『戒めの瑕』
――私が代わりに縛られればよかった。
望美は思いつめた目でそう呟いて、自分こそが痛みを味わっているような顔つきでヒノエの傷に口付ける。
私が代わりにつかまればよかった。
私が傷つけばよかった。
「困った姫様だね。…お前がオレの代わりに傷を負う? そっちの方が冗談じゃない」
そう言って、傷口に触れる望美の手に優しく口付けても、望美はふるふる首を振って、頑是無い子どものように聞き分けがない。
そして、それこそ童子のように、ただただ繰り返すのだ。
ごめんねヒノエくん。
ごめんねヒノエくん。
こんなに怪我させてごめんなさい。こんなに傷つけてごめんなさい。
(…ああ。女の子の涙は苦手だね)
そうして今にも泣き出しそうな望美の目。
まるで、大雨を含んだ雲のように、浮かない顔つきで。
女の子の涙こそが好みだなんて、ヒノエはそんなに趣味が悪いわけではない。
だけれど、望美の頬を不意に転がり落ちた涙一粒。
ヒノエの傷に今一度口付けて、この傷が私のものならばいいのにと掠れた声で呟く彼女の頬を、滑るしずく。
それは、とても綺麗だと思った。
********
戦の最中、弁慶のもとを人が訪れる数を把握すれば、そのまま自軍の怪我人の数をほぼ把握できるといっても過言ではない。
敵兵によって負った傷もあれば、怨霊によって傷つけられたものもそうだ。
京に留まっていた頃と比べれば、随分と膨れ上がった軍勢において、薬師として同行しているのが弁慶だけでは到底手が足りるわけはなく、現在――屋島の戦の頃合にまでなれば、弁慶以外にも手当ての心得がある兵も多く同行することとなっている。
しかし、それでも義経や景時などに古くから付き従っている郎党などは、相変わらず弁慶の元へ怪我の手当てを頼みにやってくる。
無論、「白龍の神子」であり、「源氏の神子」である望美の傍らにて守り手を担っている八葉も同様だろう。
そうなれば、ひとつの戦が収束する前後――最も忙しなくなるのは、弁慶が控えている幕になるのも当然である。
さて。
それらの理由から、慌しく人が行き来する弁慶の幕のほど近くにて、ヒノエは微妙に居心地の悪そうな顔で中の様子を窺っていた。
此度の戦において、主なる負傷者が出たのは、先頭に立って戦場に突っ込んでいったヒノエ率いる熊野水軍である。
無論、熊野水軍とて手当ての心得があるものはつれてきているが、薬草などの専門的な知識ならば弁慶以上のものはいない。
それゆえに、この幕に、今最も多く詰め掛けてきているのは熊野水軍であり、その頭領であるヒノエがその様子を見に来ていておかしいことはない。
だというのに、ヒノエはらしくもなく中に入ることを躊躇っていた。
(…この用件がばかばかしいってことは、十分分かってんだけどな…。ああ。全く。オレはいつの間にこんな腑抜けになっちまったのかね?)
結局彼は決意したように小さく吐息すると、邪魔するぜ、と弁慶の幕に足を踏み入れた。
「――おや、ヒノエ。どうしました? 何か怪我でも」
中では、丁度一通り手当てが一段落したらしい弁慶が、ヒノエを見て目を眇める。
ヒノエはそんな弁慶の周囲を一通り見渡し、「まあね。大したことはないんだけど」と肩をすくめた。
「そんなこと言って、膿んで腐っても知りませんよ?」
ふふ、と弁慶は笑顔にふさわしくないことを言いながら、嫌な顔をしたヒノエに「右腕ですね?」と手を差し伸べた。
昔から、この男に怪我を隠すことができた試しがない。
ヒノエは複雑な顔をしながらも、素直に怪我をした部位を見せた。
簡単に応急処置を施した刀傷や切り傷、どれも敏捷なヒノエらしく最小限に抑えられた傷を検分していくうちに、弁慶はひとつの傷口に目を留めた。
目を細めて、その傷を目元まで持ち上げ、呟く。
「ふうむ。…これは、何か、鉄製のもので擦った…いや、抉った傷ですか?」
「ご名答。伊達に笑いながら他人の傷口いじくってないね」
「ありがとうございます」
弁慶はにこり、微笑むと、ヒノエの傷口をぐいと指で押した。
そうして、ヒノエが声にならない悲鳴をあげるのに気づかない素振りで、
「まあ、ともかく君の言う通り、どれも大したことはない傷ですね。処置も良かったのでしょう。消毒もしてあるようですし…。これ以上の手当ては必要ないのでは?」
と、穏やかに告げた。
要するに、手当てする部分などないからとっとと出て行けという意味であろう。
「何だよ。傷に当てる布くらい、分けてくれてもいいんじゃないかい?」
「これはこれは。熊野水軍頭領、藤原湛増殿ともあろうお方が如何しました。らしくありませんね」
その程度の傷ならば、僕がこれ以上施す必要はありませんよ。
弁慶は表情ばかりはにこやかに、素っ気無くヒノエの傷口から手を離すと、地面に広げていた薬草を片付け始める。
そう、らしくない。
普段のヒノエならば、この程度の傷でわざわざ弁慶に手当てを求めるなどと――借りを作るような真似はしたがらなかっただろう。
ヒノエ自身もそれを承知している。
ばかばかしいことだと、そう分かっているのだが。
「……放っておいたら、痕になるだろう? こいつみたいな傷は」
「…? ああ。その傷ですか」
確かに、多少の痕は残るかもしれませんね、と弁慶は、先ほど指摘したヒノエの傷――鉄で抉ったようだと称した、腕の傷を首を傾げた。
「どうしたんですか? 傷跡が残ることを気にするなんて、ますます君らしくありませんね」
「まあな。…我ながら、全く、馬鹿馬鹿しくて目も当てられないような心地だぜ」
その、どこか自嘲するような口調から、弁慶は何事かを悟ったようだ。
察しのいいヒノエの叔父は、呆れたように苦笑している。
「なるほど。――気にしているのは、君じゃなく、望美さんだということですね?」
「………」
ヒノエは黙って目を逸らす。
隠せると思ったわけではなかったが、こうも早々に察せられてしまうのも面白くなかった。
「それで、ヒノエは、天女の君のためにわざわざ僕のところまで傷の手当に訪れたと……、つまりそういうことですか?」
「…分かってんなら、確認はいらねえよ」
「おや。これは失礼しました」
ヒノエは憮然と眉を寄せ、がしがしと頭をかいた。
弁慶はそんな甥を興味深そうに眺めながらも、しかし気の毒そうな口調で、「ですが、薬草の持ち合わせが足りないのも事実でして」と首を傾げた。
屋島の戦は、確かに勝ち戦で終わった。
ヒノエの持ち出した策は成功し、敵将、平忠度を生け捕りにするにも至った。大勝利であるといってよい。
しかし、戦の直後、平清盛が怨霊として蘇っているという情報が入った。
また、同じく怨霊として蘇ったとされている平重盛――還内府や、平知盛、惟盛などの武将が未だに平家側に残っていることもかわらない。それを考えれば、手放しに自軍の勝利であると浮かれている場合でもないのも事実。
今後一層激しくなるだろう戦に備えて、薬草などをできる限り節約したいという弁慶の言は、正しい。
「ま、それもそうだな。――悪かったな。邪魔して」
ヒノエは弁慶の言葉に肩をすくめ、あっさりと身を翻した。
弁慶もまた、その背を黙って見送りかけたが――、不意に、思い出したように「その傷は、望美さんを庇って負ったものなのですか?」と尋ねた。
その問いに一瞬黙ってから、ヒノエは淡々と「オレの傷はオレの傷だろう?」と応じる。
弁慶はその答えに、低く笑った。
「その通りですね。――君の言うことは正しい」
「……含みのある言い方だな」
「…いいえ? ただ、望美さんはそれでは納得しないのだろうなと思っただけですよ」
「――…」
ヒノエは、弁慶の言葉に、そうだな、と小さく笑った。
そうだなと、小さく苦笑した。
「自分のことじゃあ泣いたりしないくせに。オレの怪我見て、あんなにぽろぽろ泣かれちゃ、敵わないだろう?」
ごめんねヒノエくん。
ごめんね。ごめんね。
阿波水軍に裏切られた折に負った傷を手当てしながら、望美は何度もそう言った。
掠れた声で、ゆるせないと呟いて、傷口に唇で触れた。
お前の口付けがあれば治るよなんて、ヒノエが冗談めかして言った言葉を本気でとったのかどうか。
奥手で初心な望美が、真剣な目でヒノエの傷口を見つめ、口付けた。
…これで、本当に治るなら良かったのに。
そう呟いて、ひどく苦しそうに目を伏せた。
女の子の嘆く顔を見て、それを可愛いと思うヤツは、まず確実に頭がおかしいと思っていた。
辛そうな顔を見て、胸がざわつくヤツも、どこかがイカレていると思っていた。
僅かなりとも好いた娘が辛そうな顔をしていれば、普通ならばそれを辛いことと受け止める筈だろうと。
(ああ。だから、オレはとっくに狂っちまってるのかもしれねえな)
悲しそうに、辛そうに、苦しそうに目を伏せた望美。
それが全てヒノエのためだ。
それは全てヒノエのためだ。
彼女は、彼のためだけに悲しげな顔をし、あなたの傷が私のものならいいと呟くのだ。
(参ったな望美。…胸が熱いよ?)
きっと、彼女はこれから先も――たとえそれが、残りの戦の間だけだとしても、ヒノエの傷を見るたび、辛く苦しい思いをするのだろう。
自分のために負った傷を見て、悔しげに、ヒノエのために怒るのだろう。憎むのだろう。嘆くのだろう。
それらの感情のうねりが。
……穢れなき望美の中で、逆巻く感情が、ヒノエは、どうしようもなくいとおしい。
ああ。自分は本当に、恋ごとにイカレてしまった。
「神子の涙に、狂わされましたか」
弁慶の、奇妙に真剣な声音が、するり、ヒノエの耳に滑り込んできた。
その響きに、ヒノエは僅かに笑う。
「ああ。そうかもな。――もっとも、狂わされて本望だけどね?」
「…それは、幸福なことですね」
弁慶の声が、哀れむように響くのは気のせいだろうか。
ヒノエは、それに背を向けたまま苦笑する。
きっと、自分も逆の立場なら、相手を哀れんで言ったことだろう。
馬鹿馬鹿しいね。恋ごと一つで、これほど周囲が見えなくなっちまうものかいと。
弁慶は、そのまま、同じような声の調子で「だから、傷ひとつ残らないように癒してしまいたいと思ったのですか」と続けてくる。
「そうだな。…そうしたら、もう望美が傷を見て泣くことはなくなるだろう?」
「ふふ。……そうですね」
しかし、弁慶は同意しながら、笑っている。苦笑なのかもしれない。
彼に背を向けたままのヒノエには分からなかった。
「ですが、ヒノエ」
弁慶はそうして笑いながら、続けた。その笑みは、あるいは嘲笑だったのかもしれないと、そう考えるのは穿ちすぎだろうか。
「君の傷をそのまま直さなければ、望美さんはずっと、――その傷一つに、縛られ続けることになるんですよ」
弁慶の言葉は、僅かな毒を含んでいるようで。…ヒノエを唆しているようだった。
それはそのまま、ヒノエが今最も恐れていること。
――戦が終わった後、望美が元の世界に戻ってしまうことを防ぐ策の一つとして、提案されているようにも聞こえた。
「こんなちっぽけな傷一つで、望美を縛ろうなんて考えられやしないよ」
言いながらも、しかし胸の底がひやりと冷たい。
ごめんねと呟いた望美の声が、耳元に蘇る。
「ああ。…それもそうですね」
弁慶は、あっさりと矛先を納めると、引き止めてすみませんでした、とヒノエを送り出した。
「……」
ばさり、入り口の布をかき分けて幕の外に出たヒノエに、さやさやと震える月の光が降りてくる。
真円よりも僅かに欠けた銀盤が、きらり、ヒノエを見下ろしている。
ヒノエはその光に晒すように、すうっと腕を天に向けて差し向けた。
そして、自嘲するように笑って、呟くのだ。
「ごめんよ、姫君」
呟いて、――傷口に触れ、口付ける。
望美が口付けた傷に、唇で触れる。
その間も、じわじわと甘い月の光は、ヒノエを優しく包むようで。
(ああ。お前のひかりで、オレはどうやら狂っちまったらしいね?)
答える声もないまま、ヒノエは心中呟いて、ばさり、羽織った上着を翻した。
本当は、傷口など綺麗に治してしまいたかったのだけど。(ああ。自分で薬草を探して、手当てをすれば簡単なことだった筈)
傷の手当をするところを、見られなければよかったのだけど。(もっと上手く隠れて手当てをすることなんて、容易かった筈)
ひらり、水軍の陣に戻るヒノエを照らす月の光が、無造作に晒された傷跡をなぞった。
ごめんねヒノエくん。
嘆く声に、ああ、ごめんよとヒノエも心で答えながら。
望美を縛る戒めの傷跡を、もう一度光に晒して、苦笑した。
非常に久しぶりの更新です。
と思ったら、未だかつてない神子出演率の低さと相成りました。
そして、何でしょう。この暗ったらしいヒノエくんは。
まさしく、アンタ誰状態。
よそのサイト様を回ってみると、どのヒノエくんも格好よろしくて胸がずきゅずきゅするのですが。
自分で書いてみると、この体たらくですよ。アイタタ。手に負えない。
また、弁さんの暗さったらないですね。何なのこのひとたち。
鎖イベントについては、いつかやってみたかった感じです。
わざわざやり直してみましたが、ここで束縛耐性のついてないバージョンのヒノエの声が、とても良いですね。
あっさりしたバッドエンド(?)でしたが、私はこのヒノエが大層男前で大好きです。