【つむぎうた】
――じっと見つめれば、触れたくなる。
手に触れれば、握りたくなる。
…手を握れば、今度は口付けたくなる。
そして口付ければ、奪わずにはいられなくなるだろう。
まるで彼女は罪深く、清廉な花。
あの娘ほど真っ直ぐで、無垢で、清廉ないきものはいないだろう。
そう。彼女は、花のように可憐で、花のように強い。
――そうして、花のように可憐な声で、指先で、唇で、彼の胸に灼けつくような痕を残すのだ。
*****
…冷たい雫が、不意に望美の頬を打った。
足りない日用品があるからと、朔に頼まれ、市に向かった帰りの道中のこと。
ひとりじゃ危ないよ、と、いつから朔と望美の会話を聞いていたのか、ふらり現れたヒノエに手を引かれ、手早く買い物を済ませたまではよかったのだが……。
ざあああ、と、たちまち大量の雫となって空より降ってきた雨粒に、望美は慌てて包んでもらった品物を胸元に抱え、ヒノエはそんな彼女の手を引いた。
「おいで、望美。……ちょっと、そこの木の下でやり過ごそうぜ」
「う、うん!」
ぱたぱたと、大きく枝の張り出した樹木の陰に退避したのを見計らったように、雨はいっそう激しく降り始めた。
ざあああ、と音を立てて降りしきる雨。けれど、その割に、空は相変わらず青く晴れたままで。
「…狐の嫁入りだね」
僅かに濡れた肩口から雫を払っていた望美の耳元で、ヒノエが、ヒュウと口笛を吹く。
「? 狐の嫁入りって…、ええと、天気雨のことだっけ?」
「そうそう。こんな風にからりと晴れてるくせに、雨が降るなんてときは、どこかで狐が嫁入りしているんだって話」
そこは少し濡れるよ、もっとこっちにおいで。
ぐい、と望美の肩を引き寄せながら、ヒノエは「近くで、狐が嫁入りの最中なのかもね?」なんて笑ってみせる。
耳元で囁かれる、ヒノエの甘い声。
それはなんてことない日常会話の筈なのに、こんな具合に耳元で囁かれると、それだけで、何か口説かれているような心地になる。
望美はどきどき跳ね始めた心臓に戸惑いながら、そうかもね、と殊更普通の声で返事を返した。
「ヒノエくんは、その、……濡れてない?」
「ああ。大したことはないよ。近くに木があって助かったね、……そうじゃなきゃ、二人で濡れてるとこだったよ」
「うん。……よかったね。木があって」
「そうだね。こんなところで、お前に風邪ひかせるわけにはいかないからさ」
…お前と二人、雨に濡れるっていうのも悪くない気もするんだけどね?
ふふ、とそんな戯れ混じりに囁きかけるヒノエに、望美は「寒いだけだよ、…そんなの」と困ったように眉を寄せた。
実際、困っていた。
(……ほんと、ヒノエくんの言葉は、性質が悪いよ。本気じゃないって分かってるのに、本気にしそうになるんだもの)
肩に触れる、掌の熱さ。それを振り払うこともできないまま(だって、いくら枝が張り出しているからって、こうして身を寄せていなければならないくらい、雨に濡れない場所は少なくて)望美はざわつく鼓動が伝わらないように、神経を払う。
「寒くないかい?」
「…うん」
「そう。それは残念。寒いときは遠慮なく言いなよ? オレが、責任もって暖めてやるからさ」
「せ、責任って」
「たとえ自然の仕業とはいえ、お前のことを雨に濡らしちまったわけだからね。ふふ。……どんな風に暖めるかは、お前のお望み次第だけど?」
「い、いいよ、いいよいいよ! だいじょぶそんなに濡れてないっていうかさむくないから!」
「って、おい、木の下から出るなよ! 雨、まだやんでないんだぜ。……ほら」
「ひゃ!」
慌てた余りヒノエの腕から逃げ出しかけた望美に、ヒノエはやや叱責するような声を出して、望美の身体を強く引き寄せた。
勿論、望美は再びヒノエの腕の中に逆戻りだ。挙句、先ほどよりもきつく、掌に力を込められてしまったりして。
「………あ、あのヒノエくん」
「なんだい? 姫君」
「あの…。こ、こんなにしなくても、あの…、もう、雨、小降りになってるし…!」
「たとえ僅かでも、雨は雨だろ? まだ、だめだよ」
「で、でも…」
「でもはなし。……狐の嫁入りを邪魔するなんて、野暮はよそうぜ?」
肩に回った腕。掌。指先。
肩口に当たっている、ヒノエの身体。僅か、雨粒に濡れたのだろうか。きらきら光るアクセサリーが、望美の視界、とても近いところに映っていて、何とも心臓に悪い。
「ついでに、オレも。……もう少し、お前を離したくないんだよね。ごめんね姫君。これはオレの我侭。…少しだけ、許しておくれよ」
「え、ええ…、な、なにそれ…!」
「分からない? オレが、お前に惚れてるってことだよ。罪深い姫君」
「つ、つみぶかいってなに…! そ、そんなの……、また、そんな冗談ばっかり言って…」
「…ふふっ、そんなに赤くなって。可愛いね?」
――挙句に、耳元で囁くことは相変わらずで。……というか、更に内容が加熱していて。
望美はばくばく震える心臓に、ただただ瞬きを加速させるばかりで。
いつのまにか、背後から望美をかき抱くような態勢になっているヒノエを、けれど叱咤することもできずに。
(いつもの冗談なんだから…! 冗談、冗談、冗談……!)
まるで、おまじないのように、そんなことを唱えるばかりで。胸の前、抱きしめた紙包みがくしゃりと歪むのを、どうにもできないままで。
狐の嫁入り。気まぐれ天気雨。
それが、ただただ過ぎるのを待って。
……あるいは、過ぎるのが怖くて。
いつものように、するりとからかうようにかわされるのが嫌で、望美は頬を熱くして、声を殺して、唇を噛んだ。
お前は罪深い姫君だねと、囁くヒノエ。
(そんなの! …そんなの、ヒノエくんに言われる筋合いないよ…!)
望美はそれに反論したくて、けれど結局それもうまくできないまま。
「……しらないよ。……しらないよ、もう」
耳まで真っ赤になっているのを知りながら、ただただうつむくことしか出来ないでいた。
くしゃり。
胸の前で抱いた包みが、また少し、ひしゃげた音がした。
そんな望美を見て、ヒノエがどう思ったのかはわからない。
けれど、結局彼はそれ以上はからかうように笑うでもなく、ただ雨が止むまで、望美を後ろから抱きしめていた。
どきどきと音を立てる、望美の鼓動を知らないでもないだろうに、けれど決してそのことには触れることなく。
「ああ。ご覧。……雨があがったよ、姫君」
次に彼が囁いたのは、ただそれだけ。
そうして、ヒノエはするり、望美の身体を解放すると、木の下から先に抜け出して、手を伸ばした。
…きらり、木漏れ日がちょうど逆光になって、望美にはその表情がよく見えなかったけれど。
「行こうか? 望美」
そう言って笑ったヒノエの顔は、少しだけ苦笑しているようにも見えた。
*****
ただいまと言って朔の元まで戻った頃には、望美はすっかり疲弊しているようだった。
ヒノエはそんな娘の背中を見送りながら、我ながらあせりすぎていただろうかと苦笑する。
(…でも、仕様がないじゃないか? 見つめれば、触れたくなる。触れれば、抱きしめたくなる。……抱きしめたら、口付けたくなる)
しらないよもうと悲鳴をあげた望美を思い返し、ヒノエは、また苦笑した。
罪深い花。彼女の小さな素振り一つ一つに、ヒノエがどれだけ心乱されているのかなど、彼女は全く知らないのだろう。
――きっと、まだ知らないままでいたいのだろう。
大人びて、賢い娘。……けれど、恋ごとに関しては、まだまだ初心な娘。
冗談ばかりと、ヒノエが囁く言葉に聞かないフリをする、幼い娘。
(そうだね。……そう。仕様がないから、今はまだ冗談で済ませておくよ)
先ほどの雨でできたのだろう。
小さな水溜りを、ヒノエは躊躇いなくぱしゃりと踏みしめて、小さな水面を乱した。
(それでお前が安心するっていうなら仕様がないね。……だから、もう少しだけ、冗談だと思っていても構わないさ)
朔の手に頼まれ物を渡した望美は、そのままヒノエの元にぱたぱたと小走りに駆けて戻ってくる。
そして、ヒノエより三歩先ほどで止まって、(ああ、やはりまだ少し警戒しているのだろうか?)付き合ってくれてありがとう、と笑った。
「このくらいお安い御用だよ、姫君? お前と一緒なら、どこまでいっても構わないんだから」
「あ、ありがとう…。う、うん、ええと、あ、そう、あのね、朔に頼まれたもの、繕い用の糸だったの。だから、ヒノエくんも何かほつれたものとかあったら、いつでも言ってね! たくさん買ってきたから、私も朔を手伝って直してあげるから」
「ふうん…。じゃあ、何かあったらお願いするよ」
「うん! まかせといてよ!」
無邪気に頷く望美の仕草。
そんなものを全て腕の中に閉じ込めてしまいたいと考えながら、ヒノエは続けようとした言葉をしまいこんで、笑ってみせた。
(ああ。本当に繕ってもらいたいのは、お前への恋心でほつれかけちまったオレの心なんだけれどね?)
――きっと、そんなことを言ったら、また彼女は「冗談ばかり」と逃げ出してしまうだろうから。
だからもう少し、警戒させないように近づいて、……我ながら臆病だと笑いたくなるくらい、彼女との距離をはかりながら。
市では買えない針と糸で、稚拙すぎる恋のかたちを紡いでいくしか、今のヒノエには出来やしないのだ。
そう。今はまだ。………今はまだ、少しだけ、早いのだから。
(もう少し、もう少し)
警戒させないように、今はまだ、冗談だということにしておいてあげるから。
(罪な望美。罪な姫君。……もっともっと、好きだと言わせてくれないかい?)
奪いたくて仕様がない。口付けたくて仕様がない。触れたくて仕様がない心を、まだ少しだけ抑えておいてあげるから。
(もっと、もっと。……お前への、恋を紡がせて)
そう。ジワジワと、お前が逃げられないように。
……檻にも似た、糸で、針で、恋の罠を。
――了
ヒノエ生誕祭「花鳥風月」さまに寄稿させていただいてましたヒノ神子です。 寄稿と申しましても、例によって例のごとく情けないヒノエくんとビビリ神子なんですが。
もっとこう、誕生日らしいものを書けばいいのになあと思ったのです、が。
いやいや、きっとそれは他の方が凄く素敵なものを書かれるに違いないということで、こういう話になりました。(言い訳?)
なんにせよ、お誕生日おめでとうヒノエくん。
誕生日おめでとう湛増くんなんて言って笑ってた私を許してください。
いっそ、たんぞうびでいいじゃん! とかウケてた私を許してください。
愛だけはたくさん詰まってます。
というわけで、おめでとうございましたヒノエくん。