『変わらぬ月 変わるわたし』



 ――ふっ、と、一瞬だけ意識が飛んだ。

 ずっと気を張り詰めさせていたせいかもしれない。慣れない野営のせいも、あるのかもしれない。
 望美は、ぐらり揺れた世界に、慌てて瞬きをした。
 眠っちゃだめ、とだけ、反射的に小さく呟く。…ほんの一瞬の転寝。
 僅か、瞼の裏を躍ったのは、あの日の真紅。
 ――恐ろしい。怖い。……目にくっきりと焼きついた、あの日のくれない。
(だけれど、とてもきれいだった…。…だから、余計に怖かったのかもしれない)
 …ひとつ、ふたつみっつ。
 何度か瞬きして、望美は僅かに冷えてしまった指先を擦り合わせた。
 少し離れた場所で、篝火が燃えている。…少し離れた場所では、未だ意識を取り戻すことなく眠り続ける平家の公達――平敦盛。
 ……三草の戦。
 既に一度経験したことをもう一度やり直している。奇妙な、リアルな既視感。
 以前と違うのは、ここに、この先のことを知っている自分がいることと――それから、六波羅からついてきてくれている天の朱雀、ヒノエがいること。
(……)
 空に浮かんだ月。
 皆の発する言葉。
 叫ばれる、戦の伝令。――その殆どが、全てあの時空の彼方と変わりないようなのに。
(――いいえ。ちがう)
 望美は空に浮かぶ月を真っ直ぐ睨みつけるようにして、強くそれを否定した。
(ちがう。……私が、変えてみせるんだ。この先の運命を)
 心の中で、祈るように挑むように、そう、否定した。



*****


「…もう、大分いいみたいですね」
 敦盛の怪我を一通り見終わった弁慶は、そう言って敦盛に、それから望美に微笑みかけた。
 望美はその言葉に安堵の息をつき、ともにいた譲はそんな望美の様子に安堵する。
 先ほど目を覚ました敦盛は、そんな彼らを、どこか居心地悪そうな様子で見守っている。いや、実際居心地が悪いのだろう。
 …何といっても、ここは竜胆紋の、白旗があがる場所。源氏の、陣なのだから。
「良かったですね。敦盛さん」
 望美はしかし、屈託なく笑い、敦盛に話しかける。彼女が呼んだその名前に、弁慶が一瞬眉をひそめた。しかし、彼は結局何も言わず、無邪気に笑う望美の足に、ふと視線を落とした。
「…これは…。望美さん、君も怪我をしているじゃありませんか?」
「え?」
 幾ばくか、責めるような調子で名前を呼ばれ、望美は慌てて示された足に目を落とす。
「あっ、本当じゃないですか。先輩、どうしてもっと早く言わないんですか!」
「え、だって気付かなかったし…」
 陣へ戻る最中、草か何かで切ったのか、はたまた怨霊との戦闘の中で傷ついたのだろうか。
 膝より僅か下に、真っ直ぐ傷がはしっている。ぱっくりと、綺麗に切れているから、余計に気付かなかったのだろう。
 気付くと急に痛くなってきたような気がして、望美は僅かに眉をしかめる。
「…ちょっと、失礼しますね」
 そう声をかけてから、弁慶は膝を屈めて望美の足に触れた。そして暫く傷の様子を検分してから、顔を上げる。
「綺麗に切れているから、痕にはならないでしょう。…ですが、手当ては必要ですね。望美さん、僕らの陣まで来ていただけますか?」
「え、でも…」
 望美はしかし、躊躇ったように敦盛を見る。――先刻、ここで源氏の総大将である地の青龍・九郎と、敦盛の処断について口論をしたばかりだ。
 …まさかとは思うが、自分がいないうちに、この少年が「しかるべき処断」を下されてしまったりはしないだろうか?
 弁慶はその不安を見透かしたように、大丈夫ですよ、と苦笑する。
「…九郎は、律儀なひとですから。君に何も言わず、どうこうすることはありえません」
 具体的な人物名は避けたものの、その発言から自分のことだと気付いた敦盛も、顔を上げ、躊躇いがちに口を開いた。
「あの…。…私なら、もう大丈夫だ。……貴方の、傷の手当てを優先したらいい」
 …逃げたりはしないから。
 彼は小さくそう付け加えて、また口を閉じてうつむく。
 それに重ねて、譲も「行って来て下さい、先輩。…俺がちゃんと、ここにいますから」と頷いてみせた。
「………」
 弁慶たちが寝泊りしている陣と、ここは、そう離れているというわけではない。
(ちょっと傷の手当てするくらいだし…、平気かな)
 ズキズキと、足が痛むのも事実だ。――結局望美は、彼らの言葉通り、弁慶に傷の手当てをしてもらうことにした。
「…すみません、弁慶さんだって忙しいのに……」
「いいんですよ。…それに、君のように可愛らしいお嬢さんの手当てが出来るのなら、僕も役得というものです」
「……そ、そうですか?」
 このひとは何でこうなんだろうなーと苦笑しながら、望美は弁慶に続いて陣の中に入った。
「少し待っていてくださいね。ああ、よかったらそれにかけていてください」
「…これ、ですか? ……あの、これって、九郎さんが座るとこじゃ…」
「九郎がいないのだから、かまいませんよ。それにいたとしても、怪我人をいつまでも立たせておくわけにはいられません」
 ふふ、と弁慶はいつものようにさらり、笑って、清潔な布と、磨り潰した薬草を取り出した。
 それから、冷水の入った布袋を手にし、少し沁みますよ、と声をかけてから、冷水で傷を洗う。
「……っ」
 綺麗に切れた傷とはいえ、やはり沁みるものは沁みる。声を殺して眉を寄せる望美に、少しの辛抱ですから、と声をかけ、弁慶は手際よく薬草と、清潔な布を傷口に巻きつけた。
「…さ、これでいい。また、明日の夜になったら取り替えますから、僕に声をかけてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
 ちょっと大げさじゃないかな、と望美は自分の足を見下ろして決まり悪く思ったが、こと怪我や病気に関しては、弁慶に逆らえない。
「おい、弁慶。いるか?」
 ばさり。
 そこへ、唐突に入り口の布が跳ね上がった。…声をかけると同時に顔を覗かせたのは、弁慶らと同じく八葉であり、また天の朱雀であるヒノエである。
 しかし、彼は中にいた望美と目が合って、すぐに「まずい」という顔をして、左腕を背中に隠した。
「おや、ヒノエ。どうしたんですか? 君が僕のところへ来るなんて、珍しいですね」
 ……アンタって、分かってて言うからタチ悪ぃよな。ホント。
 弁慶のにこやかな問いかけに、ヒノエは物凄く嫌そうな顔をして呻いた。その言葉に、望美はきょとりとして、先ほどヒノエが隠した左腕を見ようと立ち位置を変える。
「…ヒノエくん、左腕、どうかしたの?」
「………」
 参ったね。
 心配そうな望美の声に、ヒノエは言葉通り「参った」顔で、先ほど望美たちの陣まで気付け薬を持ってきたときには、白い上着の陰になっていたために見えなかった左腕を、ひらり、望美の前に晒す。
「…お前には、なるべく見せたくなかったんだけど」
「……!」
 ――望美のように戦闘で傷を負ったのだろう。
 身軽なヒノエらしくもなく、その腕には細かな裂傷が幾つも残されていた。…未だ生々しい傷口からは、血を噴き出しているものも、幾つかある。
「ひどい傷じゃない…! どうしてさっき、黙ってたの!?」
 傷自体はどれもそう大きなものではないが、とかく痛そうな幾つもの傷口を晒したまま、ヒノエはひょいと肩をすくめた。
「別に。言うほどのことじゃあないだろ? …姫君とは、どうせならもっと楽しい話がしたいし、ね」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう…! 早く手当てしなくちゃ…、あの、弁慶さん!」
 血相を変える望美に、弁慶は苦笑して「具合が悪いときにきましたね、君も」とヒノエに腕を出すように促した。…しかし、そのときまた、陣の入り口がばさりと跳ね上がった。
「もし、弁慶殿…! いいかしら…、怪我人がひとり、熱を出して苦しんでいるのよ」
 早く来て、と叫んだ彼女は、望美の「対」である黒龍の神子、梶原朔であった。傷を負った兵らの様子をみていた彼女は、陣内にいた望美やヒノエに目を留めて、貴方たちも怪我をしたのね、と気遣わしげな目をしたが、すぐに道具一式をまとめて出てきた弁慶に「急いでください」と頷く。
「望美さん――、申し訳ありませんが、ヒノエの手当てをお願いできますか。薬草は、そこにおいてあるものを使って」
「あっ、はい! まかせてください…!」
「…ちょ…、おい待てよ、弁慶っ」
 慌しく出て行く弁慶の残した言葉に、ヒノエは僅かに眉を寄せたが――…、だからといって勿論弁慶が立ち止まるはずもない。
 ばさ、ばさり、と陣の入り口がまた慌しく下り、残された二人は何となく顔を見合わせた。
「……」
「じゃ、あの……ヒノエくん」
「……。……そうだな」
 実際、片手では手当てしづらいんだよな、と呟いて、ヒノエは観念した様子で望美に左腕を差し出した。
 細かく砂や、小石が傷口にへばりついている。戦闘で? と眉をひそめ、とりあえず、と冷水の入った布袋を手にした望美に、ヒノエは「ちょっと、失敗したのさ」とだけ苦笑した。
「大したことじゃないよ、姫君」
 彼は実際、そう言いながら本当にどうでもよさそうな顔で、傷口を見ている。
 腕が立つと言っても、ヒノエは望美とそう変わらない年頃だ。あるいは、このくらいの少年にとって、このような傷は、日常茶飯事なのかもしれない。
 しかし、望美はその言葉にきりり、と胸を痛めながら、冷水で傷口をよく洗い(さすがに、この瞬間は、ヒノエも僅かに眉をひそめた)傷口に磨り潰した薬草を擦りこむ。
「…いたくない?」
「平気。……ふふ、姫君の手つきは優しいね?」
 どうせならもっと違うときに、優しく腕をさすってもらいたかったけれど。
 いつものようにそんな軽口を叩くヒノエに、望美はしかし笑うこともできず、よく薬草を擦り込んでから、くるくると布を腕にまきつけた。
「――姫君?」
 そんな望美に、ヒノエは訝しげに声をかける。
「……はい、おしまい」
 問いかけには答えず、望美は手際よく包帯代わりの布を巻き終えて、……そこでようやく、少しだけ笑った。
 細かな傷に入り込んだ、小石や砂利。そんなものが、ぼろぼろと、赤黒い血色混じりに足元に落ちている。
 それを眺めるように、ちょっとだけうつむいて。
 …確かに地面を踏みしめているヒノエの足だとか。たった今手当てをしたばかりの腕だとか。
 そんなものに、今更のように安堵してみたりして。
 そうして、望美は、誰にもいえない呟きを、そっと胸の中に落とす。
(……私は一度、あなたを見失った)
 ――目前で、望美を訝しく眺めているヒノエ。彼に説明する言葉も持たないまま、望美はただ曖昧に笑って立ち尽くすしかできない。
(私が巻き込んでしまった?)
 三草の山に。時空を越える前のあの日、ヒノエはいない筈だったのだ。まだ、出会ってすらいなかったのだから。
 …だから、本当はこんな怪我もしなくてよかった筈なのだ。
(……だめだ。こんな風に、ぼうっとしてたらヒノエくんに心配をかけてしまう)
 敦盛らのところを離れてからも、大分時間が経ってしまっている。……早く戻らなくては。
 けれど、思い出してしまったあの日の真紅と、ヒノエの怪我が重なり、望美はかたかたと指先まで震えだしたことに気付いて、唇を噛んだ。
 とまれとまれとまれ……震えていたって、何も変わらないのだから……、怯えていても、何も変わらないのだから…!
(どうしたら? どうしたら、みんな大丈夫でいられる? どの道が、本当に正しい道……? どう進んだら、誰も犠牲にならなくて済むの…?)
 答えは、だが自分で探していくしかない。
 本当に、こうして望美が時空を越えることで、運命が変わるのかどうかもわからないのだから。
 それでも、――それでも、もう失うのはいやなのだ。
 なにひとつ、だれひとり、失いたくない。
 ――あの日、炎の向こうに見失ったやさしいひとたち。
(……わたしは)
 未だ、かたりかたと僅か、震える指先。
 それを叱咤するように、望美はぎゅっと拳を作って、顔を上げた。
「……」
 ヒノエがそんな望美の様子を見て、……彼にしては珍しく一瞬目をさまよわせてから、スッと、上へ向けた手のひらを、望美に差し出した。
「…おいで、姫君」
 先ほどまで震えていた指先。怪我に対する過敏な反応。――訊きたいことは山ほどあるだろうに、けれどヒノエは結局何も訊かず。
 お前が言いたくないなら、仕方ないねと言うみたいに苦笑して、ただ望美に手を伸ばす。
「……うん」
 望美も、何も説明することはできないまま、ちょっと笑ってヒノエの手をとった。
 右足に怪我をした彼女と、左腕に怪我をした彼。
 二人はそのまま手をつないで、弁慶らの幕を出る。
「……いいのかな、帰るまで待っていないで」
「いいんだよ。……折角の二人きりなんだ。邪魔されるのは、癪だろう?」
 既に時空の彼方に失われた未来。
 ……火と壁の向こうにあった暖かい掌が、今ここで確かに望美の手を握りしめている。
 その暖かな感触に、ホッと落ち着く一方、不思議とどこか落ち着かなくもなる。
「――ヒノエくん」
 落ち着いているような、けれどふわふわしているような妙な気分。
 さっき、うとうとした一瞬見上げた月は、相変わらず頭上にあって。――さっき、真紅の夢を見た筈の自分は、けれど今ヒノエと手をつないでいて。
 ちょっとした矛盾を抱えているような、それで正しく秩序が成り立っているような。
(なんだか、少し哲学的なような?)
 そんなことを思って、望美は、そういえば、と考える。
 …そういえば、あの日、三草の戦で、望美も怪我をしたりはしなかった筈だと。そう思い出したのだ。
(――ああ。本当に。この道が、正しいのかなんて、誰にも分からないのだけれど)
 ヒノエが怪我をしたのと同じく、自分も怪我をした。こんな風に、少しずつ、少しずつ、あの日とは違う道筋をたどっていって。
 たどりつく先はどこだろう?
 伸ばした足の行き着く先。風に逆らうようにして進んで、たどりつく場所は?
「どうしたんだい、姫君」
 名前を呼んだきり、何も言わない望美に、ヒノエが肩をすくめて呆れたような顔をした。けれど、彼はすぐ悪戯めいた顔つきになって。
「……てっきり、愛の告白でもしてくれるのかと期待しただろ?」
 などと、嘯いて、笑う。悪い姫君だね、お前はと。
「…なあに、それ。私が悪い姫君なら、ヒノエくんは、…えーと、悪いヒノエくんだよ」
「ふふっ。だけど、そんな『悪いオレ』が好きだろう? 望美は」
 子どものように手をつないで歩きながら、冗談めいた愛の言葉を交わして、二人はそっと笑った。
 …この陣の中では、今もまだ戦で負った傷に苦しむものたちがいる。
 そんなことが、全てなくなればいい。自分の大事なひとたちが、自分が一度でも視線を交わした人たちが、――いいや、全部の、平和な暮らしを愛しているひとたちが、皆安らかに暮らしていければ、いい。
(――それでも、エゴの塊である私は、どこかでこの手をつないだひとを真っ先に守りたいとも思っている)
 望美はそう考えながら、月に祈る。(……ああ、こんな醜いことを考えてしまう自分が、消えてしまえばいいのにとも)
 そうして、いつの間にかたどりついた陣の前。
 彼女はするりとヒノエの手を離し、幕の前に立って「おやすみ」と微笑んだ。
 あっけなく離された掌に苦笑しながらも、ヒノエも「また明日」と手を振る。
 けれど、彼は不意に――怪我をした方の左腕で、軽く望美の手をつかんで。……ひっぱって、腕の中に僅かに閉じ込めて。
「とりあえず。…震えてしまうときや、怖気づいたときは、いつでもオレを呼びなよ。……阿蘇の河原を石踏まず、空ゆと来ぬよ、ってね。――お前のためなら、石も踏まずに飛んでくるからさ」
「……ヒノエくん」
「謎めいたお前も、嫌いじゃないよ。…ま、そのうち気が向いたら話してくれよな。姫君の話のためなら、いつでも時間をあけるから」
 じゃあ、おやすみ望美。
 ……低く囁いて、ヒノエは抱き寄せた望美の髪の毛に、そっと口付けた。
「………、うん」
 望美も一瞬、すり、とヒノエの肩口に頬を擦りつけ――、それから慌てて身を離し、おやすみ、と呟いて幕の中に消える。
 ヒノエはその背を黙って見送り、…それから、ひっそりと自嘲の笑みを浮かべ、男って、馬鹿だよなとくるり、身を翻した。

 全てを知っているようで、何も知らない月が、そんな彼らを黙って見下ろしている。

























二週目、三草の戦にて。
色々な人を出したら、なんかごちゃごちゃした話になってしまいました。まとまりなーい。
しかし私が書く話はどうしてこう、どっか暗いのでしょう。
書けば書くほど、ヒノエからぐんぐん遠ざかって……いくような……。おおう。

望美はずっと一人で黙って運命を変えなくちゃって大変だったけど、そんな望美を見てる側も辛かったのでは、という話。
になりきれてないのが、未熟どころです。とほほ。