていってるだけだ。
 それでも、彼女はひどく釈然としなかった。
 ――昼間、他のものたちがいる場所では、いつも通り、穏やかで優しい弁慶。それがどうして、二人きりで話すときになると、決まってどこか意地の悪いことを言うのだろう。――どうして、少し突き放すような様子すら、見せるのだろう。
 もうそろそろ京が見えてくるだろう、そうしたらたくさん身体を休めましょうと、望美も朔と話していた。
 ……弁慶の嘘に気付いてから、気落ちしている望美。その気落ちに気付いているからこそ、朔はそんな風に微笑みかけてくれたのだろう。
(…でも、京についても。……ほんとに、心、休まるのかな)
 望美より、ちょうど三歩先。すたすたと、落ち着いた歩調で歩いていく弁慶。
 彼女が十分ついていける歩調で、けれど彼女に間近まで追いつかせない歩調で。
(こういうところが、すごくずるいと思う。…このひとって)
 いっそわざと転んでやろうか。そして、弁慶に泣きついてみようか。
 わからない。私はこんなに悩んでいるのに、と騒いでみようか。
 ……そこまで考えて、望美は自らの馬鹿馬鹿しい考えにため息をついた。
 恐らく、そんなことをしたら、とても「優しい」弁慶は望美を陣まで連れ帰ってくれるだろう。そして、都合のいい優しい嘘を囁いてくれるだろう。
 ――そう。優しすぎて、嘘とすぐに知れてしまう。そんな言い訳をして、微笑んでくれるだろう。
(ばかみたい。…ばかみたい。私)
 こんな夜更けに、どこに行くかも教えてくれないひとについていって。
 そして、こんな下らない想像ばかりして。
 ……こんな嘘つきのひとが、気になって仕方ないなんて。
 ばかみたい。
 望美は、口の中で小さく呟いた。
 しんしんと降る、夜の静けさ。虫が、遠く鳴いている。
 やがて、二人は森の真ん中、木々が開けて、空の見える場所に着いた。
 足元には、小さな沼がある。…しかし、沼といっても水の色はひどく澄んでいた。水面に、うっすらと映るのは、美しい月。
 弁慶はその沼のほとりにまっすぐひざまづいて、何本か、草を摘み取る。
「……綺麗でしょう?」
 そして、景色に目を奪われてしまう望美に笑いかけながら、摘んだ草を、手にしていた袋にしまった。
「――薬草、摘みにきたんですか?」
 その声に我に返った望美は、いつのまにか間近までやってきていた弁慶に瞬いて、そう尋ねる。
「そうですよ」
 今度は、弁慶も素直に答えた。そして微笑む。……いつものように、真意を覗かせない。ずるい笑顔。
「…それなら、最初からそう言ったらいいのに」
 思わせぶりなこと言うから、何かと思いました。
 望美はそう言って、ぷいと弁慶から視線をそらした。
 夜に浮かぶ、美しい沼地。それを見て、綺麗だと思ったことは間違いないのだけれど。
 僕は嘘つきですから、と、望美にとってはひどく重い出来事だったことを、たやすく引き合いに出す。
 それが、望美はひどく嫌だった。
「……そう言ったら、君はこうしてついてきてくれなかったでしょう?」
 けれど、弁慶がそう言って。苦笑するような、そんな声を出す。
 それに驚いて、望美はきょとりと振り返る。
 ……けれど、振り返ったそこにいる弁慶は、ただいつものように優しい笑顔でいるだけだった。
「…帰りましょうか、望美さん。こんな夜の散歩に、付き合ってくれてありがとうございます」
 そうして、優しくかけられた声。
 それが何だかひどく歯がゆくて、けれど望美はただ「はい」と頷くしかなくて。
 至極自然に、手を、と今更差し出された掌を握って、弁慶と二人、今度は歩調を揃えて歩いていく。



*****


 星々の瞬きが、聞こえるようだ。
 弁慶はそんなことを考えながら、憮然とした顔で、けれど素直に自分に手を取られてついてくる望美を嬉しく思った。
 本当は、あんな薬草すら、口実だったのだけれど。
 ……ただ、弁慶は夜の空気を味わいたくて、自陣を抜け出した。それだけだったのだけれど。
(だって、折角望美さんが出てきてくれたんだから。……少しでも一緒に過ごしたいと、そう思ってもいいじゃありませんか)
 口実のための、口実。
 ただ、素直に散歩に行くんですと言ってもついてきてくれないだろうから、思わせぶりなことを言って歩き出した。
 そして、沼地の横に薬草がいくつか群生していることを知っていたから、それを摘んで、これが理由だったんですと笑ってみせた。
 案の定、それに怒った望美はとても可愛かった。…そんな風に油断してしまったせいで、ついぽろりと本音のかけらが出てしまったが、あれもまた十分許容範囲内の失敗だったろう。
 ――弁慶が犯してきた失敗の中で、許容範囲外だったのは、今のところ二つだけだ。
 ひとつは、京を守る応龍を消滅させてしまったこと。(僕の命ひとつでは、到底足りはしないような重い罪)
 そしてもうひとつは、望美に最後まで嘘をつききれなかったこと。(あそこで僕はもっと上手な嘘をつけた。その筈なのに)
 可愛い、彼の神子。地の朱雀たる彼が守るべき、いとしき白龍の神子。
 つないだ掌の先。
 弁慶を疑って、それでも疑いきれずに、――けれどまた疑って。
 弁慶の言葉一つ一つに、全身を警戒させて。だけど、肝心なところで、疑いを解いてしまう。優しい娘。
「星が綺麗ですね、望美さん」
「…えっ? え、ええと。はい。そうですね」
「月も、綺麗ですね」
「はい、そうですねえ」
「……君も、綺麗ですね?」
「はい、そう……」
 望美はつい反射的にそう答えかけてから、ぱくっと口を閉じた。……弁慶の肩が、笑いの気配にふるりと震える。
「べ、べんけいさんー! 貴方ってひとはどうしてそうなんですか!」
「くく…、いや、す、すみません…はは…、君があんまり素直なもので……」
 かわいいひとだ。
 そう小さく呟く。
 その声に、ひどく反応して、手の先を震わせる娘。
 まだ、少し怒った顔をしているくせに。――けれど、そんなことひとつで、一喜一憂する少女。
(……いけないひとだ)
 弁慶は微笑む。……望美には見えないところで、苦く微笑む。
 掌の先。握ったままの、望美の掌はあたたかい。……生命力に溢れた少女の掌。
 剣を握ることで出来た擦過傷のせいだろう。少しだけ、ざらりとする。けれど柔らかい、手の感触。
(……ほら、もう手を離したくなくなってしまった)
 まこと、わが身はなんと罪深いことだろう。
 気をつけて、そこは滑りますよなんて。そんなことを囁きながら、本当は、一番気をつけなくてはならない自分のことを教えないまま。
 自陣にたどりついて安堵する娘を眺め、いっそあのままどこかにつれていってしまえばよかっだだろうかなんて、できもしないことを考える。罪深くも愚かしい、俗世にまみれたこの自分。
「……あの、」
 自陣の外れに到着して。…望美が惑ったように、弁慶を見上げる。
 彼女の困惑の理由は、勿論依然としてつながれたままの掌だろう。弁慶はその眼差しに首を傾げ、わざとらしく「どうかしましたか」なんて尋ねてみせる。
「どうかしましたじゃないです。…あの。手…」
「…ああ」
 弁慶はそのとき初めて気付いたように、その暖かい掌に目を落とす。
「そうですね。…源氏の陣の中で、こうして手をつないでるわけにはいきませんね」
 さすがに、僕もまだ、譲くんの弓だとかに狙われたくありません。
 笑いながら、けれど弁慶はまだ娘の手を開放しない。
 月が、彼らの上で、そんな風景を真っ直ぐに見つめている。
(ああ。愚かだ。…僕は、本当に愚かだ)
「…べんけいさん」
 望美の声が、もう一度弁慶の名前を呼んだ。
 躊躇ったような、そんな響き。…いけないひとだと、その声に弁慶はまた顔を歪める。少女には見えないところで、そっと手に力を込める。
 そんな風に、僕なんかのことで戸惑ってはいけない。躊躇ってはいけない。
 君が僕のことで心を痛める。それがとても嬉しいのだと、そう言ってみせたら、君はいつものように頬を染めてくれるでしょうか?
 弁慶はそう考えながら、望美の手を離した。そして、懐から膏薬をひとつ取り出して、少女の手に握らせる。
「また、手に擦り傷ができているみたいですから。よく塗りこんでおいてくださいね。その薬は、君に差し上げますから」
「……えっ、でも」
 唐突に離された掌。…そして、唐突に渡された膏薬の二つに戸惑う望美に、弁慶はただ微笑む。
 そう。――今は、ただ微笑むしかできない。
「ゆっくり眠ってください。…今夜は、君と過ごせて、嬉しかったですよ?」
 こんな、当たり障りのないことを言って、微笑むしかできない。
 望美は戸惑った挙句、ただ、その言葉におやすみなさいと頭を下げた。そして、走り去っていく。
 たたた、と遠ざかっていく軽い足音。
 それを聞きながら、弁慶は思う。――僕は、またあの子を逃がしてしまったと。
 握られていた掌のあたたかさ。
 それを、どうしてあんなにあっさり手放してしまったのだろうと、自分を僅かに笑う。
「おやすみなさい、望美さん」
 既に幕に隠れ、見えなくなってしまった望美。
 彼女に向けて弁慶はぽつり、そう呟いて、胸を甘く焼く痛みに微笑んだ。
 どんな嘘つきでも。どんな罪びとでも。
 ――恋はする。
 誰かを恋い慕うことができる。


 それが、ひどく可笑しかった。





















初、弁慶×神子です。
もしかしたら、イベントに関しては言えば、ヒノエより弁慶の方が好みかもしれないと、書きながらふと思いました。
こういうひと、だいすきです。(腹黒でありながら、どこかピュアなところとか)
まあ大好きだからといって、うまくかけるとは限らない、の、ですが!(まったくだ)

熊野組は、よいですよね。(敦盛きゅん含め)


……そして弁慶さんは「貴方」じゃなくて、「君」だとやっと気付けました。ありえないこの間違い……。