『嘘吐きはキライですか?』
――それは、春けきのどかな昼下がりのこと。
京邸にて、望美は朔に借りた書物を眉根を寄せて読んでいた。
…その表情は、控えめに言っても、あまり楽しそうではない。
「…勉強ですか? 望美さん」
「あ。弁慶さん」
そこへ、弁慶がひょいと顔を出した。
ふふ、と彼は望美を眺め、どこか楽しそうに笑うと、勉強熱心なのはいいですね、と言う。
「………えーと、勉強熱心っていうか…」
その言葉に、あはは、と望美も愛想笑いを覗かせた。
しかし彼女はその笑みをすぐ苦笑に変えて、指で紙面をなぞる。
「…いいかげん、字、読めないってのも恥ずかしいじゃないですか? 毎回、譲くんに解説してもらうのも申し訳ないし」
「なるほど。それで、朔殿に書物を借りて勉強中…ということですね」
「はい。そういうことなんです」
恐らく、彼女とともに時空を越えた譲にとって、彼女に頼られることは決して迷惑ではないだろう。
しかし弁慶はあえてその点を訂正せず、手にしていた盆と玉露を望美の前に差し出し、微笑みかける。
「よかったら、少し休憩しませんか? 朔殿から、玉露を預かって参りました。…勤勉なる白龍の神子殿に、ご褒美をと」
「…えっ、ほんとですか?」
現金なもので、弁慶の言葉ひとつで望美はみるみる表情を明るくさせ、彼が携えてきた茶菓子に目を輝かせる。
「朔はこっちに来ないんですか?」
「ええ。何やら、景時に言伝を預かっているようなのですが……当の景時が見当たらぬようで」
探しに行ってみるということでしたが。
ここどうぞ、これはご丁寧に、と会話を交わしつつ腰を落ち着けた弁慶に、望美はそうなんですか、と小首を傾げる。
「景時さん、忙しいんですね。…えっと、軍奉行、でしたっけ」
「そうですね。…今は戦が始まっていないとはいえ、九郎に次ぐ立場であり、鎌倉殿からの覚えもめでたい役柄ですから」
どうぞ弁慶さん、ああ、ありがとうございます。
お盆から椀を手に取り、にこり笑って差し出す望美から、弁慶は嬉しそうに椀を受け取る。
「…はー、でも弁慶さんが来てくれて、なんかちょっとリラックスしました」
お茶を一口含んでから、望美も思わず、と言ったように呟いて、べたっと頬を卓に押し付けた。
何事にも、集中して取り組む性質なのだろう。
いつも彼女と一緒にいる筈の白龍や譲が席を外しているのも、望美に気を遣ったからではないだろうか。
(…もっとも。それはいささか、裏目に出ているような気もしますがね)
熱いお茶を一口啜ってから、弁慶は望美の口にした不可思議な単語を復唱してみた。
「りらっくす…?」
「あ、ええと、落ち着くってことです。…違うかな。ええと、気分転換っていうか」
「ああ、そうですか。…君たちの世界の言葉は、興味深いですね」
りらっくす、りらっくす……、と何度も復唱している弁慶に、望美はくすりと笑った。
「…弁慶さんこそ、本当勉強熱心ですよね。そうやってどんどん私たちの世界の言葉も、吸収していっちゃってるみたい」
「気に、障りましたか?」
「まさか! …嬉しいです。興味もってくれたみたいで」
えへへ、と笑って、望美は慌てたようにごくん、とお茶を飲んだ。…そして、熱い、と口を押さえて眉を寄せる。
「大丈夫ですか、望美さん? あまり、慌てて飲んではいけませんよ…?」
「…ふぁい…」
あつうい、と小さく舌を出しながら、望美はちょっと笑って頷いた。
唇から、ちらり、覗く桃色の舌先。
その先に触れて温度を確かめたい誘惑を押さえ、弁慶は「気をつけてくださいね」と頷く。
「――でも、弁慶さんって本当、色々なことたくさん知ってますけど」
落ち着いたのだろう。舌を口の中に引っ込めてから、彼女は何気ない調子で尋ねた。
「どうして、そんなに勉強したいって思ったんですか? …ええと、向学心の理由っていうか」
あれ、でも向学心に理由なんてないのかな。
言っているうちに、だんだん分からなくなってきたらしい。
首をかしげながらも、でもやっぱりきっかけってありますよね、と彼女は問いをまとめ、弁慶に真っ直ぐぶつけてきた。
小動物にも似た、その眼差し。
無邪気ゆえに、曲がったところのない、曇りなく真っ直ぐな。
(…さながら、鋭き剣の切っ先の如く)
そのような眼差しで見つめられることが心地よく、弁慶は口元にうっすら微笑みを浮かべた。
朔手ずから淹れたのだろう玉露は舌に味わい深く、それを味わうふりをして、弁慶は少しだけ沈黙する。
…さて、どうしようか。
ゆるり、手の内で椀を回し、小さく波立つ緑色の湖面に目を落としながら、彼はゆっくりと答えた。
「――歯が、あったそうですよ」
…と。
「………は?」
望美が、ぽかんと口を開けて復唱する。
いや、あるいはそれは「ハア?」と呆れて発した声なのかもしれない。
…どちらにしても、弁慶の発言は彼女の驚きを誘うに成功したようだ。
「えっ? あの、弁慶さん、それってどういう意味ですか?」
先ほど書物に目を向けていたときと似たような表情――…、眉を寄せて眉間に皺を作った娘の顔つき。
それを可愛らしいなと思いながら、弁慶は説明する。
「何でも、僕は生まれたときから歯があったそうなんですよ。…まことかどうかは知りませんが」
玉露の湖面。ゆらゆら揺れる、緑の湖面。
それをまた口元に運んで、そっと啜りこむ。
そう、何事も少しずつがいい。急いてはことを仕損じるのだから。
(……もう、十年くらい若い頃だったら、そんな意見、鼻の先で笑ってしまっただろうけど)
血気盛んだった自分を思い起こし、弁慶は玉露と卓の向こうで、彼の言葉をつかみかねている望美を眺めた。
…あの頃の自分が、もし彼女に会っていたら、自分はどのように彼女に接していただろうかと。
そんなことを、ふと思った。
「――まあ、ともかくそういう理由で僕は家のものに嫌われましてね。…結構な荒くれでしたから、それも嫌われる要因だったのでしょうけれど」
「えっ…、べ、弁慶さんが荒くれ…!?」
「ふふ、信じられませんか? それは、光栄ですね」
目を見張って、純粋な驚きを表す彼女。
木々の間から透けて見える陽光のような、生命の輝きに満ち満ちた娘。
(きっと、)
弁慶は、そんな少女を眩しく見つめながら考える。
――きっと自分は、躊躇うことなく彼女を奪っただろう、と。
…この京から、かの存在をもぎ取ったように。
躊躇いもなく、後悔も知らず、この少女に真っ直ぐ手を伸ばしたことだろう、と。
「……。……だからかもしれませんね。僕は早くから叡山に預けられ、仏門に入るべく修養を積んでいました。…が、結局、今のように薬師をしていたり、源氏の軍に味方していたりと、仏門の徒どころではなくなっておりますけれど」
――それが良かったのか悪かったのか、今の弁慶にはよくわからなかった。
今こうして彼女と、彼女の八葉として向かい合う自分が、十年前の自分でないことも。
あるいは、勉学にのめりこむだけではいられず、結局今のように中途半端な面を抱えこむことになったことも。
…どちらにしても、結果は変わらないのだ。
弁慶はきっと、どのような形だったとしても。――きっと、こうして望美と向かい合ったことだろう。
確信にも似た。根拠のない思い。
そんなものが胸を焼くのを、どこか心地よく思いながら、弁慶は続ける。
「だから、きっかけというなら、きっとそこが始まりですよ。…僕が、曲がりなりにも勉学に励むことになった理由は叡山にあり、叡山に行く理由は、生まれたときから生えていたという、この歯でしょう。……ふふふ、狐につままれたような顔をしていますね?」
「……え、えーと。…ハイ。……狐っていうか…、弁慶さんに、化かされたみたいな」
ごまかされた。
そのことに、ようやく気付いたのだろう。
望美は少しふてくされたような顔で、弁慶さんのが、狐よりタチが悪いかもです、と小さくぼやいている。
(別に、ごまかしたわけではないのですけどね)
幼い仕草や表情に苦笑して、弁慶は「怒らないでください、望美さん」と少女に手を伸ばした。
そうして、別に怒ってるわけじゃ…と困ったように眉間の皺をほどいて、伸ばされた弁慶の手に、おずおず自分の手を乗せた望美に、弁慶はまた、笑いかけた。
「…確かめてみましょうか?」
……多分、この笑顔は、いつものそれとは違うのだろう。
望美の表情が、やや戸惑ったような、あるいはおそれているような、複雑な色合いのものとなる。それがはっきりと分かる。
けれど、弁慶は一瞬も躊躇うことなく、望美の手を口元に近づけ、その細い指を何本かとらえてしまうように。
「……ッ」
ひとさしゆび、なかゆび、くすりゆび。並んだ指の、節のあたりまでに、柔らかく、爪を立てた。
勿論、皮を食い破るなどという野蛮な真似はしない。
そうっと、優しく。獣の愛撫の如く、おとなしく。
(……そう。きっかけはどうあれ、……過去がどうあれ、今がどうあれ)
結果は、変わらないのかもしれない、と弁慶は思う。
「――…どうですか? この歯は、件の流言を信ずるならば、二十余年ものだそうですが」
それほど年季が入った、立派なものに感じられますか?
噛まれ心地はいかがですか、と弁慶は、完全に硬直してしまっている望美に、そ知らぬふりで話しかけた。
(…なぜなら、たとえ今だろうと昔だろうと。…僕は、このひとを奪わずにはいられないのだろうから)
問題は、その方法。それから、かける時間の長さだ。
ほんの僅か噛み締めた、望美の甘い指の感触。
それを思いながら、弁慶は硬直している望美の指を、優しく卓の上に解放してやった。……すると、瞬く間にその指が、ザッ! と音を立てて望美の元まで引き寄せられる。
「なななななっ…! な、なにするんですか弁慶さん!」
「…ふふ。可愛い人ですね。そんなに真っ赤になってしまって」
「真っ赤になりますよそれは! も、な、なに考えてるんですかっ! わかるわけないです、そんなの!」
「おや、そうでしょうか?」
「そうですよっ!」
信じられないっ、と、毛を逆立てた子猫のようにして自分を睨みつける望美に、弁慶は「じゃあ」と頷いて、ひらり、掌を卓の上に置いた。
「……試してみましょうか?」
そうして、くすりと笑う。
「分かるかもしれませんよ?」
……そうして、それ以上は言わず、ただ、望美が手を伸ばすのを待つ。
「………」
望美の目が、僅かに宙を踊った。
どうしよう、どうしたら、とほんの一瞬、迷ったように唇が動く。
……けれど、彼女の決断は速く、そして潔かった。
「―…ッ」
ぱっと、弁慶の手を握る少女の掌。
細いくせに、柔らかいくせに、けれど剣を握ることに長けた娘の掌。それが、心地よく、弁慶の手をとらえ。
「………」
「………」
「…………」
そして、歯が絡みつく感触。
…まるで、何かしなやかな動物に、甘噛みされているような。
指先に歯が纏いつく、むずがゆい感触。
「……わかりましたか?」
「………」
…気付くと、望美の唇はとうに離れていた。どうやら、彼女が噛みついていたのは、ほんの一瞬だったらしい。
惜しいことだ、と弁慶はぼんやり考える。
指には、痕すら残っていない。
「……、そうですね…」
「………」
答えを待つ望美。
…僅かに期待するような、そんな眸に弁慶は真面目な顔で、すみません、と首を傾げた。
「……やっぱり、短すぎたみたいで。……もう一度は、駄目でしょうか?」
「………ッ!」
だめですっ!
…答えは、一呼吸ためてから。
仕方ないですね、と弁慶はその答えに頷く。
……ああ、本当に惜しいことをしたものだ。
痕を残すくらいに噛み付いてくれないとわからない、くらい、言えばよかった。
ふと外を見やれば、いつの間にか結構な時間が経っていたらしい。ここへ来たときよりも、大分陽が傾いていた。
恐らく、そろそろ望美に気を遣って離れていた白龍や、譲も戻ってくるだろう。……潮時だ。
「つい、長居してしまいました。…では、僕はそろそろお暇しますね、望美さん」
「……ハイ」
返す望美の表情は、不貞腐れたというより、もう完全な膨れ面だ。
そんな顔がまた可愛らしく、つつけばつつくほど反応が返ってくるのも楽しくて仕様がない。
まるで幼子の恋ごとのようだと望美には見えぬよう苦笑し、弁慶は現れたときと同様、玉露と盆を携えて立ち上がる。
「…弁慶さんは、嘘吐きですね」
そうして立ち上がった彼の背中に、望美がぴしゃりと、言葉を投げつけてきた。
…勉強のきっかけだとか、そういうことを結局、煙に巻いてしまったことをさしているのだろう。
弁慶はただ笑う。
笑いながら尋ねる。
「…望美さんは、嘘吐きはお嫌いですか?」
優しく問われたその言葉に、望美は即座に。
「はい」
…きっぱりと、迷いなく答えた。
「――キライです」
弁慶に顔を向けないまま、きっぱりと。……顔を、真っ赤にしたままで。
(……嘘吐きですね、望美さん)
そんなに顔を真っ赤にしたのでは、何もかも、分かってしまうのに?
…彼はしかし、そのことには言及せずに。
「そうですか」
部屋を出る間際。
……一瞬だけこちらを向いた望美と目を合わせ、微笑む。
「…僕は、好きですよ」
そうして、ただ一言だけ。
――じわじわと、罠にかけるように。
……嘘吐きの、狡いことばで縛るように。
あなたがすきですよと。
――嘘吐きのことばに紛れて、ほんとうを流すように、囁いて。
そうして、彼女を奪う手順を、整えるのだろう。
――黒い中でもピュアな彼がいいといったのは、この口でしょうか?(口をむにょんとひっぱりながら)
嘘ばかりですみません。ヒイイ。何でこんなネタに。
弁慶さんは、生まれたときから歯が生えていて、乳母の乳首を噛み切ったとかいう伝説があるそうです。
結構有名な話ですが、しかしえらくワイルドな話ですね。(乳首痛いよ)
なお、史実=遙か3というわけではないのは……このゲームの創作をやるものにとって、結構なわなだなあと。
今回、弁慶さんが「家のものが」云々といってる台詞で、特に思いました。どうなってるんだろーこのひとの家族…。(兄以外)
あと、ここには玉露あっていいんですかなんていう疑問はそのう…。
そっと、胸のうちにしまっていただけると、嬉しいんです。