『狗の在り方』
ピッと、軽い音を立てて頬に返り血が飛んだ。
手にした薙刀から伝わるのは、肉を抉り骨に当たる、固く、重い感触。構わず、そのまま深く突き刺す。
眼前の兵から、断末魔の呻きが零れた。
「……げッ」
ぼとぼとと、赤黒い血が、地面に吸い込まれていく。薙刀を伝い、弁慶の手元まで体液は零れてきた。
薙刀を深く腹にくわえ込んだ敵兵は、消え入りそうな声で、怨嗟をこめて呻く。
「源氏の…、狗、めッ…!」
「………」
その声を最後に、がくりと力尽きる。
弁慶はそれを黙って見守ってから、ぐいと薙刀を引いた。――兵士の身体が、どさりとその場に倒れ落ちる。
気休めだと知りながらも、その身体に一振り、塩をまいておいた。…倒した敵兵を怨霊にされるのは、つくづく面倒で厄介なことだ。
(……正しく言えば)
頬に飛んだ返り血。
それを拭うこともせず、弁慶は死体をちらりと一瞥して、訂正する。
(僕は、源氏の狗じゃない。……自分の過去に縛られている、狗なんですよ)
――勿論、倒れ伏した敵兵にとって、そんなことはどうでもいいことだろう。
弁慶にしても、別にどうしても訂正したかったというわけでもない。
彼は、死体を見下ろして、うっすらと笑った。それは、場違いなほどにのどかな苦笑だった。
ふと手元を見れば、そこは赤黒い体液でじっとりと湿って。
弁慶は、それが更に可笑しいようで、ひそやかに笑みを深めた。
狂気じみた笑みだ。
たとえ、ここに自らを映すものがなくとも、弁慶はそれを間違いなく確信できた。
「――弁慶さん!」
そこへ、彼の名前を呼んで、心配げに少女が駆け寄ってくる。……白龍の神子である、娘。
……そう。この笑みはきっと、彼女には決して見せたことのないような。
半ば以上、気狂いのような笑みなのだ。
「大丈夫でしたか? …あの、怪我は」
足元に倒れ伏している死体に一瞬怯んだようだったが、すぐに彼女は弁慶に駆け寄ってきた。
……倒れている死体は、恐らく先だっての戦での残党なのだろう。
三草山での戦からの帰軍の途中。死なばもろともとばかりに、突然物陰から出てきた数十人ほどの兵。
突然の襲撃に、源氏勢は僅か浮き足だった。
そうでなくとも、勝ち戦の高揚と、同じほどの疲労が付随していた帰路の途中だ。
…確認はできていないが、何人かは斬られたかもしれない。
また、唐突な襲撃であったため、神子である望美や朔を遠ざける暇がなかった。
「…大丈夫ですよ」
弁慶はうっすらと微笑んで、ちらり、望美の剣に目を走らせた。
白龍が具現化したという、珍しい両刃の剣。それは、僅か赤い体液に濡れて。
「……、…え、あ。……私も、平気です。大丈夫です。……弁慶さんが大丈夫なら、よかったです」
その視線にまごついたのか――あるいは、まだ慣れぬ戦に、惑っているのか。
望美はかたり、切っ先を地面に向け、ひきつったような笑みを見せた。
(――何も無理をして笑うことは、ないのに)
血で濡れた刃。……ああ、彼女も人を殺めたのだろう。あるいは、傷つけたのだろう。
神聖な、神がかった存在である筈の望美。
……その彼女が、ひとを斬る。
(痛ましいことだ)
反射のようにそう考えてから、弁慶は思わず笑い出しそうになってしまった。
痛ましい? ……彼女が哀れだと、自分はそう思っているのだろうか?
(…ばかげている。僕に、そんなことを考える資格はないだろうに)
――僅かな残党だ。
じき、この騒ぎは静まることだろう。
現に彼らの周囲には、源氏勢か、倒れた敵兵くらいしかいない。
…弁慶は、ふと、息を切らせて目前にいる少女に、今更のような問いかけを投げた。
「望美さん…、他のひとたちはどうしたんです?」
「え? …あ、九郎さんや景時さんは、もっと先の方が危ないって…」
「…白龍や、朔殿は?」
「……安全そうな場所に、戻ってもらいました」
「……。……では、何故君はここに?」
恐らく、譲たちをこの混乱の中で振り切ってしまったのだろう。
望美は弁慶の問いかけに、答えに窮した様子で俯いた。
「…。弁慶さんが戦ってたのが見えたので、走ってきてしまったんです」
「………」
何故、そのような愚かなことを。
弁慶は冷ややかに目を眇めた。
……しかし、すぐに顔を上げた望美の目が――真っ直ぐに弁慶をとらえるその目が。
…つかみがたくはかりがたい、純粋な色を宿しているようだったので、つい言葉を見失ってしまう。
「いけません、か。……あなたのことを、私が守りたいと思ったら」
尋ねる言葉もまた、ひどく純粋であどけなくすらあり。
……迷わず、否定するべきだ。
迷わず、叱責するべきだ。
そう思いながらも、口がうまく動かない。
手が、血に濡れて赤い。
足元に絡みつく、過去のてのひらが重い。
動けない。――まるで底なし沼のように、ずぶずぶと沈んでいくようで。
「…いけない、ことですよ。望美さん」
重い口を開いて、ようやくそれだけを口にした。
――君は穢れなき場所にいるべき、龍神の神子なのだから。
こんな場所で、刃を握っていてはいけないのだ。
(僕が、そう仕向けたようなものなのに?)
矛盾している、と弁慶は胸中吐き捨てる。
怨霊がいる。その怨霊を利用して、平家は軍を動かしている。……だから、それを封印してもらいたい。
戦に協力してほしい。
戦を終わらせるため、戦を手伝ってほしい。
(…何もかもが、矛盾だらけだ)
そして今、弁慶は、自分で仕組んだとおりに戦に参加して、自分を助けようとして走ってきた望美を非難している。
…そんなことを、言えた義理ではない筈なのに。
「……そうですよね。ごめんなさい」
望美は弁慶の言葉に、視線をさまよわせた。
ああ。……そういえば、彼女の手も血で汚れている。……拭わなくてはならない。
なのに、何故自分はいつまでもこんな話をしている?
さあ、早く安全な場所まで彼女をつれていかなくては。
「…でも」
口が重い。……どうしたことだろう。いつもなら、もっと滑らかに動く筈のこの舌が。
ただひとり、目の前の少女一人に、何も言えないでいるなんて。
「…でも、弁慶さんが辛そうに見えたんです」
そうして、黙っているしかできない弁慶に、彼女はそう呟いて、戻ります、と身を翻した。
「……望美さん!」
手を伸ばす。――けれど、伸ばした手は、血で濡れている。
…こんな手で、自分は彼女に触れようと?
(けれど、引き止めないと望美さんが)
……そう、引き止めなければ、彼女は安全な場所まで、一人で走っていけるじゃないか?
踊る髪の毛の、先。
迷いなく走っていこうとする、少女の足。
弁慶は、結局何一つできずに立ちすくんだ。
…きんと冷えた空気。もう望美の背中は、他の源氏の兵どもに紛れて。
(――僕が、辛そうに?)
見下ろせば……、薙刀に、こびりついた赤黒い体液。それは既にじわり、乾きかけてすらいて。
倒れ伏した敵兵は、恨めしげに目を見開いて、弁慶を見上げていて。
弁慶は、また笑った。
……苦笑じみた、自嘲めいた笑顔なのだろう。きっと。
くつくつと笑いながら、頬に指を当てる。……頬に飛んだ返り血を引き伸ばす。…ああ、ばかげている。何もかもが。
駆けていった望美。
……ああ、あのとき引き止めなくてよかった。そうでなければ、…この指についた血が、頬についた血が、彼女の身を穢してしまっていた。
穢れは、できうる限り少ない方がいい。…そう、これ以上彼女を苦しめることはない。
人のことを……、怨霊のことすら、傷つけることを躊躇っていた少女なのに。
(それなのに、僕は)
小さくため息をついて、弁慶はまた前を向いた。
被り布を目深に被りなおし、他に敵兵がいないか――周囲を見回しかけて歩き出した。
前方が苦戦しているという話だ。合流して、九郎らの手助けに回るべきだと思う。
そう考えて、歩き出す弁慶の耳に、「弁慶さん」と、……立ち去った筈の娘の声がかかる。
「……」
弁慶は、その声に驚いて振り返った。……いや、あるいは半ばは呆れていたかもしれない。
安全な場所に行った筈ではなかったのだろうか。
「望美さん。……戻ってきてはいけないでしょう。早く、朔殿たちのところまで」
「……、分かってます。行きます。……だけど」
いったん走っていってから、また、走って戻ってきたのだろう。
僅かだが、息を切らしている少女に、弁慶は眉を寄せて――「何かあったんですか」と尋ねる。
「何もないです。……私には、何もないです」
「…じゃあ、どうして」
「――何かあったのは、弁慶さんじゃないんですか?」
彼女は、躊躇いがちだったが…、しかし真っ直ぐに顔を上げて、弁慶に告げた。
眉を寄せる弁慶の躊躇いや、重苦しい痛みを見抜くような、その澄んだ眼差し。
「…そんな風に、見えましたか? それは、……心配してもらって申し訳ないのですが」
その眼差しに気おされそうになる。
それをごまかすように、弁慶は苦笑してみせた。
僕は、変わりありませんよ、と返り血の飛んだ顔で、笑ってみせた。
「……」
しかし、向けられる望美の眼差しは揺るがない。
「…うそ」
小さく呟いて、弁慶を睨む。……その強さも、揺るがない。
「…弁慶さん、嘘ついてる」
そう断言する。
その確信はどこから来るというのだろう? 弁慶は呆れた素振りで、更に苦笑した。
「……、困りましたね。僕は平気なんですよ? それより、君の方が疲れているのかもしれませんね。…さあ、早く朔殿たちの場所まで戻った方がいい。送りましょう」
「………」
望美の眼差しが、続けられる弁慶の言葉に、僅か揺らいだ。
しかしそれは確信が鈍ったゆえの、揺らぎではない。……なお嘘をつこうとする弁慶に対して、傷ついている。それゆえの、揺らぎ。
それが分かっていて、けれどそれでも弁慶は嘘を拭い取ることができない。
血で汚れた神子の掌。…それを、拭うことができないのと同じで。
汚れた手で、汚れを拭うことはできないのだ。
嘘にまみれた唇では、嘘を重ねることしかできはしないのだ。
「………わかりました」
望美は、しかしそれでも俯くことなく。
…まるで挑戦するような具合で、弁慶のことを見上げ。
「わかりましたから、ちょっと屈んでください」
――そんな、よくわからないことを言い出すのだ。
「…? は? いえ、あの……今はそんなことをしている場合では」
「――いいから、屈んでください! …ちょっとでいいんです。そしたら…、おとなしく戻りますから」
語調も荒くそんなことを言われ、弁慶は戸惑いながらも望美の言うがまま、身を屈めた。…横を慌しく通り過ぎていく、源氏の兵らの目線が、やや痛い。
「…そうです。それでいいんです」
おとなしく、望美の前で膝を屈めた弁慶に、少女は鼻息荒く頷いた。
そして、一体何が起こるのだろうと内心恐々としている弁慶の被り布に、ぽんっと少女の掌が乗せられた。
「……?」
柔らかい、けれど連日の剣の練習などで、少しだけ固くなった少女の掌。
それが、弁慶の頭を、何度か往復して。
「……望美さん?」
「黙っててください。……もういいんです。…言わなくていいんです」
「……」
まるで、幼子にそうするように。
少女の強張った手が、弁慶の頭を愛撫する。
「………」
もうちょっとですから。
…まるで、そう言うように。
あなたは頑張っているよ。
……あるいは、そう言うように。
彼女の手は、弁慶の心を、じわじわと溶かしていくようで。
「……。……望美さん」
――ああ。九郎や景時がこれを見たら、なんと言うだろう?
そう考えながら、弁慶はうっすらと苦笑して。……今度こそ、本当に苦笑して。
少しだけ泣き出しそうにもなりながら、それをなんとおこがましいことだろうかと、思うのだ。
布越しに触れる少女の手の、暖かさ。
それを感じながら……、弁慶は頬を汚す返り血や、薙刀の重さを、僅か、忘れられたような気がして。
消えない過ち。消えない、過去。
そんなものは依然として、弁慶のうちにあり。
――自分は未だ過去の狗。
愚かしい、罪人のまま。
「……弁慶さん、勝鬨が」
「…ああ。…終わったんですね」
「はい。……そうですね」
触れる手の、暖かさ。
それを直接感じたいと渇望しながらも、けれど弁慶は顔を上げることもできないで。
――自分のような罪人が、彼女に光を求めることなど、間違いだと知りながらも。
血に濡れた掌でも、躊躇いなく自分に手を伸ばす。
…血に汚れた自分でも、躊躇いなく手を差し伸べる、彼女に。
(……まるで、胸を灼くような)
そんな、眩しさすら感じて。
躊躇いがちに、屈めていた背を伸ばして、空を見上げてみた。
そして、傍らにいる少女を眺めていた。
空は、ひどく青く澄んで。
「皆のところへ、戻りましょう」
そう呼びかける望美の声もまた、清く、澄みきった流れのようで。
「…はい、そうですね」
ぎこちなく笑って。
弁慶は、まだ血で汚れた手で、差し伸べられた望美の掌を柔らかく、握り締めた。
弱弁慶。
三草ということは、まだまだ初期も初期なのですが……戦の時期だと、このくらいしか……思いつかなく…て…。
(福原だと、弁さんが綺麗に一掃されていらっさるので)
ヒノエもそうなのですが、弁さんも結構お話のシーズンを決めるのが難しいです。
素直にED後とかにしたらいいと思うのですが……、もう少しED前で色々いじくりまわしたく。
そして今週は時間が足りず、弁さんのみの更新とあいなりました…。
ヒノ神子中心のサイトなのに……すみませんです。
よければコメントとかいただけると幸いです。
……なんてぬけぬけと、言ってみたり。
……しかし弁さんは、とっても難しい、ですね…!!