『 私のあなた、あなたの私 』
たとえば、朝起きて、向かい合って挨拶したり。
ご飯を一緒に食べて、それから二人で散歩に行って。
あそこのメシが結構美味いとか、この飾りはお前に似合うううんヒノエくんだよとか、
そんな下らない、聞いているひとたちが苦笑してしまいそうな会話をして。
そうして、二人並んであなたが美味しいというご飯を食べて、笑いあってみるのもいい。
夕方は一緒に、いつか一番綺麗だと紹介してくれた夕陽を眺めにいこう。
ううん。――別に、こんな緻密なスケジュールがなくてもいいのだけど。
ただ、いつだって、あなたがそばにいてくれればいいのにと。
そうしたら、こんなに幸せなことはない。
楽しいことは毎日続いたら、楽しいことじゃなくなるというけれど。…けれど、たとえそうだとしてもいつだって傍にいたいと思うのは、恋する娘の愚かしさ?
…我ながら、それはありえないなあと確信してしまうような、そんな馬鹿みたいな我侭。
仕様がないと、そう思うのだけれど。
……だって、私の大好きなあなたは、何と言っても熊野の頭領。
貿易の采配とか、海賊を取り締まったりとか、周囲の様子に聞耳を立てたりだとか。
今日も朝の挨拶をするかしないかのうちに出ていってしまった。
自慢にもならないけれど、私はヒノエくんよりも早く起きたことがない。
先輩は低血圧だから仕様がないんじゃないですか、なんて幼馴染の譲くんは朝遅い私を随分甘やかしてくれたけれど。…仕様がないって言ったって、いつもいつもヒノエくんより……ていうか、その、旦那様より遅く起き出してるって、やっぱりちょっとどうかと思うよ。
――源平の戦の後始末は、随分忙しいみたい。
ヒノエくんはここのところいつも、一番鶏よりも早く起きて、陽もとっぷり暮れてから帰ってくる。
海に出て、あちこちの片づけだとか、手伝いだとかに行ってるみたい。……みたい、なのは、ヒノエくんがあまり、私に話を聞かせてくれないから。
「それよりも、もっと楽しい話をしようぜ?」
ごまかすというのじゃないんだろうけど、そう言われて抱き寄せられることも多い。――ううん。やっぱり、これはごまかしなんだろうか?
今日も「もう行っちゃうの」と寝ぼけ声を出す私を見つめて、出かける間際(多分そうなんだろう。だって、そのとき彼はもうとっくに身支度を済ませていたのだから)にくちづけをよこした。朝早すぎてうとうとしている私の額に、唇に。
…結婚披露宴と、それから長い宴会。それが終わってから、そろそろ二週間になる。
家族に宛てて書いた、長い、けれど短い手紙。(だって本当に話したいことは、こんな何枚かの紙で足りるわけなくて)
それを譲くんに託した。……将臣くんが、あの戦い以来姿を見せなくなってしまったから。だから、ひとりで元の世界に帰っていく、彼に。
『確かにお預かりしました。…大丈夫ですよ。俺が、ちゃんとこの手紙を届けます。…兄さんのことなら、心配いらないですよ。何となく。あのひとのことだから、またどこかでうまくやってます。……気が向いたら帰ってくるだろうし、気が向かなかったら帰ってこないでしょう。そのうち、先輩のとこにぬけぬけ顔出したら、俺の分も叱ってやっておいてください』
だから、あなたはどうか幸せになってください。絶対幸せになってください。
優しい幼馴染は、そう言って少し泣きそうな顔をした。……私も、結構泣きそうになった。だって、きっとこれは今生の別れ。
私と譲くんの別れというだけじゃなく、私と、あの世界。狂おしいほど懐かしい、私の鎌倉とのお別れ。
身体ごと引き裂かれるみたいな、そんな喪失感。けれど、そんな私の傍らで、ヒノエくんはじっと私の掌を握ってくれていた。
肩を抱かないでくれたのは、よかった。――だって、そうされたら、きっとわんわん泣いてしまった。譲くんを見送る中で、たくさんべそをかいてしまった。
本当は、少しだけ泣いてしまった。その涙を、見ないフリしてキスで拭ってくれたのもヒノエくんだった。――オレの望美。絶対、お前を幸せにしてやるよ。
幸せになろう、じゃない、するよっていう自信満々の口調。それがまた彼らしくて、泣きながら、ちょっと笑ってしまった。
*****
(……けど、なあ…)
私は、つい二週間くらい前のことを思い出して、小さくため息をついてしまった。
ヒノエくんが行ってしまってから、もぞもぞ起き出して。(それでも結構早い気がする。京邸にいたときは、もう少し寝坊していたし)
パジャマ代わりの薄い着物を脱いで、前のと同じ、いつもの普段着に着替える。……オレに言ってくれれば、いつでも新しい着物を誂えてやるのに。
昨日、やっぱり遅く帰ってきたヒノエくんの傍で翌日の衣服を用意している私に、ヒノエくんはそう言って何となく不満そうな顔をしていた。…別にその着物が、悪いってわけじゃないんだけどね。
何だか、我侭を言ってほしいみたい。言って私が苦笑したら、言ってほしいんだよ姫君、とヒノエくんは笑った。それから、布団の中にひっぱられた。
――私が言いたい一番大きな我侭は、あなたが、ずっと傍にいてくれたらいいのにって、それなのに?
だけど、さすがにそれは言えなくて。(だって、ヒノエくんは忙しい)
……じゃあ、他の我侭はって考えたけれど。…これもまた、ヒノエくんに頼んだら、彼がまた笑って凄い無理をするって分かってるし。(だって、真っ先に浮かぶのは、やっぱり将臣くんの安否の確認)
うーうー、と私は着替え終わってから、変な唸り声をあげてしまった。…その声を聞きとがめられたんだろうか。
のぞみさん…? と外から、不審そうな声が聞こえた。……いけないいけない。
私は慌てて、なんでもないよー、今あけるねっと、とたとた駆け寄って部屋を開けた。そこに控えていたのは、オレがいない間寂しくないようにってヒノエくんが来させてくれてる世話役の男の子。
まだ年頃は12歳くらいだと思うんだけど、大層しっかりした男の子で、正直私なんかよりもずっと頭の回転が早い。
彼は朝ごはんを持ってきてくれていたみたいで、突然がらりと戸を開けてしまった私を見上げて、おはようございます望美さん、と笑った。(最初は、こうやって私から戸を開けるのに、結構困っていたみたいだったけど)
「今日もお早いですね。やっぱり頭領が、早いからですか?」
ニコッと陽に焼けた顔の中、見える白い歯が凄く綺麗。彼の名前は、珊瑚くんという。女の子みたいな名前が不満らしい彼の顔立ちは、確かに「珊瑚」というには不似合いなくらい、男の子らしくキリッとした顔つきをしている。
「うーん。でもまた、今日もヒノエくんにちゃんとおはようって言えなかったのよ。…ずるいよね。ヒノエくん、起きるときも出て行くときも、殆ど物音しないんだもの」
今日はぎりぎりで気付けたけれど、でもやっぱりその後起きてられなかったの。
珊瑚くんが朝食を並べてくれる間、私がそうまくしたてると、珊瑚くんは「でも、気付けただけでもすごいですよ」とニコニコ笑った。
「おれらの頭領の十八番は、隠れ身ですから。烏顔負けですよほんと。それに気付けるんだから、やっぱり望美さんはすごいです」
さすが頭領が選んだ花嫁様なだけ、あるや。
珊瑚くんは(珊瑚くんだけではないけれど)とても、ヒノエくんのことを尊敬しているみたいだ。
そんな珊瑚くんに、花嫁さま、とか言われると、何だか妙にくすぐったい。…ヒノエくんに「オレの奥さん」って言われるときは、またもっと違う意味でくすぐったいのだけど。(単に恥ずかしいだけ、とも言うのかもしれないけど!)
そうして朝ご飯を食べ終わった後は、珊瑚くんにお邸の近くを案内してもらうのが日課。
さすがに二週間もこうしてうろうろしてると、何となくこの辺りの感じも分かってきた。
――たとえば。いつか、「熊野別当」に会って協力を要請するために、散々歩き回った熊野の道。本宮から少し離れたところにあるヒノエくんのお邸からは、あの日一生懸命歩き回った道だとか、参詣に来る人たちの様子がよく見えることとか。
…特に、お邸から少しだけ離れたところにある、高い木。あそこから眺めたら、特にこの辺りの様子が一望できるんだろうとか。
(ああ、何だかすごくヒノエくんらしいね。このおうち)
私は、その木にするすると登って、腕組みしながら遠くを眺めているヒノエくんを想像して、少し笑った。(隣の珊瑚くんが、どうしたんですかと首を傾げるのになんでもないよ、と答えて)
「…ね、珊瑚くん。今日、ヒノエくんはどこまで行ってるんだろうね?」
「さあ…。…おれは、まだ水軍見習いですから。わかんねえです。今日は潮が早いから、――そいつをうまくつかまえれば、結構遠くまで行けそうですけど」
言いながら、珊瑚くんは遠くを見るみたいに目を細めた。
子どもと大人の境目みたいな、珊瑚くん。華奢な身体に不釣合いな大きな掌で、頭をかく。
「海に出たい?」
「…えっ? そうですね。そりゃ出たいです」
珊瑚くんは私の問いかけに、ちょっと苦笑した。その表情に、私は今更のようにハッと気付く。
「……あ。もしかして…。私のお世話係になっちゃったから、珊瑚くん、海に出られないの?」
そうだ。きっとそうに違いない。
うわあそれってすごい大迷惑なんじゃ…と落ち込みかける私に、違いますよ! と珊瑚くんは大きく笑った。
「今は、なんていうか……見習いが、あまり手を出せない感じなんです。……珍しく、頭領が前に出て、自ら仕切ってるから」
いつもは違うんですよ、と珊瑚くんは首を傾げた。
「頭領が仕切ることは結構あるけど――、なんていうのかな、あんな風に自分からガンガン前に出て、なんか物凄い勢いで船を駆ってる頭領は、あんま見たことないです。――こないだの戦んときも、凄かったみたいですけど。おれ、行けなかったから」
おれみたいな見習いは、そんな、毎回はついていけないんです。
「力不足だからです。……おれ、まだガキだから」
珊瑚くんは、私のせいじゃないと笑った口で、そこだけひどく悔しそうに呟いた。…おれ、ガキだから。
「……そんなことないよ」
私は、だから苦笑して、ぽん、と珊瑚くんの肩を叩いた。……賢い、優しい男の子。早く大きくなりたいって、思ってる男の子。
何故だろう。この子はどこか、ヒノエくんに似ていると思う。
「子どもだったら、大きくなればいいじゃない。…明日になったら、珊瑚くんは今日より絶対大きくなってるよ? 心も身体も、大きくなってるよ。……ただちょっと、気付きにくいだけで、ね」
焦ることないよ。
私がそう言って笑いかけると、珊瑚くんは、ちょっと困ったみたいに笑った。うん。白い歯が綺麗。
「…望美さんは、なんか。……すごいですね。――ありがとうございます」
「そう? すごい?」
ふふ、嬉しいなあ。
私はくすくす笑って、……笑いながら、また海の方を見た。
――そう。ここからは、海も見える。
山も、海も、……ここからは、ヒノエくんが愛する熊野が、いっぺんに見える。
きっと、ここはヒノエくんのお気に入りの場所なんじゃないだろうかと思う。……たとえば、あの木のてっぺんとか。
身軽く木に飛び上がる、ヒノエくん。ホント、あのひとは何であんなに身軽なんだろう? 吃驚するくらい身が軽くて、それで吃驚するくらい力も強い。
だけれど、私の手を引くとき、その手はとても優しい。……恥ずかしくなるような甘い口説き文句よりも、ずっと、その手は「お前が大事だよ」って言ってくれてるみたいに優しく。――けれど、けして逃がさないような強さで、私の手を握る。
「……ヒノエくんは、」
私はまた、さっきと同じことを口にしそうになった。……ヒノエくんは今頃どこにいるんだろうって。
珊瑚くんが、私を心配そうに見上げる。――優しい、黒々とした珊瑚くんの眼差し。
私はそれを安心させるために、明るく笑って、たんたんと弾むような足取りで木の傍に近づいた。
「うん。…えへへ、ごめんね。……ヒノエくん、今頃、一休みくらいしてるかなあって思って。…いつも、朝早いでしょう? お弁当とか、持ってってるんだよね?」
「ああ。乾飯を持ってってる筈ですよ。頭領、結構食いますから。今頃、早めの昼飯、食べてるんじゃないかなあ」
「あ、そうだよね! ヒノエくん、すごい食べるんだよねー。あんなに細いのに。男の子って、ホントたくさん食べるから」
それとも、姫君が食べなさすぎなんだよって、ヒノエくんだったら呆れて肩をすくめるだろうか?
明日、お弁当を作ってあげようかなあ。……でも、ヒノエくん出るの早いから。もしかしたら、夜通し起きてなくちゃいけないかも。
私がそんなことを考えてちょっと悩んでいると、それを察したのかどうかは分からないけど、珊瑚くんが笑って浜辺を示した。
「望美さん、今度は浜に行きませんか? 頭領はまだ帰ってこないけど、たぶんそろそろ市が出てると思いますよ」
「うーん。市かあ」
「一昨日、頭領が珍しい品物をたくさん持ち帰ってきたんです。もしかしたら、それが市に並んでるかも」
「そうなの? じゃあ、見に行ってみようかなあ」
私は珊瑚くんの言葉に、うんと頷いて浜辺に向かった。
未だ、空気はきんと冷えて。吐く息は白い。
見上げた空は抜けるほど青くて、姫君ご覧、何が見えると――、あの日、船の上でヒノエくんが空を指した、しなやかな腕を、指先を思い出す。
それから、また会いたいな、と思う。
ずっと、ずっと思ってる。会いたい会いたい。まるで、細胞が叫んでるみたい。無意識に思ってる。気がついたら、ヒノエくんのことを考えてる。あいたいあいたい。
朝と夜だけじゃ、とても足りない。
(…マリッジブルーじゃないけど……。……そもそも、一応新婚だっていうのに、こんなに忙しいっていうのもタイミング悪いよ)
珊瑚くんにつれられて降りた砂浜。
さらさらの砂地を歩いて向かえば、言葉通り、港近くにたくさんの市が立っている。
前に一度勝浦の港で見たときみたいな、…ううん、あのときよりもずっと賑やかな市。生命力が溢れて、きらきらしてる。ここに白龍がいたら、またどこか眩しそうに目を細めて「ひとはすごいね」と言うかもしれない。
今は既に応龍となり、この世界を見守っている神様。あの世間知らずの神様は、よくヒノエくんに吃驚していた。
(今も見てるのかなあ。応龍になってからも、ひとはすごいね、ってキョトンとしてるかな?)
ボディガードみたいに私の横に立って、しっかり守ってくれてる珊瑚くん。可愛いなあ、とこっそり、ちょっと失礼なことを考えながら、私は市の様子を見て歩く。
「おや、これは別当さんの花嫁さまじゃないかい?」
そうして、あ、これ綺麗だなあと貝殻に何かの玉をあしらったみたいな髪飾り(かんざしかなあ? これ)を手に取った私に、それを売ってたおばさんが笑って声をかけた。
「えっ、あ、は、はい…。え、ええと、こんにちは!」
別当さんの花嫁さま。
私はその言葉にどきっとして、慌てておばさんにぺこりと挨拶した。そういえば、このおばさん、確か厨で働いてるひとじゃなかったかな?
いつも美味しいご飯を作ってくれるひとたちの、ひとり。何度か挨拶に行って、私もお手伝いしていいですかって言ったら大笑いされた気がする。毎日珊瑚くんと散歩ばかりしてるのが気が引けて仕方なくて、することを探してた私は、諦め悪く、何からお手伝いしたらいいですか? って聞いたら、ますます笑われて、働き者の花嫁さん、だったら早く元気な子どもの顔を見せておくれ! とからかわれた。……気がする。………お、思い出しても顔が熱い!(でもそのときは、結局そのままお皿を洗ったりとか、夕飯の下ごしらえの手伝いとかをさせてもらった)
「どうしたんだい。今日は一人でお買い物かい?」
「…おいおい、ちゃんと見てくんないかいウキさん。望美さんには、ちゃんとおれがついてるんだけど」
一人、という言葉に反応して顔を出した珊瑚くんに、ウキさん(そうだそういう名前だった!)は「こりゃ悪かったねえ」と屈託なく笑った。
「ホラ、あれさ。なんといっても花嫁さんは新婚だろう? こういうのは、甲斐性のある旦那が買ってやるもんさ! だからついつい、別当さんの姿を探しちまったんだけど」
そういえば、今日も海に出てるんだっけねえ。
アンタも寂しいだろう、とウキさんは首を傾げて私を見る。
「うーん。そりゃ寂しいですけど。……でも、お仕事なら仕様がない、ですよね」
「まあ、そりゃそうなんだけどねえ」
朝仕事に行って、夜帰ってくる。よく考えて見なくても、それは私のいた世界でも、ごくごく当たり前のことだった。(たとえばサラリーマンのお父さんとか)……ただ、ちょっと。二週間も続いてるし、とか。……結婚してから、ずっとこんな感じってどうなのとか、時々考えたりするだけです。ハイ。
「まあ、夜は帰ってくるんだからさあ。たっぷり可愛がってもらいなよ?」
ウキさんは、挙句屈託のないカオでそんな爆弾発言をおおらかに放り投げた。…私は勿論、それをうまくキャッチすることができず、えっ、あっ、え! と顔を真っ赤にするしかない。
「よせよウキさん。望美さんはウブなんだぜ」
そこで堂々と庇ってくれたのは珊瑚くんだけど……こ、こういう会話でも顔色ひとつ変えないところは、さすが熊野のひとって感じが、する。
ヒノエくんも、弁慶さんも、丁度そんな感じだから。
私は真っ赤になりながらも、呆れるくらいスラスラと出てくるヒノエくんたちの口説き文句を思い出して、うーんと考えてしまった。
ひととひとの交流が多いところだから、皆社交的ってことなのかなあ。なんて。
「今度は、別当さんと二人でおいで! 新婚さんにはおまけしてあげるからね」
そんな社交的なおばさんは、去り際まで屈託なくそんなことを言っていた。…うーん、私も熊野で暮らしてたら、あんな風に動じなくなれるかな?
……ああ。ヒノエくんが早く帰ってきたらいい。
そうしたら、このことを聞いてみよう。ウキさんみたいに、私もなれるかなって。
ヒノエくんはどんな顔をするかな? ああ、早く聞いてみたい。
(…ほうら、また)
私はそこで、今度こそはっきりと苦笑してしまった。
――私は、本当に我侭だねヒノエくん。
市は賑やかで、案内してくれる珊瑚くんの説明は、明快で分かりやすい。
色とりどりの飾りだとか、珍しい置物だとか、パッと目を引く綺麗な絹地。
まだ寒い時季なのに、ひとの熱で、ここはこんなに暖かい。――だけど、ここにはヒノエくんがいない。
私の隣で、おいで姫君と手を引いてくれるヒノエくんだけが、いない。
(……夜までの辛抱じゃない。今日中に、帰ってきてくれるじゃない)
寂しくて仕方ないと叫ぶ、弱くて見苦しい心。
恋をすると女の子は綺麗になるというけれど、きっとそれは私には当てはまらないね。
我侭を言ってほしいんだよと笑う、ヒノエくん。
……私は、振り返る珊瑚くんを心配させないようににっこり笑いながら、今夜こそは我侭を言ってみようかと考える。
――いつまで忙しいのって。
………いつになったら、一日のお休みがとれて、二人で過ごせるのって。
(――ああ。本当に、私は我侭だ)
寂しくてたまらない。
家族とも、幼馴染とも、故郷とも、さよならしたばかりで。胸にぽっかりあいた、深い空洞。
その奥で、ヒノエくんさびしいよって、また今日も。
青い空の下で、弱い私がわめき散らしているんだ。
*****
「――ただいま、望美」
「うん。お帰りなさい」
ヒノエくんが帰ってきたので、今日は正座でお出迎え。……特に意味はないけど、いつもじゃなくて、たまにこうするとヒノエくんが愉快そうに笑う。
どうしたの姫君、何か企んでるのかい? って。
……けれど、今日のヒノエくんはどこか浮かない顔つき。私の正座のお出迎えに、ちょっと笑って。……それから、疲れたように私の隣に座った。
「…ご飯、食べなくていいの?」
「……あー。まだいいや」
ヒノエくんの前に用意したお膳は、手付かずのまま。…おなかすいてないのかな。何かあったのかな。
私は心配になってヒノエくんを覗き込もうとしたけれど、それはヒノエくんの掌にさらりとさえぎられた。
「…みっともないから、あんま、見るなよ」
苦笑交じりの、そんな声。疲れた顔なんて、あんまお前に見せたくないと笑う声。
「……なんで? 見せてよ。…私、ヒノエくんが疲れた顔してるとことか。素のままの顔も好きだよ」
「ふふ。…これは参ったね。お前に好きと言われたら、オレも弱い」
ヒノエくんは優しく笑うと、ほら、と言って私の目を押さえていた掌を外してみせた。そして、一体どうしたのと覗き込もうとする私をつかまえて、突然キスをしてくる。
「ひ、ひのえく……!」
ヒノエくんの口付けは、奇妙に熱く、不思議に優しい。
焦がれていた体温、大好きなひと、一日会いたかったひとに抱きすくめられてキスをされて、それでとろとろにとろけてしまわないひとがいるって言うなら、私にその冷静さを伝授してほしいくらい。……いつの間にか、背中に床板と、ヒノエくんの掌の感触。
荒い息と、重なる唇。…意識が甘くしびれて、ちらりと覗く舌がすごい色っぽいとか、そんなことを考えるしかできなくなってしまう。
「ひ、ひのえくん…やだ……だめだよ! まだご飯! 食べてな」
「……黙って。望美」
これはいくらなんでもまずいでしょう、と慌てる私をよそに、けれどヒノエくんはそれ以上、何もしなかった。
床に二人で寝そべっているような感じ。私の身体を片腕で支えて、口付けする距離で、私の目をじっと見ている。
「……」
どうしたの、と思って、私はヒノエくんの背中におずおず手を回した。
――おれ、まだガキだから。
…どうしてだろう。手を回してヒノエくんの目を見ていると、何故か昼間の珊瑚くんの呟きが、ゆらり脳裏をよぎっていく。
「……ヒノエくん?」
「………。…」
何度目かの呼びかけだろう。彼はそこで、やっと、ちょっとだけ視線を動かして、苦笑した。
「…みっともないな。オレ」
呟くように囁かれた、その言葉。それは、私が昼間散々心の中で呟いた、愚痴めいた声にそっくりだ。
ヒノエくんはするりと、猫みたいに、上手に私を抱えたまま起き上がった。
そうして、悪い、も、ごめん、もないまま、ヒノエくんは私の髪を優しく梳く。
「……ひのえくん」
華奢に見えて、結構しっかりしているヒノエくんの身体。冷たいアクセサリが顔に触れる。けれど、構わずその胸に頬を擦りつける。
「どうしたの。……何があったか、話して」
「――ああ。そうだね。…別に、何てことないと言えば、そうなんだけど」
でも、姫君にとっては結構重要だろう?
ヒノエくんは、いつの間にかいつも通り、余裕たっぷりの調子に戻ったように聞こえる声で、私の髪を梳く手とは違う手で――何かの文を取り出した。
端っこが、少しだけたわんでいるのは水に濡れたからだろうか? 簡単な封しかされていないそれを差し出し、ヒノエくんは「読んでご覧」と頭上から声をかける。私が訝しんでヒノエくんを見上げても、彼はいつも通りの表情でこちらを見下ろすばかり。
文の内容より、ヒノエくんの様子の方が気になると思いながら、けれど私は素直に文を受け取った。くるり。丸められたそれを、開く。
「……ッ」
文の冒頭。……宛名を見て、そしてその筆跡を見て、私は思わず息を呑んだ。
――望美と、譲へ。
当たり前だけれど、筆で記されている文。そして、少しクセのある書体。間違いない。それは、書道の時間ってだるいよなと笑っていた幼馴染のもの。……いつの間に、こんなに字が上手になったんだろう?
私は呆然としながら、その文を――有川将臣くんからの手紙を、読んだ。
ヒノエくんは、そんな私を黙って腕の中に抱いていてくれていた。声も出せず、ただ文を何度も読み返す私を、優しく支えてくれていた。
文には、簡単なことしか書かれていなかった。
…今、世話になったひとたちとともに、遠くの島に向かっているということ。だから、私たちと一緒に元の世界には帰れそうにないということ。
心配するなということ。元気にやっているということ。譲くんのご飯が食べられないのが残念だということ。
お前は、お前たちは、元気か、幸せだろうかという問いかけ。
……それは、長さこそ違えど、私が譲くんにお願いした手紙の内容に、ひどく似ていた。
ただ、違うのは、将臣くんは元の世界にいる家族――お父さんとか、お母さんに向けては、一切メッセージを向けていないということ。
簡潔な言葉で、彼はただ自分の状況と、私や譲くんへ「元気にやれよ」と言葉を綴っていた。
それだけの短い手紙。
――よく見ると、そんなに綺麗ってわけじゃない字。だけれど、一緒に並んで授業を受けていた頃より、ずっと筆に慣れた、筆跡。
「…ヒノエくん、これって…」
私は、文を握り締めたまま、呆然とヒノエくんを見上げた。
彼は、いつものようになんでもないことのように笑ってみせる。
「お前が、ずっと気にかけてたからさ。――源氏の連中の後片付けをするついでに、探してみたんだよ。あいつの、行方をさ」
「……だから、ずっと忙しかったの…?」
「――まあね。…さすがに、結構大変だった。これがお前だったら、たとえ地の果てにいても探し当ててみせるんだけどね?」
「………」
私はそれ以上、もう何もいえなかった。
ただ、いつもみたいに余裕綽々の顔で。……でも、はっきり疲労の色が色濃く浮き出た顔をした、私のヒノエくんを、思い切り抱きしめた。
「………私が、将臣くんのこと気にかけてたって知ってたの」
「そいつは野暮な物言いだね。……惚れた女が、たとえ時々だろうと、オレ以外の野郎のことを気にかけてるんだ。気付かない筈ないだろ?」
「だから……だから、こんなに忙しいのに、探してくれたの? …先頭に立って、朝から遅くまで、探してくれたの…?」
何に泣けてくるのかわからないけれど。
……とにかく、私の目からは次から次へと、涙が零れ落ちた。
「泣かせたいわけじゃないんだけどな。……オレの望美」
ヒノエくんの声が、私をなだめるように名前を呼ぶ。あなたのわたしと、名前を呼ぶ。
「結局、将臣には追いつけなくてな。……けど、この文を預かってるってヤツから、偶然手に入れたのさ。――白龍の神子って、そういわれてる娘か、その傍にいる弓使いの若者に渡してくれないかって言ってたそうだぜ」
「……うん…。そうなんだ……」
将臣くんは、元気。
――ああ、このことを、譲くんに伝える術があればいいのに。
けれど私はその方法を探す努力もせず、ただヒノエくんの胸に顔を埋めて泣くことしかできない。
私の我侭。
一度だって、口に出せなかった二つの我侭。
朝から、ずっと忙しくて。毎日忙しくて。……それなのに、将臣くんの足取りを追ってくれて。………、それなのに、私のところまで毎日帰ってきてくれた。
ヒノエくんは、そういうところがずるいと思う。何もかも秘密で。……そうして、私がほしいと思っていたものを、何事もなかったみたいに差し出してくれる。大変だったよなんて言いながら、笑って。……いつだって、そう。いつだってこのひとは、私のことを、呆れるくらい大切にしてくれて。
「ひのえくん……だいすき」
大好き。大好き大好き大好き。
――どうしてこんな安っぽい言葉でしか形容できないのか分からず、けれど他に喋る言葉も見当たらず、手に出来ず、私は馬鹿みたいに繰り返した。大好き大好き大好き。あなたがすき。だいすき。
その間も、ぼろぼろ零れる涙は止まらない。困った姫君だね、とヒノエくんが囁いた。
「…泣かせたいわけじゃないって、言ったろう…?」
少しかさついた唇。疲れてる、乾燥した唇が、私の目元にそっと触れる。涙を吸う。
頬に触れる。鼻先に触れる。顎を伝う雫を吸う。唇をふさぐ。
あとは、ことばもない。
ただただ、寄せては返す愛しさの波に溺れて、だいすきとしか言えない唇で、ヒノエくんの身体にうっすらと刻まれた傷口や、いつかの鎖の痕に口付けを、した。
「――探しに行くかい? 姫君」
すっかり冷めてしまった夕ご飯を食べるヒノエくんは、その膝でくったり力を抜いている私の髪を撫でて、不意に呟いた。
一瞬何を言われているのだろうかと考えてから、すぐに思い至る。探しに行くかい。……この文章の主語は、将臣くんだ。
綺麗な箸遣いで、お米を口の中に放り込むヒノエくん。白い歯が、穀物を咀嚼する。
「……」
私は、ちょっと笑った。ヒノエくんがいつも、突拍子もないことを言う私に向かって楽しそうに笑うような感じ。そう。ニコリと。
「どうして? …将臣くんは、元気にしてる。――それで、十分だよ」
「……」
これは、別に強がりとかそういう感情じゃない。…本当に、それで十分だと思ってるんだ。
あの手紙を見たら、――もう十分だって。それでいいんだって、思ったから。
「…多分、将臣くんにとっては、私が譲くんに手紙を渡したみたいな、……そういう感じなんだと思うの。将臣くんにとっての、元の世界が――きっと、私と譲くんだったんだよ」
ヒノエくんの指が、また私の髪を梳いた。
少しだけ、汗ばんだ毛先。ひっかかって、けれどすぐにするりとほどけて。
「だから、いいの。――私が、家族に手紙を送ったみたいに将臣くんの手紙は、届いたから。……届けてくれたから」
それは、とても優しい別離。
子どものとき、いつも夕焼けの時間が嫌いだった。
どんなに楽しい時間も、友達との時間も、赤い太陽が迫るときに終わってしまう。
つないだ掌を、もぎとられるような心地。…やだやだ、まだ一緒にいたいようと泣き喚く子ども。
その頃想像していた別離は、とても怖くて、恐ろしいものだった。
だから、将臣くんとも譲くんとも離れたくないとずっと思ってた。家族と、ずっと一緒にいたいと思っていた。……けれど。
「――そっか」
ヒノエくんは、簡単にそう答えて、私の髪の毛の先に口づけた。私はヒノエくんの膝にしがみついた。
家族の手は、いつか離さなければならない掌。夕焼けがきたら、旅立ちのときがきたら、手を離す。
だけれど、……だけれど、今私がしがみついているこのひとは、永遠をねだっても許してくれる。私も許せると、確信できるその相手。
この手を離したら、死んでしまうかもしれないと思う相手。
「ヒノエくん――、だいすき」
ああ、私はなんて語彙がないんだろう? だけれど、愛してるより、すきより、だいすき、が一番なの。だから、分かってくれるでしょうか?
ヒノエくん。私は、あなたが大好き。
「また、泣いてもいいんだぜ?」
ここにはオレしかいないよ。
優しい声がそう言うけれど、私は大丈夫と首を振る。……うん、そう、多分大丈夫そう。
家族と離れた痛みは間違いなく身体に響くけれど、こうして、ヒノエくんと一緒にいるのだから。
いつの間にかご飯を食べ終わったヒノエくんは、私の額に口付けた。
「好きだよ。……オレの望美」
うん、と私は頷く。
そして、ふふと笑って「今キスしたら、ご飯の味がするね」と言ってみた。
試してみようか。ヒノエくんが意味深に笑う。…うん、じゃあ試してみよう。
だから私は身体を起こして、ヒノエくんにキスをした。
明日は少し時間ができたよという、だいすきな、私のあなた。
だったら、明日は二人で市に行こう。
別に、何も買い物しなくてもいいの。ただ、二人で歩きたいだけ。
それから、あの木に一緒に木登りしよう? 私たちが二人で登ったら、木が悲鳴をあげてしまうかな?
そのときは、根本で二人、お弁当を食べたらいいね。
うん。
そうだ。…ね。あとで、明日でもいいよ、……私の我侭を聞いてくれる?
私のヒノエくん。
私の大好きなヒノエくん。
――ねえ、どうか我侭を言ってご覧? って。
私に出来ること全部、使って、あなたの我侭をきいてあげるよ。絶対。――絶対、ね。
ヒノエED後を思う様捏造させていただきました。
とにかく、私の中で始末をつけたかった家族との別離――もとい、元の世界との別離、です。
しかし、別当の奥方は何してるんでしょうね。普段。
やはり、お邸の切り盛りでしょうか。いまいち想像がつかず、えらく適当に書いてしまいました。
とにかく、ラブラブです。
あと、至極当然のように、閨で時間を過ごされている様子。…おめでたも近いかと存じます。
私が思うヒノエくんは、(相方の考えと同様)結婚まで絶対手を出さないひとなので、結婚したからには手を出し放題だと思います。
ちなみに、男女でこういうシーンをにおわすのは初めてだったので、えらく照れました。
はずかしい!! ホモより格段にはずかしい!!!
まだまだ精進が必要、のようです。アワワ。
珊瑚くんは、趣味です。(私の)
あのヒノエくんが男の子を世話役につけるというのもおかしい気がしますが、まあよほど信頼…? してるのでしょう。
たぶん。