『通過する、いたみ』






 ――たとえば、それは夕闇迫る教室の空気。

 あるいは、授業中、ぼんやりめくった授業では扱わない教科書の一ページ。

 時折教室に落ちるため息は、まるで連鎖反応。
 あちこちでつらなって、まとまって、チャイムを待つ微笑ましい一体感。

 窓の外、眺めるランニングの風景。
 
 お昼休みは、中庭に行く。
 早く行かないといつもの場所がなくなってしまうから、誰か一人が先行隊員として中庭へ向かって。

 移動教室は、旧棟までの道のりが一番遠かった。
 渡り廊下を渡ってから、また階段をのぼらなきゃならない。

 ――たとえば、それはひどく身体になじんだあの場所の感触。


 私はまだそれを忘れていないのだと、ふとした瞬間思い出す。

 その感覚。



*****


 ヒノエに紹介された勝浦の宿の庭には、夏の花のむせかえるような香りが溢れていた。
 どこかで感じたような甘い香りの主が思い出せず、けれど、その心地よさに、望美はうっとり目を閉じる。
 何らかの原因による、河の増水。
 その理由を探るために熊野の道程を引き返す望美たちは、その帰路にもこの宿に泊まったのだ。

「やあ姫君。…花の中に、一際綺麗な一輪があると思ったら、やっぱりお前だったね」

「――ヒノエくん」

 そこへ、ひらり、羽織った上着を風になびかせるようにして、ヒノエが足音も立てずに望美の前に現れた。
 相変わらず恥ずかしいセリフだね、と望美が笑うと、嫌いじゃないだろう? とヒノエも笑う。
 甘い口説き文句を平気で唇に乗せるくせに、時折見せる表情は奇妙に屈託がなく、年相応だ。
 望美はその笑顔が好きだった。明るく無邪気で、屈託ない。――その背に、たくさんのものを背負っているにも関わらず、それすらも我が糧であるといわんばかりに堂々と立つ姿。

「うん。すき」

 だから、望美は正直にそう言って微笑んだ。
 だろう? と、ヒノエはその言葉に、笑う。

「――で? 花の中の姫君。お前は一体、どんな物思いに耽っているのかな」

「…え。悩んでるように見える?」

「ああ。オレのことで思い巡らしてくれていればいいんだけど。――そうでもないように見えるな」

 望美はヒノエの言葉に笑った。
 笑って、そして樹木に触れる。

「そうだね。…痛いのが平気になるのが、いたい、かなあ」

「……? それは何の謎かけだい? 望美」

 聞き返す声に、望美はただ曖昧に笑った。
 …目の前にいる、このひとを。
 あの日、火に包まれ、壁に阻まれてしまったこのひとを助けたいと思って、自ら望んで時空を越えた。
 一度だけ、ただ一人戻った元の世界。
 それをひとたび見回しただけで、望美は決意して、戻ってきた。
 そのときは、ただ夢中だった。――所在の知れない仲間たちも心配だったし、逆鱗を失ってしまった白龍のことも気がかりだった。
 けれど、ただ。……ただもう一度、明るく笑うヒノエに逢いたかった。
 甘い言葉を囁いて、全部嘘なんじゃないかと思わせるような優しい言葉で望美を口説いて。
 …それでいて、時折ひどく現実的で。必要なものと、不必要なものを判断する、頭のいい眼差しも持っているひと。
 逢いたかった。助けたかった。
 オレがお前を守るよ、と冗談めかした口調で。けれど、奇妙に真剣な声音で、囁くヒノエ。
 彼を救いたいと、それだけを願って、そして望美は戻ってきた。――勝浦まで。そして、それから宇治川まで。
 そうして、今はまた勝浦にいる。
 ここは夏なの勝浦なの、と尋ねた望美に、怪訝な顔でヒノエが答えた。…その宿に、また彼らは留まっている。
 そして、曖昧に笑う望美を、あの日のように怪訝そうに。
 …あるいはどこか心配そうに見つめるヒノエを見ながら、望美は考えている。


 ――もうあの世界には戻れないかもしれないと、ひそかに思い始めている。


「……懐かしいことをたくさん思い出すの。でもそれは、全部凄く最近のことなのに、それでもとてもとても懐かしくて」


 なつかしい。

 それは、過去をいとおしむ気持ち。

 ここに来るまでは、確かに日常であったはずのそれらを、過去として、いとおしむ気持ち。


「懐かしい…って思ってる自分が、何だか変だなって思うんだ。だって、私たちはあそこに戻ろうとしているはずなのに。……そこに戻ったら、また同じ日々を味わうはずなのに」

 変だよねえ。
 望美は小さく呟いて、苦笑する。
 触れている、樹木の幹を撫でる。
 ヒノエはそんな望美の肩を触れ、そう、とだけ言って優しくそこをさすった。
 そこに彼女の傷口があるとでも言うかのような、壊れ物に触るような仕草で、ヒノエはそこを撫でる。

「痛いのはほんとう。……まだ全部、生々しいくらい覚えてる、あの場所での毎日。…私の世界。だけど、私はそれを、ここで突然引き剥がされても平気なくらい」

 いたいのが、当たり前だと感じられるくらい。
 ――覚悟、できているみたいで。

「なんか、それが少しいたいなあって。……あは、ごめん。すっごく漠然としてるね」

「そうだね」

 笑う望美の言葉をヒノエはあっさり肯定して、肩を抱く手をいったん外してから、望美を後ろから抱きしめた。
 その優しい感触は、どこか、近しいひとの抱擁にも似て。

 いたいのいたいのとんでいけ。

 …道端で転んだ望美の手を引いて、起き上がらせてくれた父親の、おまじないにも似て。


「ありがとう。ヒノエくん」


 望美は小さく呟いて、ほろりと笑った。


 懐かしい日々。

 思い出すと、痛く切なくなるような日々。

 それを愛していたと、いとおしんでいたと、過去形で思い出してしまうのは何故だろう。


 望美は、背後に触れるあたたかな感触に、その疑問の答えを見つけたような気がする。
 だけれど、それはまだ、きちんとした形をとらず、望美の中をさまよって。


 ――まるで、その痛みすら、必要過程であるかのように。


 望美は、あの教室の空気を思って、少しだけ泣き出しそうになった。


 いたいのいたいの、とんでいけ。



 そして、優しい掌が、望美の髪をそっと撫でた。




















2005/01/16(Sun) 表日記にて。
非常に唐突な小話です。たくさん加筆しちゃったので、日記の方のはざくりと消去してまいりました。…比べるのは…あの、どうかご勘弁、を。