『禁句』






 ――たとえばその言葉が彼女を奪い、あるいは傷つける絶対的なものだったとしても、彼はそれを口にせずにはいられないだろう。
 たとえそれが、愛という名の身勝手な詭弁だったとしても。
 彼は、その言葉を口にすることを躊躇ったりはしないだろう。

 その言葉がもたらすものが、彼女を傷つけることになったとしても。

 ――決して、躊躇ったりはしないのだろう。



*****



 つい先日まで春だと思っていたのに、気が付けば桜は散り、緑葉も眩しい夏の季節となっていた。
 鼻先に香る、むせかえるような夏の匂い。
 花の香、草の香、……それから、潮の匂い。
 嗅ぎなれたそんな匂いが立ち込める、夏の風景。歩き慣れた境内。
 ヒノエの姿に気付いた舎人が頭を下げるのに手を振って、彼は境内の砂利を踏みしめ、木陰を作る木々の合間に足を踏み入れた。
 燦々と照らす太陽。
 その光を避けるように物陰に入り、ヒノエは先ほど聞いたばかりの情報を思い返し、一人呟いた。
「速玉神社に熊野別当がいる…、ねえ?」
 そうして、初耳、と低く笑う。
 どこか可笑しげな、けれど、僅か苦笑じみた笑みは、慣れ親しんだものたちに偽りを述べていることに対する小さな罪悪感だろうか?
 彼は手にした文を――いつの間にか背後に控えていた烏に渡し「速玉神社に」とだけ囁いた。
 ヒノエの耳であり、目であり、声でもある彼らは、は、と短く答えた後、姿を消す。
 その文が届く頃には、恐らくヒノエたちも速玉神社に到着していることだろう。
 ……そして、そのくらいが、いいかげん潮時だろう。
 熊野水軍の協力を得たがっている源氏の使いである、望美たち。
 また、舎人には望美らと共に本宮に着いた頃、同様に平家からの使いもあったと聞いている。
 ――ああ、本当に潮時だ。
 ヒノエは陽射しを照り返す白い砂利を眺めながら、目を眇めて考える。
 今、彼の眼前を流れる速き流れ。
 幾重にも絡まるように流れる、潮の流れ。……それを正しくとらえ、船を操らねばならない。
 そうしなければ、彼の大事なものを護ることも出来はせず、ヒノエが操る船は転覆することだろう。
(参ったね――。こいつは難しい選択だ)
 考えて、苦笑する。……本当は、そう難しい選択でもないと分かっている筈なのに。
 簡単なことだ。
 ヒノエは、――否、熊野別当は、今までと同じく中立を貫けばいいのだ。
 源氏に勝ち目はなく、さりとて平家にも先があるわけではない。
 関わる必要はない。熊野はこれからも、これまで同様中立であればいい。
 それが最も安全で、分かりやすい道だろう。
 ――問題は、ただ安全で分かりやすい道では納得しない自分がいることだ。
 熊野別当であり、熊野水軍の頭領である自分、ではない。
 ただの一人の男である、ヒノエという自分が、納得しかねているのだ。
 そこへ聞こえた、じり、と砂利を踏みしめる音。
 ……こんなときすら、どこか軽やかに響く足音。
 それを響かせて、物陰に佇むヒノエの視界に、身軽な服装をした少女が飛び込んでくる。
 宿場として提供した部屋に、荷物を置いてきたのだろう。
 剣を一本腰に差したまま、彼女はぱたぱたと童女のように境内に降りてきた。
 きょろきょろと辺りを物珍しげに見回す仕草も、そのまま童のようだ。
 その姿はどうにも可憐で幼げで、先にあった三草の戦や、怨霊との戦いにおいて優れた指揮をとる《源氏の神子》とは思えない。
 誰かを探しているのだろうか。
(…なあ、それはもしかしてオレを探してるのかい?)
 きょろきょろと、どこか不安げにも見える顔で誰かを探す、望美。
 けれど、そんな彼女に声もかけずに立っているうちに、望美はまた違う場所に駆け出していってしまった。
 迷いのない、およそ少女らしくない足取り。
 それを眩しく見送って、ヒノエは、ふ、と自嘲の混じった吐息を漏らした。
(…今からでもいい。駆け寄って、追いついて、どうしたの姫君、とかさ)
 ――そうして、いつものように声をかけたらいいのに。
 声をかけて、そして、笑いかければいいのに。
「…あーあ。とんだ腰抜けだね。…オレも」
 ヒノエは小さく呟いて、ハア、と嘆息した。
 恋するものは、ため息が多くなると言う。あれはどうやら本当だったらしい。
 全く、腑抜けているといったらない。
(難しい選択だよ。姫君。……わかってるのかな? オレは、今お前一人のために、全てを投げ出しかけているんだよ)
 そう。たかだか娘一人のためだけに、彼が持つ全てを投げ出してもいいのではないかと、思いつつあるのだ。
 彼が持つ全て。
 ヒノエという男が持っている全て――、あるいは藤原湛増という男が持っている全てを。
 …慣れぬ剣で手を傷だらけにし、足もまめだらけにして。
 自分ではない誰かのために、あるいは怨霊のために泣き、何か出来ないかと考える、賢くて愚かな娘。
 彼女が源氏に、あるいは平家に与える影響を見極めようとしていた筈だったのに、次第にそれすら見えづらくなってきた。
 真っ直ぐなのだ。
 呆れるほどに、真っ直ぐなのだ。
 見極めるために、あるいは見定めるために近づいた筈の自分が、手を出したくなるくらい。
 また、彼女のために何かしたくなってしまうくらいに、望美の行動は単純で、真っ直ぐで、そしていとおしいような眩しさに満ちて。
(勝てない戦に手を出すヤツは、愚か者だよ)
 出来ないと決まっていることに手を伸ばすのも、また愚か者であるように。
 誰かが泣くと分かっていて、手を差し伸べるのも、またばかげているように。
 必要なことと、そうではないことを見極めることをしなければならない。
 ヒノエは、もっと冷静になるべきだ。
 いつもそうであるように、いつもそうであったように、今もまた冷静になるべきだ。
(…馬鹿げてるんだよ、姫君。オレには、まだこの戦に水軍を加えることの利も、それによって受ける害を補うものも見えてきやしないんだ)
 ――なのに、オレはどこかでお前に協力したいと思ってるんだ。
 ――足がもつれてもなお走り続けるお前に、手を差し伸べたいと思ってるんだ。
 そして。
 ……そう、そして?
 駆け出す少女。
 …こことは違う世界から来た娘。
 ここではない、どこか違う場所に帰る娘。
 帰りたいのだと言っている娘。
 ――ヒノエが焦がれている、ただひとりの娘。
 手を差し伸べたいと思っている娘に、……彼は?
(オレが。そう。…望美をどうしたいかなんて、とうに決まってるじゃないか?)
 ヒノエは低く笑って、それから木陰から顔を出した。
 途端に、目の前に降ってくる眩しい陽射し。
 彼のことを責めるかのように、激しく目を灼くような、その陽射し。
 ……色恋沙汰と、重大な責務を引き比べるヒノエを責めるかのような、太陽の眼差し。
 そんなものに笑って、ヒノエは砂利を踏みしめ、夏の日差しの下に顔を出す。
 そして、境内の向こうに消えた娘のことを考えて、また笑う。
(決まってる。オレは、望美をつかまえたいのさ。――彼女の羽衣を、奪っちまいたいんだ)
 たとえそれが彼女を傷つけると分かっていても。
 …それによって、望美が深く傷つくと承知していても。
 そして、彼女に手を伸ばしたことによって、彼の持つ全てが大きく変革するかもしれないことを、承知しながらも。
 それはまるで、動き始めた異国の玩具のようだと思う。
 動いていることは分かっている。
 それが何をもたらすかも分かっている。
 だけれど、それをどうやって止めたらいいのか分からない。
 小さな要因、大きな原因、色々なものが複雑に絡み合って。
 難解でありながら、ひどく単純で。
 ――結局のところ、ヒノエは彼女に恋をしているのだ。……ただ、それだけの話なのだ。
 それだから、彼女のために、全てを投げ出してしまいそうで。
 …それだから、彼女が傷つくと分かっていながら、手を伸ばさずにはいられなくて。
 馬鹿げている。
 そう思いながらも、ヒノエは明るい陽射しのもと、ゆっくりと砂利を踏みしめて歩いていく。
 境内を抜けた先に、きっと望美はいるだろう。……もしくは、またここに戻ってくるかもしれない。本当に、彼女がヒノエを探しているのだとしたら。
 じりり。
 足の下で、砂利が小さく音を立てた。
 ――彼女を見つけて、どうする?
 その音は、そう問いかけているようにも聞こえた。
 どうする? どうする? さあ、どうするんだ?
 その問いかけに、ヒノエは笑って答える。
(ああ。決まってるさ)
 まずは駆け寄って、抱きしめる。
 それから、どうしたの姫君、本宮で休んでいたのじゃなかったのかい? なんて白々しいことを言うのだ。
 そうして、明日も早いからね、あまり足に無理をさせちゃいけないよと、彼女を本宮まで連れ帰って。
 言ってないことがあるなんて、秘密にしてることがあるなんて、万が一にも見抜かれないように、ヒノエは彼女に手を差し伸べるのだ。
 きっと、いつかは躊躇うことなく口にするだろうその言葉を、けれど、今はまだ秘密にして。
 ヒノエくん離してと言われても手を離さないで、そうやって、彼は彼女を連れて本宮へ戻るのだ。
 ――どうする、とそれでも足元で砂利は笑う。
 ――彼に降り注ぐ陽射しも、それだけでは済むまいて、とも嘲笑う。
 それはまだ、禁じられた言葉。
 けれど、きっとそのときになったら躊躇わずに口にするだろう言葉。
 口にして、彼女を傷つけて――そうして、奪わずにはいられないだろう言葉だ。
「――…」
 境内を降りた先、ぽつんと立つ少女が一人。
 ああ、見つけた、と思って、ヒノエは彼女の名前を呼ぶ。
「――望美!」
 呼んで、……振り返った娘に、笑いかける。
 お前が好きだよ、と知られぬように呟きながら、彼女に駆け寄る。
 オレは、お前のために全部を捨てちまいそうだよと、逆光に自嘲を隠して、駆け下りる。
 愛しい娘。焦がれる娘。
 ――オレは、お前を手に入れるよと。
 ――…ねえ、オレのものになっちまいなよと。
 今はまだ、聞かれないように囁いて。
「…ヒノエくん」
 きょとんとしたように彼を見上げて、それから、ちょっとだけ笑うその笑顔に、ひどく胸を締め付けられるのを感じながら。
 たくさんの禁句を抱えて、ヒノエは望美の前に立って、上手に笑って見せた。
「こんなところでどうしたんだい、姫君? この辺りは人気は多いけど、その分物騒だ。お許しいただけるなら、本宮まで戻る道中、オレをお供にしてくれないかい?」
 今はまだ言っちゃいけない、たくさんの言葉たち。
 それを綺麗に隠して笑うヒノエに、望美も笑った。
 そして、「うん、お願いします」と、ヒノエの差し出した手に、華奢な掌を乗せた。



*****



 ――それは、きっと近いだろういつかの話。

 たとえばその言葉が彼女を奪い、あるいは傷つける絶対的なものだったとしても、彼はそれを口にせずにはいられないだろう。
 たとえそれが、愛という名の身勝手な詭弁だったとしても。
 彼は、その言葉を口にすることを躊躇ったりはしないだろう。

 その言葉がもたらすものが、彼女を傷つけることになったとしても、決して躊躇ったりはしないのだろう。

 それは愛の言葉であり、束縛の言葉。
 彼女を縛りつけ、彼をも縛り付けるだろう言霊。
 彼が手にしたものを全て差し出しかねない、恐ろしいことば。
 …彼女が焦がれる懐かしい全てを投げ出しかねない、ひどいことば。


 それでもきっと、彼はそのときがきたら躊躇いはしないだろう。


 ――けれど。

 今はまだ、それは禁じられたことばのままで。


 ヒノエの胸のうち、確実に息づいて、蝕んで。

 …望美を奪い去るのを、待っているのだ。























ヘタレヒノエシリーズ。
途中、本気で景時さんになりそうになりました。どんなヒノエだ…!
ちょっと、うじうじ悩みすぎですねこの湛増は。(しまった湛増って言っちゃった!)
最初に考えてた話とは違う方向に行き過ぎてて、結構苛々します。困っちゃうなー。ヒノエくん。

ここんとこずーっとヒノエ探しの旅に出かけてるのですが、いまいちヒノエがみつかりません…。
なんだろうな…変なこだわりをいれすぎなのでしょうか。
とりあえず、暫くはへたれヒノエでいきたいと思います。(嫌だなあ)