【おねがいひとつ、あなたとふたつ】





 笹の葉さらさら、軒端に揺れる…。


 望美は小さく口ずさみながら、ひらり、風にたなびく洗濯物をしまった。
 初夏の夕暮れは過ごしやすい。さやさやと風に揺れる木の葉の音も心地よく、望美は幸せそうに微笑んだ。
 干していた洗濯物を抱えて戻ると、軒下でヒノエが笑って、望美を出迎えた。
 珍しいことだ。いつもなら、この時間はまだ帰ってこないはずなのに。
 お帰りと笑いかけてから、望美はきょとんとヒノエを見つめる。
「どうしたの。機嫌よさそうだね」
 望美がそう尋ねると、ヒノエは「姫君がご機嫌麗しいようだからね」と、理由になるようなならないようなことを言って、望美が抱えていた洗濯物を持ち上 げた。
 仕事をとられた望美は少し困ったように空の掌を眺める。
「どうしたんだい。早くおいで、望美」
 家の中から呼ばわるヒノエの声。その声がまたひどく機嫌がよさそうなので、望美はまた笑ってしまった。



********


「…どうしたの。今日は早いんだね」
 洗濯物を畳み、夕餉の支度を始める望美の問いかけに、ヒノエは「早く切り上げてきたからね」と答える。
 どうして?
 望美が不思議そうに尋ねると、ヒノエは苦笑して。
「今宵は天の河でも一時の逢瀬を楽しむ夜だよ。こんな日に、愛しい奥さんと少しでも長く過ごさないでどうするんだい?」
 その如何にもヒノエらしい理由に、望美はまた笑った。
 その笑みは、ひどく幸福そうにくすくすと室内に響く。
「きっとヒノエくんは、サラリーマンだったとしても、そうやって帰ってきちゃうんだろうね」
 さらりいまん? と首を傾げるヒノエに望美は何でもないと首を振った。
 畳み終わった最後の一枚。それを片付けようと望美が立ち上がりかけたところを、ヒノエが背後から抱き締めて、引きとめる。
 まるで子どものような引きとめ方。
 どうしたのと望美は首を傾げる。
「…何でもないよ」
 そう言ってから、笑ってヒノエは続ける。
「ホントに、いつでもお前にそう答えて、笑ってられたらいいんだけど」
 その声ににじむ僅かな緊張に、望美は驚いた。
「…どうしたの? ヒノエくんらしくないね。……何か、怖いことでもあった?」
 そうして、子どもをあやすようにぽんぽんと腕を撫でられ、ヒノエは呆気にとられたように黙ってから、やがてくつくつと肩を震わせ始める。
「ああ、……怖いことならたくさんあるよ? オレは一人で立ってられるほど強くもなければ、弱くもないんでね」
「……?」
 まるで謎かけのようなヒノエの言葉。
 強くもないけど、弱くもない。
「怖いの?」
 望美はもう一度、そう尋ねかけた。
 何が怖いの、とは聞かない。
 ただ、怖いのかどうか。それだけを聞いている。
 そして、また、ヒノエの腕を優しく撫でる。
 こわいの?
 そう尋ねながら、優しく。
 ヒノエはくすり笑って、怖いねと答えた。
「……特にこんな日は、お前がどこかに行っちまいそうで。怖くて仕方がないのさ」
 言いながら、しかしその声は相変わらず飄々としている。
 怖くて仕方がないなんて、本当は思っていないように。
 あるいは、本当に怖いからこそ、淡々と語るしかないかのように。
「どこかにって。……どこに?」
 望美は困ったように眉を寄せ、静かに答えた。
 答えてから、尋ね返す。
「ヒノエくんは、私を信じてないの? 私はちゃんとここにいるのに。……ここに、ちゃんとあなたの傍にいるのに」
「――信じてるし、愛しているよ。だけど不安なのさ」
 言われる言葉のひとつひとつが冗談のようで、それでいて何もかも本気のようで。
 望美は戸惑って、自分を抱き締めるヒノエの腕を見る。
 撫でても、宥めても、言うことを聞いてくれないヒノエの腕。
 ただ、怖いのだと、冗談のような口調で言うばかりの、ヒノエの腕。
「…いて」
 ヒノエが不意に小さく声をあげた。望美がヒノエの指先に軽く噛みついたのだ。
「困ったヒノエくんだね。そんなこと言ってたら、私…」
 望美はそこでくるりと体の向きを変え、ヒノエに抱きついた。

「私、あなたから絶対離れられなくなるでしょう?」

 ――いや、抱きついたというよりも、これは抱きしめたという方が正しいかもしれない。
 望美の細い腕はヒノエの身体をしっかり抱きとめ、腕の中に包み込んでいる。
 困った人だねといいながら、その表情はいとしげで、やさしげで。
「…ああ。それが狙いだ。決まってるだろ?」
 ヒノエはその腕に頬を摺り寄せながら、頷いた。
 いとしい娘。
 異世界から来た娘。
 七夕の織女のように。あるとき、不意に牽牛を置いて帰ってしまいそうな。
 確かにそこにいるのに、けれど時折不安にさせられる。そんなはかなさを持っているような、不可思議の少女。
「困ったヒノエくん」
 望美はもう一度呟いて、じゃあ、織姫と彦星にお祈りしようかと微笑む。
「お祈り?」
「そう。…私の世界だとね、毎年七夕にはお祈りするんだよ。織姫と彦星が、願い事をかなえてくれるように、笹の葉に短冊をつるして」
 さらり。
 望美の細い指先が、ヒノエの髪の毛をかき乱す。
 悪戯な娘の指にヒノエは口付けて、お前のお願いもかなえてもらったのかい? と望美の唇に、唇で触れた。
 小鳥がさえずるような音を立てて唇をついばまれて、望美はくすくす笑いながら「かなえてもらったよ」という。
「へえ…、どんなお願いだい? オレには教えてくれないの?」
「小さい頃のお願いだもの。今聞いたってしょうがないじゃない。それより、ヒノエくんのお願いは?」
「そんなこと決まってるよ。……聞くまでもない」
 ヒノエは笑って、望美の身体を抱きしめなおした。
 望美も微笑んで、そうだね、と抱きしめられる。
「だったら、私のお願いも同じだよ。……二人一緒に、お願いしようか? ヒノエくんは彦星に、私は織姫にお願いしておくから」
「そうだね。幸せな天の河の恋人に、便乗させてもらおうか? オレとお前の願い事。一つ、二つもついでにかなえてくださいってね」
 くすくす笑いながら、望美とヒノエはもう一度口付けあった。
 幸せな二人に便乗するように、天の河より遙か下、幸せな一つ屋根の下で口付けて。

 そして、ねがいごとはひとつ。

 幸せでありますようにと。


 ただ、それだけ。



********


「ねえ、姫君。望美は、一体どんなお願いをきいてもらったのか、教えてはくれないのかい?」
「え? だって、それはヒノエくんと同じでしょう」
 確認もしていないのに、望美はきっぱりとそう言い切って首を傾げる。
 ヒノエは寝具の中、望美の掌を探り当てて握り締め、違うよ、と苦笑する。
「お前が、昔かなえてもらったっていう願い事さ」
「……、ああ、そっちのこと」
 ヒノエのしなやかな指にとらえられ、望美の指は戸惑ったように揺れる。
「こだわるね。そんなに知りたいの?」
「こだわるさ。他ならぬ、オレの奥方さまのことだからね」
「……なんてことない、お願いごとだよ?」
 しかし、言いながら望美はちょっと笑って、でもすごく重要なお願いごとでもあるかなとも付け加えた。
 そして、二人だけしかいないというのに、わざわざヒノエの耳もとに唇を近づけて、あのね、と囁く。
 娘の甘い吐息が耳に触れることを心地よく感じながら、ヒノエはああ、と頷いて、望美の願いを聞いた。

「……家族と、ずっと幸せにいられますようにってこと」

「……」
 ヒノエは、その言葉に一瞬面食らったように瞬いて、望美を見る。
 望美はそんなヒノエに、やだな、なんて顔してるの、と優しく微笑んだ。
「あなたが、私の家族だよ。――だから、願いはかなってるの。……かなうの。これからも、かないつづけるんだよ」
 笑う望美の言葉に、ヒノエは、同じようににこり、笑って。
 いつものようにからかうような笑みでもなく、どこか切なそうに、けれどひどくいとおしげに笑って。
「ああ。間違いないね」
 七夕のお願いは全く確かだと、彼ののぞみを抱きしめた。


























七夕ってことで小話です。
相方様のメールで思いついてしまった話です。
おかげさまで、眠くて仕方ないのに書いてしまった……!
まま、微妙に支離滅裂なのはご愛嬌です…!(ぬかせ)

しかしこの二人のED後を想像すると、何でこんなにベタ甘くなるんでしょうね。
甘すぎて、むしろ書いてていろいろなものを見失いそうになりました。
あ、あと、ヒノエのへたれっぷりは当サイトの仕様です。

こんな痛々しい一作ですが、七月いっぱいはフリーとさせていただきます。
お気に召しましたら、さらりとお持ち帰ってくださると嬉しいです。
(なお、その際に報告などは特に必要ありません)


(あ、でもひとこと言ってくれると、それはそれで風成が嬉しいです)
(でも面倒だったらいいんです)
(なんだろう。それ)